「愛する少女へ」
志麻ケイイチ

 


「ミラクル少女リミットちゃん」


私にとっては大変に特別な作品です。初めて見たのはおそらく再放送。中学1年生の時でした。
当時の私は、魔女っ子路線における、キャラクターの描き分けにネガティブな意識を持っていました。すなわち「ヒロイン」と「その他」を明確に区別する手法です。
ヒロインはずば抜けてかわいいのに、敵役以外の女の子は、とても容貌も地味で引き立て役に回っています。「リミットちゃん」も配役はこの構成でした。
そしてサイボーグという設定。小学から中学にかけてSFに凝っていた私は、「デューン砂の惑星」などのハードな作品も読み始めており、マジンガーZにアポロ計画を重ねて興奮しているような子供でした。
おそらく私は全然期待しないで再放送を見たはずです。
そしてもののみごとにハマりました。

中学生のころに感じていたリミットちゃんは、こんな感じでした。
「この女の子がサイボーグなのはわかった。でもどうして人間以上の能力が与えられたんだ」
「自分が他の子と違うなんて文句を言いながら、本当はミラクルパワーを自慢したくて仕方ないんじゃないか?」
「自分の超人が他の子に知れる恐怖と同じくらいに、優越感を楽しんでいるんじゃないか?」
「この子はミラクルパワーの非人間性を、友達に対してと、お父さんに対して都合のいいように使い分けている、ずるい子なんじゃないか?」
「でもかわいいな」

高校生くらいになって改めて考えると。
「超人的な力を持つ社会的弱者を自覚した子供」
としてとらえていたように思います。
「明らかに人間を超えるいくつもの能力を有しながら、それらは行使する目的を明確にされないままに与えられたものである。それゆえにミラクルパワーは、ハンディキャップとなりうる種類のものであり、他社に対して不必要に知らしめることの意義を見いだせない能力である。彼女がミラクルパワーを誇りとしても、負い目としても、肉親以外の信頼できるパートナーを得られるか否かが、メンタルな健康の維持に大きな意味を持つだろう」

かなり否定的なイメージですね。
だからこそリミットちゃんは、私の中で様々なキャラクターに姿を変えながら今に至っています。
リミットちゃんから得た大きなインスピレーション
「自らの能力、立場を卑下することなく、自らが決めた役割を一所懸命に継続すること」
私が描くキャラクターには、いまでもリミットちゃんの影響を色濃く残す者たちがいます。
「ガッツァ・ラン」のアンドロイド・リミ。
「汎神族2」の従属生物・インスフェロウ。
両者に共通する特徴は、人ではない者が人の中で暮らしていること。そしてそれぞれが与えられた使命を、自らの誇りとして生きていること。
両者ともに「人間ってすばらしい。私も人間になりたい」とは、間違っても考えません。
「私という存在は人に対しての役割を持つ。このことは人にはできないことだ。それはたまらなく誇らしいことだ」
と、考えます。
リミットちゃんを一種のアンチテーゼとして生まれた者たちです。

リミットちゃんの作品世界は、NHKの「中学生日記」に近いリアルなものです。
お父さんが参観日に来れないことや、子供同士の喧嘩がストーリーの骨格を成す話題となっています。
友情や愛情もテーマとしてあるのですが、どちらかというと自慢したい心やかわいそうな自分という、子供らしい感情の起伏が表にでています。
すごすぎる自分がいるために、誰かを好きになりきれない女の子。
リミットちゃんはスーパーマンの力を持った、普通の女の子なんですね。
そんな当たり前のことが見えづらいのは、彼女が良い子として描かれたからだと考えます。

女の子はみんな知っていると思います。
「自分はずるい」ということを。
でもそれは大事なことなんです。
ずるさを隠そうとする心。ずるさを行使しながら人に見せない努力。
そんな心の成長が魅力的な女性を育てると思います。

だからきっと大人のリミットちゃんは、とても素敵な女性にちがいありません。


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