『いつか、きっと、ずっと』/堀内 桂 |
あの人は今夜もこの店に来てはくれないのだろうか――。 もう指定席になりつつあるカウンターの奥まった席に腰をおろし、出入り口であるドアを見つめながら石田雅彦は軽くため息をついた。 この店――カオスで、彼、恵本と初めて逢い、一夜を共にした。 だが、それだけだ。 別れ際でさえ、フルネームはおろか連絡先のひとつも教えてはくれないで、ただ『あの店で』の一言を残して部屋を出ていった。 そもそも、恵本が来てくれる事さえアテになんかならないんだろう。手近にあった店のマッチを取り、煙草に火をつける。煙草の煙とともに続けざまにため息をついて、重厚なドアを再び見つめた。カウンターの中ではもうすっかり顔馴染みになったバーテンダーが、きれいな八の字を描きながらシェーカーを振っている。 急にバタンと乱暴にドアが開き、ずぶ濡れのサラリーマンが二人連れだって入ってきた。 「いやー、まいったよ。いきなり降ってくるんだからさ」 「朝は晴れていたから安心してたんだけど」 二人が店の人間からタオルとおしぼりを受け取り口々にぼやいているのを見ながら、あの日も雨が降っていた事を石田はぼんやりと思い出していた――。 あの日は朝からぐずついた天気で、ことのほか蒸し暑かった。新しく担当した取引先で昔付き合っていた恋人とばったり会った。入社した時からの取引先なんだと語るその左手の薬指には、自分達が別れる原因となった細いシンプルなリングが鈍く光り、『今度、飲みにいこう』とまるきり久し振りに会った友人のように肩を叩いて名刺を渡す男に、なんの感慨もなく機械的に持っていた名刺を渡していた。 それからその日はどう会社に戻ったのか覚えていない。ただ、気が付いたら定時になっていて、久し振りに定時あがりができる同僚達が降り出しそうな雨にもめげず飲みに誘うのを断わって会社を出た。 なんとなく独りで居たいのに独りで居たくなかった。雨を理由に断わったのに、降りはじめた雨の中石田はカオスへと足を向けた。 店に入ると、小雨で濡れそぼった石田にあたたかいおしぼりが手渡された。そのぬくもりを手にして、ようやく今日はじめて人心地ついた気がした。店の中は平日のせいか静かで、品のいいインテリアが落ち着いた雰囲気をつくっている。ゆっくりとした旋律がこわばっていた肩をほぐしていった。 来た時間が早かったせいか、雨足が影響しているのか店はすいていた。カウンターが空いていたのでそのまま腰を降ろし、きつめのカクテルを頼む。あおるほどには飲めなくて、ただ時間を潰すように飲んでいた。 お互い納得ずくで別れた恋人の事を思い出し、モヤモヤした気分のままグラスを重ねる。だから、恵本が店に来たときも石田は好みのタイプが来たな、と他人事のように考えていた。いつもなら、きっと真っ先に声をかけていただろう。カオスの他にあと二、三軒出入りをしているゲイバーがあるが、はじめて見る顔に多少なりとも好奇心をそそられた。 雨はまだやまないのか、濡れた毛先が恵本の顔に貼りつき雫をたらしていた。それを拭う姿がとても頼りなげに見える。だが、借りたタオルを返したときに聞こえた声はことのほかしっかりしていて、そのアンバランスさに石田は恵本から目が離せなくなった。 恵本が来た頃には店も混み出してきていて、後ろのテーブルはほぼ埋っていた。先週あったパーティのせいか、カップルの客が多い。そうして店の中をぐるりと見渡すと恵本はカウンターに近寄り、石田のふたつ隣に座った。 さっきまでのモヤモヤした気持ちはどこへやら、石田はグラスを傾けながら恵本を見つめていた。自分自身、ゲンキンなものだと思うが、失恋には新しい恋が特効薬なのだ。そう言い訳しながら、横目で恵本の首筋に視線を這わせる。 白くて細い首だった。薄明りの店内でそこだけが、ぼうっと浮かんでいる。そのまま視線を上げると少し薄い唇が寒さのためか色を失っていて、フレームの細い眼鏡の奥に切れ長の瞳が何かを耐えるかのように伏せられていた。沈痛とも言える表情を盗み見て、石田は声をかけあぐねてしまった。手をこまねいていると、グラスを片手に持ったスポーツマンタイプの今時の男がきれいに日焼けした顔から白い歯を覗かせ、恵本の隣の空いた席へとやってきた。 二言、三言言葉をかわして男は席を離れた。去り際に石田を見やり、苦笑いを洩らす。やはり敵は難攻不落らしい。その後も何人かの男が恵本へと声をかけてきた。もちろん石田にも声をかける者もいない訳ではなかったが、石田がこうして時々純粋に飲む為だけに店に訪れる事を知っている人間が多かったせいか、ほとんどの人間が新顔の恵本へと誘いが集中した。 いいかげん断わり疲れたのか、恵本が軽くため息をつく。その仕種にドキッとしながら、石田は覚悟が決められないでいた。今までいろんなタイプの男達が恵本に声をかけてはすげなくされている。どんなタイプならこの男の眼鏡に適うのか――。そしてまた別の男が恵本へと近付く。かけられた声を無視するように、ふいに恵本が石田の方に身体を向け、それまでほとんど閉じていた口をゆっくりと開いた。 「君は、俺の事誘ってはくれないの」 まっすぐな視線に見つめられて石田は吸いさしの煙草をもう一度深く吸った。どうやら彼の眼鏡に適っていたのは自分だったらしい。思いのほか強い視線にどぎまぎする内心とはうらはらに、ゆっくりとした仕種で煙草を灰皿に押し付け、石田は恵本と向かいあった。 ホテルに着いた時にはどちらも傘を持っていなかったので、お互いのスーツが濡れてしまっていた。雨をよけるように抱き寄せた身体は傍目から見るより肉が薄く、ほっそりしていた。そのせいかカオスで見た横顔よりもよけいに青白く見える。石田は先にシャワーを勧めると、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。ぼんやりと激しくなっていく雨を眺めてながら、酔い醒ましに半分ほど一気に飲む。 シャワーを浴びていくぶんか顔色が戻った恵本がバスルームから出てきた。その姿を見て、石田が固まる。 一瞬で欲情した。 綺麗だった。 色白の肌がうっすらと薄紅色に染まっている。唇も色が戻り、熟れたように赤く光っていた。バスローブからのぞくうなじが匂たつような色香を出していて、少しはだけられた胸元は、このまま乱暴に左右に開いて脱がしてしまいたい。そしてそのまま、その肌にむしゃぶりつきたいと石田は思った。 「それちょうだい」 石田の内心の葛藤など関係のない様子で、恵本が飲みかけのペットボトルを受け取る。ゆっくりと唇がつけられて喉がコクリと音をたてていく。その仕種を見ながら慌てて目を逸らして石田はバスルームへと逃げた。 どうしようもない下半身の熱をなんとか静めて部屋へ戻ると、恵本が所在なげにベットに腰掛けてテレビのチャンネルを変えている。 近付いた石田に気付いた恵本が顔をあげた。そのまま彼を見つめる瞳におびえたような影が走る。はじめて恵本の感情があらわになったのではないかと思いながら、石田は手のひらを恵本の頬にふれた。 恵本の瞳を見つめながら、そっと唇を指でなぞる。薄く開いた唇に自分のそれを重ねて、舌を滑り込ませた。奥に引っ込んでしまった彼の舌を根気よく促しながら絡めていく。 ふれた唇は思ったよりもやわらかくて、舌は極上に甘い。苦し気に寄せられた眉間を見ながら、名残り惜しげに深く重なった唇を離し、変わりについばむようなキスを唇に、頬に、こめかみに、額にと落としていく。 「名前、教えて…」 耳元にそっと囁く。石田のそのささやきに恵本の身体が反応し、バスローブの端をぎゅっと掴む。だがその問いには答えがなかった。 「あ、あっ」 名前を教える気はないが、その口からはあられもない声音が漏れる。その反応に石田はもっと恵本の声が聞きたくて、半ばムキになったかのように全身にキスを降らせる。その度に恵本の口からはあえぎ声がとめどなく出され続けた。胸の飾りに唇を寄せると、閉じかけた唇があっけないほど開いて、その声音が石田の下半身を直撃する。 過敏ともとれる反応に感じ入りながら、立ち上がりはじめた恵本の雄を口に含んだ。すると恵本はなおいっそう強くむせび泣く。それにはかまわず石田はゆっくりと舌を使い恵本の反応を楽しんでいった。溢れでてくる先走りを舐めとりながら、クセのない味だと石田は思った。 なにも名前を教えてくれない相手はこれまでにもいた。そんな彼等とは一夜だけの繋がりで、石田もそれで納得していた。――それでも、今夜限りでもいいから彼の名前を呼んで、この身体を抱きしめたいと思った。 何も云わないからなのか、彼の瞳は時々、何かを求めるように石田を見ていたから…。 強く吸われて恵本が欲望を石田の口腔に放つ。そのまま放たれたものを嚥下し、舌できれいに舐め取った。 「もう…、いい、から……」 快楽に身体中をほてらせ、息を整えながら恵本が石田の首に腕をからめて引き寄せる。そのまま貪るようにくちづけられた。くちづけられた態勢のまま恵本が石田を押し倒す。自分が先程された行為を石田に恵本が施していく。押し倒してきた割にはたどたどしい愛撫によけいに快感を煽られていった。 同じ様に解放を望む雄が恵本の口に含まれる。恵本は舌使いもどこか慣れていないふうだった。ふと、口外にさらされた感触に石田が恵本を見やると、恵本は石田の腹の上で自らの蕾をほぐしていた。その姿に石田はただ黙ってされるがままでいた。 本当はもっと時間をかけて彼とひとつになりたいと石田は思っていたのだが、頭上に見える恵本は妖艶で、先程までの慣れない愛撫がことさら陰靡さを増し、言葉はおろか指一本さえも動かせない。ただ喉がゴクリと音をたてて動いた。 「…っん・あ、ん……」 悶えるさまがどうしようもなく色っぽい。そのまま恵本は軽く石田の雄を扱くと、潤滑油をまんべんなく塗り付けその上にゆっくりと腰を埋めていった。 「はあっ、んっ。――あぁ…っ」 まだほぐれていないと石田は思ったが、恵本は自分の体重をかけながら石田に身体を貫かせていく。つらそうに見える顔を見ながら止める事もできずにただ彼の熱さを感じていた。 ――隣でぐったりとしている恵本の前髪を梳いてやる。「ん…」と小さくむずかる様子をみせた彼はさっきまで自分の上に跨がり快楽を貪っていた人物には見えなかった。その上、我慢ができなくなった自分が彼を下にしてがむしゃらに責めた。お互いに何度絶頂を極めたのか、途中から数えるのを放棄してしまった。そして軽い疲労感とともにやってきた睡魔に石田は意識を委ねた。 目を醒ますと、隣に恵本の姿はなく、身支度をすませた彼がもうすでに部屋から出ようとしていた。目覚めは悪いほうだが、一瞬にして石田は飛び起きた。全裸のまま恵本に駆寄り引き止める。 「ちょ、ちょっと!! なんで?! まだ名前も訊いてないのに!」 気色ばんだ石田とは対象的に涼し気な顔で恵本はそっぽを向いた。 「名前を云えば帰してくれるのか?」 「…あぁ」 冷ややかな言葉に詰まり、いやいやそう頷いた。 「恵本」 「下の名前は?」 「質問には答えた。その手を離してくれ」 その答えには納得がいかなかった。だって、もっと側にいてほしかった。自分がどんなに彼に惚れてしまったのか知ってほしかった。名前だけじゃない、彼の全てが知りたいのに。 「――今度、いつ会える」 絞り出すように声を出した。これを断わられたら、きっと金輪際彼に会えない――。そんな予感がした。真直ぐに恵本を見つめる。 「あの店で…」 恵本が石田から目をそらし、うなだれる。そんな姿に掴んでいた腕を離すと、慌てて上着のポケットから名刺を取り出し恵本の手に握らせた。 「裏にケータイの番号書いてあるから、だから…」 言い募る石田を振切るように背を向け、恵本は部屋を後にした。 煙草の煙を追っていた石田が、ふと意識を戻すとカランとドアベルが音をたててドアが開く。雨が激しくなってきたのに御苦労なこったと視線をドアに戻すとそこには待ちに待ち続けた恵本の姿があった。 「――!!」 声もなく立ち上がろうをとするが、恵本に続いて入ってきた男に視線が止まった。その男は笑いながらタオルを受け取ると、恵本の頭をガシガシと拭きはじめた。恵本も口では嫌がっているが態度を見れば明らかだ。 どうしようもなくて恵本を見つめるが、そんな石田には気付かずに恵本は男に声をかけると洗面所へと通じる廊下へと出ていった。 石田が洗面所に入ると、背を向けた恵本が洗面所で手を洗っていた。ドアの開く音でふい、と顔をあげる。鏡に映った人物を認めると、恵本の身体が強ばった。 「久し振り、恵本さん。俺がいたの知らなかった?」 皮肉そうに口元をゆがめてゆっくりとした歩調で石田が恵本に近付く。 「石田……」 「あれ? 俺のコト憶えていてくれてたんだ。それなら、さ。あの日別れたときに俺が云ったことも憶えていてくれてるよね」 口元のゆがみが眉間に寄っていくのを感じながら石田は恵本の頬に手を寄せ、なでるように包み込んだ。恵本は何も云えずにされるがまま立ちつくしている。 「…あの日、俺ははじめて会ったあなたにひとめぼれをした。しかも俺が声をかける前に、あなたから誘われて俺は有頂天だったよ。なのにあなたは俺の名前も訊いてはくれなくて…。あなたが一夜限りの相手を探していたんだと分かってはいたけど――」 石田の痛いほどの視線を受けながら、その親指があの時と同じ様にそっと恵本の下唇をなぞる。瞬間、ぞくりとしたものが背中を走り抜け、恵本が身じろいだ。 「いし、だ…」 「だから、もう一度どうしても逢いたかった…! 別れ際でさえあなたは連絡先さえも教えてくれなくて。自分に逢いたきゃココに来いと云ったのはあなただ。なのに、あなたは別の誰かを連れて俺の前に現れる。ひどい人だね」 石田の手に力がこめられる。とっさにくちづけられるような気がして、恵本はあごをひき顔を逸らそうとしたが、そんな思いとはうらはらに添えられた手は離れた。その睨みつけるかのような強い視線の中にあきらめに似たかなしみの色がにじむのを恵本はしびれた頭で感じていた。 そのままじっと二人は見つめあっていたが、石田はふいに身体の向きを変えると、その場から出ていった。 石田が出ていったドアから、男が一人入ってくる。 「大岡…」 「今出てったお子様にすっげー睨まれた。なんか俺の顔についてる?」 大岡と呼ばれた男は屈託なく笑った。 「一度だけあいつと寝た……」 大岡の口元から笑いが消える。そして細く長いため息をつくとしょうがないな、と云う顔になった。 「俺、浮気は許せるから自分でもしてるけど――本気はダメなんだわ」 「……」 「いままでさんざん俺が浮気をしてもおまえはしなかった。だから、そうなんだよ。それに、あーゆータイプはすぐに追っかけたほうがいいと思うけど?」 「夏樹っ!」 「大丈夫だって、また友達に戻ればいいだけだろ」 「………ごめん」 はじめて大岡と出会ったころのように笑いかけるから、恵本はいたたまれない気持ちになりながらも大岡に背を向けて駆け出す。――心が求めているところへと追い付くために。 だから大岡が「自業自得だもんなぁ…」とつぶやいたのを、恵本は知らない。 店を出た恵本が辺りを見回すが、石田の姿は雨に消されていた。どうしようもない絶望感を感じながら恵本が定期入れから石田の名刺を取り出す。 あんなひどい別れ方をしたから、かけるつもりも携帯電話に登録するつもりもなかった。それでも名刺だけは捨てられなくて、そっと定期入れに偲ばせていた。名刺を裏にして書かれてある番号をダイヤルする。何度目かの呼び出しの後に「もしもし…?」と不機嫌そうな石田の声がした。 「すげー嬉しい!!」 子供のようにあけっぴろげに笑う石田に抱きしめられて、ほてった頬を肩口に埋めながら恵本は顔をあげられずにいた。 ――電話をかけた相手が恵本だとわかると石田は電話を切ろうとした。そのままなんとか電話を切らないように頼むと闇雲に辺りを走り回って、ようやく石田を見つけてタックルをかけるように抱きついた。その拍子に持っていた携帯電話が鈍い音をたててアスファルトの上に落ちる。 「ね、俺んチこっからすぐなんだけど…」 石田が恵本の耳朶に吹き付けるように囁く。どうしようもなく身体が震えて、恵本がしがみついた腕に力を入れてすがった。 「いい?」 耳心地のよいその声に、頷くしか恵本はできないでいた。 連れられてきたアパートはほんとうにすぐだった。部屋に入った途端抱きしめられ、お互いに貪るようなキスを交わす。そして、それは器用に石田が、濡れた二人分の衣服をやすやすとお互いの身体から奪い去り、ベットへとダイブした。 「――恵本さん、緊張してる…? この前よりずいぶんとおとなしいですよ」 クスクスと恵本の耳元をくすぐるように石田が囁く。そのからかうような物言いに揶揄が含まれているのを感じて顔を見合わせると、石田がいたずらっこのように瞳を輝かせていた。 「…いじわるだ、おまえ。この前は特別だったんだ――」 はじめて肌を合わせた相手の名前も聞かずに押し倒すように上になった。あの時はつらくて、すごく苦しくて、アルコールの力を借りてようやくタガがはずれた上での醜態だった。しかも忘れるどころか、翌朝になっても自分は全てを憶えていて……。 なさけない気持ちと恥ずかしさで、恵本が顔をふせてしまう。 「云いすぎました、すみません。でも、カオスにあの人を連れてきたバツですよ。――ねぇ、恵本さん。今度は俺のために特別になってくれる…?」 「ええっ?! い、いま? これから?」 石田の云う”特別”の意味を察して、恵本が慌てて抱き寄せられた身体を離そうとする。だが、がっしりとした腕に抱きしめられて、かすかな身じろぎしかできないでいた。その恵本の慌てっぷりに笑いながら石田がもっと強く恵本を抱きしめ、耳元に楽し気に囁きかける。 「あはは、今日じゃなくていいです。いつか、そのうち、ね。だから今夜は俺にリードさせて下さい」 ≪終≫ |