秋がやってきた。街角もすっかり色を変えていた。
まっすぐに立つポプラの巨木が、冷たい風を受けて大きく揺れていた。縮れた黄色い葉が、風に舞って空を覆った。
リミットは、マフラーに口元まで埋めて白い息を吐いた。
黄色いスウェードのジャンパーの背を丸めて大きく身震いをした。短いスカートを履いてきたことを後悔したが、今日は精一杯のおしゃれをしたかった。
「遅いな。パパ……」
今日は父と買い物をするために、街角で待ち合わせをしていた。リミットは携帯電話を持ちたかったが、彼女の身体への影響が検証できていないことを理由に買ってもらえないでいた。
「風邪ひいちゃうじゃないのよぉ」
リミットは足踏みをしながら寒さに耐えた。
「体温調節くらい、自分でできるようにしてくれたらいいのに」
彼女はサイボーグだった。義手や義足のレベルではない。全身に及ぶ高レベルの機能代替、強化が施されていた。
彼女は幼いときに飛行機事故にあい瀕死の重傷を負った。しかし父である西山博士の手によって、サイボーグ手術を施されて一命をとりとめた。博士の手術は、緊急避難的措置であり、単純に重傷の人間の命を救うという目的に則したものとは言い難かった。
リミットのサイボーグ手術における最大の問題点は、粉砕された右肩の復元にあった。手術のまさにそのとき、西山博士がストックしていた肩関節ユニットは、実験用の強化タイプだった。
いまにも命を火を消そうとしている娘を救うために躊躇している時間はなかった。西山博士は強化パーツを持って手術にのぞんだ。彼に科学者としての悪魔の誘惑がなかったかはわからない。
わずか一カ所の右肩関節強化の必然として、全身の強化措置が施された。
リミットは大人をはるかに越える怪力と、運動能力を持つこととなった。しかし幼い彼女への負担を憂慮した西山博士は、出力制御を行う抵抗端子を彼女の体外に用意して、可能な限りの出力低減を実現した。
結果としてリミットは、三つのオプション制御が可能なサイボーグとして命を長らえることができた。
すなわち「ミラクルパワー」「ミラクルジャンプ」「ミラクルラン」の力である。
リミットは、いま13歳。成長にともなって彼女の体内ユニットは、より自然なものへと交換が進んでいた。しかしいまだに三つの力は健在だった。
「もお、パパったらおそいーーーっ」
リミットは寒さに耐えかねて、地下街の入り口に入った。今日は義母であるみどりの誕生日プレゼントを買いにきたのだ。忙しい西山博士が約束の時間に遅れるのはいつものことだった。だが寒空の下、二十分も女の子を待たせるのはあんまりじゃないか? リミットはなにをおごってもらうかと考えだした。
そのときデパートの地下駐車場から一台の車が、ものすごい勢いで飛び出してきた。そして信号待ちで止まっていた車二台に次々とぶつかると、ガードレールを突き破って、向かいの小物ショップのショーウィンドウに突っ込んだ。
道行く人たちは、突然のことに逃げることもできずに、悲惨な事故を見つめていた。まるで映画の一シーンのような非現実感があたりを覆った。
ぼん、と鈍い爆発音がして、車のボンネットから火の手が上がった。すぐにスプリンクラーが水をまき始めたが、車のから人が脱出した気配はない。
「たいへん!」
リミットは走り出した。車道は巻き添えを食った車のせいで、早くも渋滞が起き始めていた。
店内では、通りがかった男性たちが、車内の人を助け出そうとして車のドアをこじあけようとしていた。しかしひしゃげたドアは容易なことでは開きそうになかった。
リミットは大人たちに混じって、ドアに手をかけた。
「だめだ。お嬢ちゃん。あぶないからさがってなさい」
驚いた男性が少女に言った。リミットは彼にウィンクした。そして小声でつぶやいた
「ミラクルパワー」
たちまちドアがミシミシと音を立てて開き始めた。
「おじさん! いっしょに!」
「おおっ、せーのっ」
五人がかりで引っ張ったドアは、異音を発してヒンジごとはずれた。
「うおおおっ」
男たちは自分たちのすさまじい成果に歓声を上げた。
運転席から若い男が倒れてきた。彼を引きずり出した男たちが声をかけた。
「だいじょうぶか! ……っておい。なんで目なし帽なんかかぶってるんだ?」
目元から血を流す彼は、目と口だけが開いた覆面をしていた。
「どけっ!」
罵声が上がった。助手席にいた男が拳銃とバックを持って、開いたドアから飛び出してきた。
「うわあっ」
救助に集まっていた男たちは唐突な展開に悲鳴を上げて下がった。
「どけっ! 邪魔をするな……うっ……」
その男は明らかに怪我をしていた。事故で胸を打ったのか腋を押さえていた。口元から血が流れ出していた。肋骨を痛めているのだ。内臓に傷を負っているのかもしれない。
勇敢な男たちは、リミットを守るようにして店外に出た。
覆面の男はよろよろとおぼつかない足どりで車道へ歩き出した。
向かいのビルの壁に掲げられたブームビジョンが、CMを中断してニュース速報を流し出した。
「銀行強盗事件が発しました。14:12。ハイム銀行いずな支店に二人組が押し入り、現金を奪い乗用車で逃走しました」
通行人のあいだから驚きの声があがった。
「おい、あの男じゃないのか」
目なし帽をとり、人込みの中に消えていこうとしている男を見つめて、誰もが犯人を確信した。しかし銃を持った犯人を取り押さえることはできなかった。
リミットは足早にその場を去ると、犯人とは大きくはずれた方向に走った。既に男はなにも知らない人の波にのまれていた。
「ミラクルラン」
彼女は走るともジャンプともつかない動きで、通行人の間をすり抜けた。
目の前を彼女に通られた人々は、突風が吹き抜けたように感じたことだろう。しかし時速100km近い速さで移動したとき、それがなにかを理解できる人間はいなかった。
蜃気楼のようにリミットは犯人の真後ろに現れた。
鋭い風が彼を襲ったが、負傷した犯人はそのことに気づくことなくデパートに入っていった。
わずかに遅れをとったリミットは、続いてデパートに入った。
バーゲンで賑わうデパートは、すごい人込みだった。
「どこ? もう、じゃまなおばさんたち」
リミットは焦った。犯人を見逃してしまう。
なぜ自分が犯人を追っているのか。リミットはそのことになんの疑問も抱いていなかった。特別な力を持つ自分なら銀行強盗を捕まえることができる。もちろん誰にも言えない。パパも心配して怒るかもしれない。でも私にしかできないこと! リミットはスーパーマンの誇りに胸が高鳴った。
リミットはミラクルランをオンにして周囲を見渡した。高速モードに移行した視覚、聴覚だけを使うように気をつけて、ゆっくりと歩き出した。酔うような不快感がまとわりつく。スローモーションの世界に放り込まれたような違和感に苦しみながら、空気のように軽くなった身体を押さえつけた。
「いた!」
よろよろと歩く男をみつけた。ミラクルランをオフにして急速に通常感覚に帰った。周囲の騒音がステレオのボリュームを回したように戻った。
犯人は人目を避けるように、業務用階段に入っていった。リミットは彼の後を追った。業務用通路は、荷物の搬入を行なう業者や数量チェックを行なう社員で活気に溢れていた。
彼は上の階のボイラー室のような鉄の扉の中に消えて行った。
「ミラクルジャンプ!」
リミットは、階段を一気に飛び越えて彼の後を追った。
扉のむこうは水族館だった。
「……なんで? ……」
リミットは目の前に広がった意外な光景に言葉を失った。
暗い照明に冷たい空気。音のない不思議な空間。
海水の匂いがかすかに漂っていた。通路は水槽から漏れる光に照らされていた。
「あっ、来月オープンする水族館だ」
学校で話題になっていたことを思い出した。室内型の海水水族館。デパートのグループ統合によるてこ入れということだった。まだ準備中のそこは誰もいない。
通路は長い一本道で、壁から天井をアーチ型の透明樹脂で覆われていた。いまはまだ数の少ない魚たちが、ゆったりと泳いでいた。リミットは、自分を見下ろす何匹もの魚の視線に驚いた。これではまるで自分が見せ物のようだ。
「……だれだ」
奥の暗闇から男の声がした。銀行強盗の犯人だ。リミットは、銃に気をつけながら男にむかって歩きだした。
「誰かいるのか」
「…………」
リミットは足を止めた。彼は胸を押さえたまま、あらぬ方向を見ていた。
「おじさん、だいじょうぶ?」
おもわず声をかけてしまった。しかし驚いたのは彼の方だった。
「女? 子供か……?」
「怪我をしてるんですか?」
「……いや、私は病気なんだ」
ーーうそ。逃げるときに怪我をしたくせにーー
リミットは怒りと残酷な正義にほくそえんだ。
「クリフトマン病なんだ。もうあまり目が見えない」
「クリフト……ほんとうに?」
それは最近になって発見された遺伝子病だった。かつては糖尿病の一種とみなされていた。
「ああっ。手足がもうすぐ壊疽するはずだ。長くないのさ」
リミットは彼の顔を見た。目の色が不自然だった。病気……。心臓がどきどきいいだした。子供らしい自然な反応で、病気の人間への恐怖感がわき起こった。無意識のうちに一歩退いていた。
「だ、だいじょうぶですか? 病院いかなきゃ」
「ああっ……いいんだ。これは遺伝病なんだ。俺は馬鹿なことをしてしまった。子供に遺伝することを知っていて息子をつくった。なんとかなると思った。時代が特効薬を作ってくれると信じた。そして事実、薬ができた」
リミットは、ほっと息をついた。
「そお、よかったですね」
「……でもな。金がなかったんだ。保険にも入っていなかった。息子に治療を受けさせられなかった」
「ど、どうして私にそんなこと言うんですか!?」
「あははは。どうしてだろうな。ごめんな。お嬢ちゃん」
「おじさん、さっき銀行強盗した人でしょう」
男は驚いてリミットのほうを見た。しかし視線は泳いで定まらなかった。
「誰か大人の人を呼んでおいで。俺はもう逃げないよ」
「ほんとう?」
「息子はさっき死んでしまった」
「えっ? 車に乗っていた人? だいじょうぶです。みんなで助け出しました。いまごろ病院に行ってるはずです」
「はははははっ。それはないよ。お嬢ちゃん」
「…………」
「俺が撃ち殺したからね」
「……えっ?」
「強盗で金を作ろうとしたが、だめだった。あいつは俺よりも病気が進んでいた。俺が……俺のせいであいつが死んでいくのを見てられるか? 俺があいつを生まれさせなけりゃ、あいつは死ななかったんだ。あいつはまだ……まだ18歳だったんだぜ?」
男は白く濁った目で泣いた。
「俺があいつを撃ち殺したんだ……」
リミットは言葉もなく立ちつくした。彼の言っていることの意味を理解しようと必死に考えていた。ショックに押し流されそうな心を、懸命につなぎ止めた。
「お嬢ちゃん。俺は立川雄司って言うんだ。お嬢ちゃんの名前はなんていうんだい?」
「リミット。西山リミットです」
「リミット? 変わった名前だね。親父さんたちはどんな子に育ってほしいと思ったんだろうね。俺の息子は大地って言うんだ。いつまでもまっすぐに立って生きていて欲しい、なんて思ってさ」
「私の名前……」
「いや、いい名前だ。リミット。なににも負けないで進んでいくような名前じゃないか。リミットちゃんなら、親父さんたちを越えて生きて行ける……さ」
胸を押さえていた男の手が、ぱたんと落ちた。
「……負けないで生きるんだよ……」
「おじさん? おじさん!」
リミットは夢中で駆け寄った。胸から血が流れていた。
「ひどい……どうして」
彼の手から銃がすべり落ちた。
「自分で撃ったんですか!?」
「……どうせ死ぬんだ……あいつを撃った銃で……な」
「なに言ってるんですか! だめです。死んじゃだめ! いま誰か呼んできます」
「……お嬢ちゃん……俺はさっき車の中から見てたぜ」
「な、なにをですか?」
「お嬢ちゃんは……普通の子じゃないだろう。車のドアをひっぺがしたのはお嬢ちゃんだ」
「なに言ってるんですか。大人の人たちといっしょにやったんです」
「俺は目の前で見てたんだ。恐ろしかったぜ」
「そんなことできるはずないじゃないですか。なにへんなこと言ってるんですか」
「俺が死んだら、誰にも知られないですむじゃないか」
「…………」
リミットは頭に血が上るのを感じた。私の秘密!
サイボーグの秘密を知られたら、もう学校に行けない。うかつにミラクルパワーを使った自分を悔いた。
「だから……もう少し……俺のことを放っておいてくれ。なんだったら秘密を知ってる俺を殺してくれてもいいぜ」
水槽から照らす青い光がゆらゆらと、男の顔に不吉な影を落とした。
ーー死の影ーー
リミットは本能的な恐怖に、ぞっとした。
「わ、わたしのせいで死ぬみたいなこと言わないでください」
「…………」
「お、おじさん。おじさん!」
男は苦しそうにうめきながら息をした。本当に死にかけている。
「い、いや……なんで……どうしてよ」
リミットは立ち上がりあとずさった。そして身を翻すと一目散に走り出した。ミラクルランなどではない。転がるように無様に走って鉄の扉を開けた。
ざわっ、と空気が変わった。服や食べ物の匂いが押し寄せた。
「……はっ」
むさぼるように空気を吸った。
ちょうど通りかかった若い店員が声をかけた。
「お客さん。ここは立入禁止ですよ。迷ったんですか」
リミットは驚いて店員を見つめた。見つかった!
「あ、あの」
「ん? フロアに案内ましょうか」
「あの……あの」
店員に犯人のことを話せば、彼は助かるかもしれない。
このまま立ち去れば、彼女の秘密は守られる。
リミットは拳をぎゅっと握りしめた。
「あ、あの。来てください。あっちに変な人が倒れてるんです」
「ええっ?」
リミットは店員をうながして水族館に戻った。
「ここのオープンは来月だよ。だめだなぁ……」
若い店員の言葉はそこで途切れた。
「どうしたんだ?」
彼は倒れる犯人の横に、恐るおそるしゃがみこみ、そっと手を伸ばした。
その手が、がしっとつかまれた。
「だ、大地!」
「うわあっ」
犯人が見えない目を向けて、店員の身体にしがみついた。
「だいち、大地! 生きていたのか。悪かった。大地!」
店員は必死に腕を振りほどくと、鉄の扉に向かって走っていってしまった。
「だ……だいち……」
すでに立ち上がる力もない男は、虚ろな感覚の中で息子の手を探し求めた。
取り残されたリミットは、蒼白な顔を男にむけて立ちつくした。
「……だい……ち」
いままさに目の前で命の火が消えようとしていた。親が子の名を呼びながら、血を流して死んでいこうとしている。壮絶な光景に、わずか13歳の少女は震えるだけだった。
「い……いや。どうしてあたしが……こんな……」
「わるかった……ゆるしてくれ……」
最後の力で這いずる男は、リミットに近づいてきた。目の前に人が立っている。その気配だけが彼を生かしているかのようだった。
壁までじりじりと追い詰められたリミットのブーツに男の指先が触れた。
背中が冷たい水槽にぶつかつた。巨大な魚の影がリミットの上を泳いでいった。
「…………」
リミットは、ぎくしゃくしながら膝をついた。
そして男の手を取った。
「……ミラクルパワー……」
少女は強い力で冷たい手を握った。
たくましい力を感じて、男はかすかに意識を取り戻した。
「だいち……大地……」
「そ、そうだよ。お父さん。僕だよ」
「ああっ、だいち。すまなかった……」
「お父さん。がんばって。いま助けてもらえるから。もう少しがんばって」
「……すまなかった……おまえの人生を……私はもてあそんだのかもしれない」
「なに言ってるのさ。お父さん」
「おまえが生まれたとき……発病したとき……おまえは何度も死にそうになった。そのたびに、おまえには辛い治療を受けさせた……痛がって泣くおまえをチューブだらけにしてまで……私がおまえの死を見たくなかっただけなのかもしれない。私のエゴで……おまえをずいぶん苦しめた……」
リミットは男の言葉に胸が押しつぶされそうだった。まるで自分のことを言われているような気がした。
「すまない……すま……ない」
リミットは両手で男の手を握った。
「なに言ってるんだよ。バカだな。僕はお父さんがいたから生まれてきたんだ。お父さんが必死になって僕を助けてくれたんじゃないか。なんどもなんども」
「……おまえにはたくさん手術を受けさせた……痛かっただろう……こわかっただろう……」
「ぜんぜん平気さ。目を覚ましたら、いつもお父さんがいてくれたじゃないか」
リミットの頬を涙が流れた。彼女は自分の言葉で語り始めていた。
「僕だって死にたくない。生きていたいよ。お父さん」
「俺はこわかったんだ……おまえを失うことが……」
「お父さんはいつだって僕を見てくれてた。がんばってくれた」
リミットは男の手を頬に当てた。
「お父さんが僕を助けてくれる。僕は……とても感謝しているよ」
「……だいち……」
「あなたの息子だよ。あなたの子供に生まれてよかった」
「…………」
男は静かにこうべを垂れた。
「……パパ……」
リミットは駆け込んできた救急隊員に、保護されそうになったのをミラクルランで逃げ出した。
後日、父の西山博士が男の消息を調べてくれた。
男は一命を取りとめた。しかし息子は病気が進んでいたために、事故のショックで即死していた。
男は新しい治療を受けて快方にむかっているらしい。
「リミット。もうひとついい知らせがあるよ」
西山博士が言った。
「なに、パパ」
「あの人にはリミットと同じくらいの娘さんがいたんだ。やはり発病していたが、その子も治療を受けられることになったそうだ」
「ほんと! すごい。よかった」
リミットは、ソファに座る西山博士の首に後ろから抱きついた。
「おいおい、リミット。どうしたんだ」
「ううん。なんでもない」
「こまったな」
「……ねえ、パパ。私のこと好き?」
「なにを言っているんだい。当たり前だろう」
「うん……しってる……パパ、ありがとう」
西山博士は照れくさそうに咳払いをした。
「パパ。だいすき」
了