「おはよう」というために by joe |
一夜限りとか、行きずりとか、ワンナイトスタンドとか・・・、呼び名はいろいろあるけれど、まさか、自分がそれを経験するだなんて思ってもみなかった。 ゲイである事を覗けば僕は本当に普通の一般庶民で、・・・確かにゲイである事はもうそれ自体が大変なリスクなんだけど、僕には幸いにも最大の理解者である母と2年近く付き合っている恋人もいる。 気の弱い僕には満足すべき環境だと思っていた。 昨日は拘わっていたプロジェクトから土壇場になって外されるという屈辱を味わい、たまたま恋人が出張中で慰めてくれる人もなく、一人で深酒をしてしまいその勢いで・・・。考えてみたら良くあるパターンなのかもしれない。 それにしても・・・僕はいったい何を望んでいたんだろう。 「レモンドロップです」 その声に始めてカウンターに置かれた奇麗なカクテルに気が付いた。 「え・・・これ?・・・僕、頼んでません・・けど」 「あちらの方からです」 カウンターの中の穏やかな声がそう告げる。 「あちらの・・」と言った時に視線を投げたその先を辿ると、店の一番奥に居るビジネスマン風の男が薄く笑いかけた。 あの・・・人・・・・・。 「アルコールは軽めにしておきましたから」 さっき、洗面室へ言った時に酔っ払って足許もおぼつかない僕を見ていたんだろう、カウンターの男は労るようにそう言った。 クルージングバー「カオス」。 表向きは普通のバーと変わらないこの店には、同性との「特別」な出会いを求めて夜毎、寂しい男達がやってくる。 もちろん、ナンパだけが目的じゃなくて、同性同士のカップルが他人の目を気にすることなくくつろげることも可能なこの店は、ゲイ同士の社交の場にもなっている。 僕がここに来たのは、今の恋人に連れて来られたのが最初だった。 それまで、その手の店があることは知っていても、引込み思案な自分には縁のないものと思っていた僕は、なんとも言えない緊張感に身が竦んでしまった。 「そんなハイペースで飲んだら、潰れるぞ」 なんて言われたのを覚えている。 「あ、・・・つい・・・緊張して・・・」 「良太って、ホント可愛い奴」 そう言って笑う蕩けそうな表情にドキドキした。 2年前の夏、入社してまだ間もなかった僕は、上司に頼まれた書類をクライアント先に届けに行くところだった。 炎天下の中、外苑前から徒歩15分ほどの道のりを歩いていると、急に後ろから声を掛けられた。 「すみません、ちょっといいですか?」 振り向くと、短く刈り込んだ髪をデップで立たせ、ベージュのランニングシャツにカーキ色のカーゴパンツを履いた精悍な顔立ちの若い男が立っていて・・・。 ・・・自分の知り合いには絶対いないタイプ。 第一印象はそれだった。 「あの、突然すみません。僕、美容師なんですけど、カットモデルを探してまして・・・」 外観には似合わない丁寧な物言いに好印象を持った。 「カットモデル・・・?」 「ええ、美容系の雑誌でページを持ってるんですけど、そのモデルになってくれる人を探してるんです」 いったい何のことを言っているのか見当も付かなかったが、何となく彼とそのまま別れてしまうのが嫌で、僕らはお互いに名刺を交換し合って別れた。 自分からアクションを取るだなんてことを考えもしなかった僕は、僅かな期待感と多くの諦めを胸に彼からの出方を待ったが、その後、しばらく連絡は無く、「きっと他に適任が見つかったんだろう・・」なんて思いかけていた。 再開したのは2ヶ月後。 最初の時と全く同じ場所でだった。 「連絡をしたかったんだけど、名刺を無くしてしまって・・・」 どうしても逢いたかったなんてことまで言われて、恥ずかしさと嬉しさに困惑したのを覚えている。 「でも、僕・・・そんなつもりじゃ・・・」 一人でこの店に来た以上は、そんな言葉に信憑性がないのは承知していたけど、紛れもない本当の言葉だった。 どうしようもない気分のモヤモヤを払いたくて、僕はアルコールに逃げる道を選んだ。・・・でも、一人で飲みに行く場所なんか全然検討が付かなくて、何回か来ていて、店の人の顔も知っている「カオス」に足を向けていた。 「・・・困りましたね・・・」 酒を頼んだ相手に恥じをかかせてはいけないといった表情で見つめられ、僕は袋小路に突き当たった。 「じゃ、すみません・・・・頂きます」 『良太は回りに気を使い過ぎなのよ。もっと我が侭になっても恐い事なんてないんじゃないの?』 いつもの母親のセリフ・・・。 確かに僕は自己顕示欲が強過ぎて、他人の評価とか視線にいつでも脅えている。 そのくせ、評価されないとどこにも進めなくて・・・。 こんな自分に嫌気がさす事もしばしばだったけど、臆病な僕にはそこから逃げ出す術も見つけられなかった。 もちろん・・・・。 もし、この意気地なしの殻を破って、違う自分になれたなら・・・そう願っていないわけじゃない。 でも、それは待っていても手に入れられない事だと分かっていた。 そして、自分からそれを掴みに行ける勇気がないことも分かっていた。 「返って気を遣わせたかな?」 突然の背後からの声に背中が跳ね上がってしまった。 「・・・い・・いえ・・・。すみません・・・ごちそう様でした・・・」 振り返る間もなく、男が隣の席に腰を掛ける。 「駅以外で会うのは初めてだね」 「あ、・・・・・・そうですね・・・」 「僕の事気が付いてくれてたんだ」 僕の言葉に嬉しそうに笑う隣の男に心臓が早鐘を打った。 半年前に前のアパートが手狭になったので引っ越して来た祐天寺のアパートは、社会人3年めの身にしてはちょっとばかり背伸びしすぎた感もあったが、立地の良さや交通の便などやや高い出費には替えられない利点も多かった。 会社のある広尾までは直通で行く9時8分の電車が丁度良くて、毎朝決まって前から3両目の一番後ろに乗るのが僕の習慣となっていた。 ラッシュのピークは過ぎていたが、それでも悠々で乗り込めるほどの余裕はない電車。 朝が苦手な僕はドアーが締まるのと同時に乗り込むなんていうこともしばしばあって、いつも入り口の人混みを押しのけるようにして潜り込んでいた。 その人に気づいたのは多分引っ越して直ぐだったと思う。 珍しく早めに着いた駅でまだ働かない頭を持て余していると、ふと凛と張り詰めた姿が目に飛び込んで来て・・・。 大袈裟かも知れないけど、後光が射してるみたいにその人の回りだけが輝いて見えた。 それからは通勤の辛さもなんだか少しだけ軽減されたような気分になって・・・でも、決して浮気心っていうんじゃなくて、アイドルやスポーツ選手に憧れるようなそんな気持ちで見ていただけのものだった。 僕にはちゃんと付合ってる恋人もいるし。 「あの・・・本当にすみません・・・でも、僕、・・・・・・付き合ってる人が・・・」 もう一杯付き合って欲しいと言う男に、しどろもどろでそう言うと、僕はスツールから立ち上がった・・・。 つもりだったのに、腰から下が自分のものじゃないみたいに感じて、ヘタヘタと床にしゃがみ込んでしまった。 「大丈夫・・・?そんなじゃ、一人で帰せないよ」 「へ・・いきです。・・・タクシー乗れば・・・」 言いながら、体の平衡感覚がまるでないことに気が付いた。 「危ないって・・・ちょっと、ソファの席・・・開けて?」 フラフラと立ち上がった僕を片手で抱え込むと、店のスタッフにテキパキと指示を与え、極スマートに僕をソファーに横たえる。 なんだか、このまま全てを任せたいような気分で僕はゆっくりと目を閉じた。 朝、目が覚めて最初に見たものは、武藤さんの逞しい胸だった。 不思議とパニックはなくて、「ああ、そうだった・・・」なんて胸の中で呟いたりして・・・。 「もっと自由に感じて・・・?」 何度も言われた言葉が耳の奥に残っている。 その度に、「もう、許して・・・」なんて恥ずかしい言葉で応えていたことも・・・。 武藤一樹と名乗った人は、酔っ払って正体不明の1歩手前の僕に、「カクテルをオーダーした僕にも責任があるから」なんて言いながら、手厚く介抱してくれた。 暖かくて大きな手が気持ち良い・・・。 時々髪を撫ぜられて、そんな事を考えていた。 その後は、何処かで自暴自棄になっていたのかもしれない・・・。 「家まで送るから」 という武藤さんに半分背負われてタクシーに乗り込んだ。 酔っ払いの慣れの果て・・・途中で寝込んでしまった僕は、気が付くと武藤さんのベッドに寝かされていた。 「む・・と・・・さん・・・・僕・・・あ、すみません。帰りますから・・・ベッドで寝て下さい・・・」 自分のベッドを僕に占領された武藤さんが、フローリングの床にクッションやらバスタオルやらで寝床を作っているのを遮った。 「いいから、そんなこと気にしないでゆっくり寝なさい」 包み込むような声で言われ、一瞬肯きそうになった僕は、慌ててかぶりを振った。 ・・・まだ、頭がふらつく・・・・。 でも、さっきまでの気分の悪さはすっかり翳を顰めてくれていた。 「そんなの・・・困ります・・そんなことされたら・・・・僕、返って眠れないし」 「そう?・・・じゃあ、こうしようか?」 最初は多分、冗談だったんだと思う。 手にしていたタオルを床に落とすと、武藤さんは半身を起して横たわっている僕の脇に腰を下ろした。 なのに、 「・・・・僕・・・寝相は悪くない方ですから・・・」 なんて、とんでもない事を口走ってしまった。 「山崎君って・・・面白いんだね・・・ハハハっ」 僕の言葉に一瞬キョトンとした表情が直ぐに崩れて満面の笑みが広がる。 その笑顔にまた心臓が暴れだした。 「でも、生憎と僕はそんなに行儀がいい方じゃない」 言葉と同時に唇が降りてくる。 火照った体に冷たい感触が広がった。 段々と熱を帯びてきて、ソフトに触れていただけの唇が僕の全身を確かめるかのように這い回る。 「・・・は ・ぁ・・・っ」 耳に聞こえる甘ったるい声が自分のものだと気づくまでに、何度、その鼻に掛かったような声を上げてしまっていただろう・・・。 「いいから・・・声出して・・・」 恥ずかしさに唇をかみ締めていると、柔らかな声がそう言った。 「・・・いやぁ・・・」 「我慢する事なんかないよ」 ―我慢・・・してる訳ではない。 ただ、そんなことをしてはいけないと思っていただけだ。 快感に任せて吐息を漏らしたり、感じる場所で嬌声を上げたり・・・。 そんなことはしてはいけない。 「良太・・・可愛いよ。そうやって気持ちを抑え込んでる姿が好き」 恋人は初めて付き合った相手ではなかったけど、いわゆる「初めての男」だった。 彼の望むように抱かれたい・・・。 その気持ちの裏に「嫌われたくない」という思いが無かった訳ではない。 でも、彼に応える事・・・彼の望む僕であること・・・が愛情だと信じていた。 「良太はこのままでいいんだよ。俺が何でもしてやる。お前はそのままで、俺に任せてれば幸せだろ?」 キスの合間に、セックスの合間に繰り返される言葉。 それが睦言から戯れ言に聞こえるようになったのはいつからだったんだろう・・・。 「ここがいい?」 「あっ・・・駄目・・・やっ・・・」 執拗な愛撫に声が抑えられない。 「どうして欲しい?ちゃんと教えて?」 君のやり方でいかせてあげたいから・・・そんな言葉に全身が羞恥と快感に震える。 「・・・そ・・こ・・・・・あああぁ・・・も・・と・・・・・もっと・・・」 言葉はもう僕の意志を放棄していた。 「もっと、奥?・・・それとも、強く?」 セリフ通りに僕の前後の中心に回された指が動く。 「はぁ・・・・ああっ・・・や・・・やっ・・・・ああっ・・・あああ!」 一際大きな快感が押し寄せて、僕は握り締めたシーツで顔を覆い、そのまま果ててしまった。 「そんなに恥ずかしがる事はないよ。もっと、自分の高まりを楽しんだらいい」 ―楽しむ・・・って・・・? 「君にとってセックスはただ与えるものなの?体はこんなに素直に欲しがっているのに」 「・・・うう・・・んぁ・・・」 後ろの窄まりを冷たいものが湿らした。 「僕からも取っていいんだよ・・・」 熱い固まりが入り口にあたり、そのままゆっくりと入ってくる。 「・・・・ああ・・んっ・・・い・・い・・・」 律動に気持ちまで引きずられていく。 「武藤さ・・・・むと・・・そ・・して・・・あっ・・そのまま・・・ああぁ・・・!」 貪るように腰を振り、声を上げ、僕は2度目の射精と同時に武藤さんからも熱い飛沫を奪った。 目を覚ました僕に随分前から気づいていたんだろう、武藤さんの声はしっかりとしたものだった。 「駅で君をいつも見ていた。最初はなんだか酷く頼りない感じだな・・・なんて思ってね」 申し別けなさそうに苦笑する仕種に何故だか胸が疼いた。 「いつも・・・何かに迷っている目だった。出口が見つからなくてもがいてるような・・・」 ―もがいてなどいたのだろうか・・・。 「きっと、誰かに救い出してもらいたいと思っていたのかな・・・。僕はいつでも受け身の人生で、それから逃れたい自分と、逃れた後での責任に押し潰されるであろう自分を憐れんでいたんだと思う・・・」 「どうして、そんなに自分に厳しいの?もっと素直に生きる権利があるはずなのに」 「権利・・・?」 「君の目はそれを望んでいると思ってるけど?」 「僕の目は武藤さんを見てました。・・・どうしてもあなたに目が行ってしまって・・・。救い出してくれるのはもしかしたら武藤さんかも・・・なんて思っていたのかな。でも、もう、そんな風に望んでいるだけの自分にはさよならしたいんです」 「そう・・・・じゃあ、僕は必要じゃなくなった?」 「すみません。僕、自分の弱さから逃れるために武藤さんと寝たんです・・・。あなたを利用してしまいました」 僕の言葉を肯定と受けとった表情が僅かに寂しそうに歪んだのを後に、軋む体に鞭を打って武藤さんの部屋を出ていった。 『3件のメッセージをお預かりしています』 留守番電話のテープからは僕の不在を疑心暗鬼する恋人の声が流れ出た。 『良太?ちゃんと帰った?・・・もう一度後で電話する・・・』 『良太・・?こんな時間にどうした?・・・心配だから戻ったら連絡して?』 『・・・良太。・・・・』 最後のメッセージを聴き終わらぬうちにテープを解除した。 僕は何を怖がっていたのかな・・・。 彼に見捨てられる事? それとももうとっくに彼から離れてしまっていた気持ちを認める事に・・・? さあ、どちらに進もうか。 着替えを済ませて、毎朝のように会社へ行く準備を整える。 朝の澄んだ空気の中で深呼吸をして、駅までの道のりを踏み出した。 歩きながら僕の体に纏わり着く迷いを払い落としてしまおう。 そして、駅で会うあの人に「おはよう」というために。 |