青青い海の中に浮かぶ宝島・エルアレイ。
真四角の超常の島は、海から襲い来る巨獣の脅威にさらされていた。 今年はすでに二度の襲撃を受けていた。 三度目の巨獣は、四日間に渡る戦いの果てに深く傷つき、海岸に追い詰められた。 巨獣は置き土産とでも言わんかのように、長い尾を海岸に深く突き刺して自ら断ち切った。 激痛に怒り狂った巨龍は、黄色く濁った臭いよだれを飛び散らせた。 逆さ塔のように海岸の岩肌に立った黒い尾は、いつまでもびくびくと脈打ち、汚らしい深緑の煙を上げつづけた。 岩よりも堅い尾は、呪産炉と化して邪悪な法呪札をまき散らした。 追撃したカーベルたち第五中隊は、さらに攻撃を加えて、巨龍を海に追い落とすことに成功した。 彼らの容赦ない砲撃によって、巨龍は二十メンツルの高さの崖から海にまっさかさまに落下した。 海は毒に染まり、どす黒い紫が広がった。 「やった! 撃退したぞ」 兵士たちが歓声を上げた。 「よくやった。みんな」 カーベルは灰色の長い髪を風になびかせながら笑った。 「すばらしい働きだった。負傷者を回収して戻るぞ」 「はっ。戦死者も出ず、最高の作戦でした」 中隊長のシーブルが応えた。 「今夜は祝いですな」 「そうね。私からみんなに奢らせて」 「おおっ!」 「最初の一杯だけよ……」 そのときポンと、断崖の向こうから破裂音がした。 なにかが海中から打ち上げられた。 カーベルは鋭い法呪の眼で巨龍の攻撃に備えた。 空高く上がった白い球。 それは空中で花火のように破裂した。 そして昼の目を眩ますほどの閃光と、鍵楽器のような音をまき散らした。 巨龍の攻撃! 中隊長シーブルが命令した。 「対空戦闘用意!」 同時にカーベルの法呪文が走った。 「散り蒔きてあおい寄せ来る塵あくた。定めし枠に寄りて留ま……」 襲撃者たちが拡散することをさまたげ補縛するための法呪だ。 しかし彼女が法呪文を言い切る前に襲撃者たちは法呪に捕まった。 カーベルが一瞬で作りだした敵捕縛の白い円。 花火のように散った光る者達が、スポイトで吸い取られる微生物のように白円に殺到した。 敵はあまりに質量が小さすぎた。 カーベルが考えたよりもはるかに軽い襲撃者達は、白円に留まらずに突き抜けてしまった。 光る小さなものたちは、カーベルの甲冑にぶつかって飛び散った。 息を飲むカーベルの全身に沿って、攻撃的ではないなにかが枯れ草のようにまとわりついた。 「カーベル様。ご無事ですか」 シーブルは対空配備のまま振り向いて聞いた。 巨龍という対極大生物戦闘の用意をしていた彼らは、あまりにか弱い攻撃に拍子抜けした。 「ええ。平気よ。いまの……」 その瞬間、カーベルの身体がはじけた。 「あっ」 小さな悲鳴を上げて、彼女の身体が宙に舞い、激しく地面に倒れこんだ。 カーベルの赤金色の甲冑が、パンパンに膨れ上がった。 喉元や背中の隙間から、緑色の塊が溢れだした。 甲冑の中に何者かが侵入したのだ。 「カーベル様!」 兵士たちは驚き叫んだ。 植物だった。すさまじい勢いで葉と茎を繁らせた緑は、カーベルを呑み込んでしまった。 すさまじい量。それに見合う根がどこに向かったのかを兵士たちは想像して絶望感に捕らわれた。
帰還した第五中隊を、エルアレイの首都エルワンの人々は歓迎した。 凱旋の宴も戦士である彼らの大事な役割だ。常に超越の侵略者の襲来を受けるエルアレイにあって、勝利を祝い犠牲者を悼み、明日の生活を護る祭は、とても大事な儀式だった。 カーベルが敵の攻撃に倒れたことはすでに報告されていた。 しかしそのことと祭を祝うことは別だった。第五中隊は盛大に迎えられた。
対法呪医療施設「ナメノイヤシ」は、深夜にもかかわらず大勢の人間が走り回っていた。 部屋が百もある施設の窓に、次々と明かりが灯されていった。 「カーベル様到着! 緩衝プディングベッド用意」 「プディングに移送。乗せ変えるぞ。1、2、3」 「甲冑脱がせ! 因果療法士、甲冑解呪法呪文唱せよ」 今日の祭をカーベルが欠席してもよい。しかし明日からの戦いのために彼女を失うわけにはいかなかった。 エルアレイにおける法呪戦の頂点に立つ彼女は、かけがえのない存在だった。 医師たちは、彼女を救うためならば、島中の従属生物を贄にしても良いとまで考えていた。 若い修士女が何人もタオルと法呪札を手に走り回った。 桜を燻じた煙りと水蒸気が充満する「ナメノイヤシ」の玄関に、巨大な灰色の怪人が姿を現した。 人に倍する巨体をローブに包んだ戦士。インスフェロウだ。 彼が歩いた後には、煙が金の色を帯びて一瞬の発光を見せた。ゆるやかに渦巻く煙りをまといながら、フードの奥の金色の瞳をぎらぎらと光らせた。 インスフェロウは集中治療室に向かった。
「あああーーっ!」 すさまじい悲鳴が夜のしじまを破った。 「カーベル様。どうかカーベル様、おきばりを」 因果療法士サインは、全身でカーベルに覆いかぶさり暴れる彼女を押さえつけた。 無敵を誇るエルアレイの戦士が、小さな草に打ちのめされるとは想像もしていなかった。 裸でベッドに横たわる彼女の全身は、緑色の植物に覆われていた。ぎざぎざな手のひら型の葉は青々と茂り、風もないのにそよいでいた。 蔦状の茎はカーベルの身体を幾重にもからめ捕り、白い根が腕や首の青い静脈にもぐり込んでいた。 首筋にもこめかみにも。人の身体で静脈が浮き出るところすべてにマノンが根を降ろしていた。 彼女の目はマノンの茎の色の紫色に染まっていた。呼吸はひどく浅い。まるでマノンの吐く酸素を血管から取り込んでいるかのようだった。 葉に顔を近づけると、音とも気配ともつかぬ伝達がささやいていた。それは「まのん……まのん……」と聞こえた。 インスフェロウが聞いた。 「サイン。これはなんだ」 「初めて見ました。神の植物性クンフ・マノンと呼ばれるものかと思います」 「マノン」 インスフェロウもその名前は聞いていた。比較的新しい汎神族の従属生物だ。 因果療法士サインは、絶望に満ちた表情で言った。 「マノンに取りつかれた者は、外科的方法で救うことができません。マノンは決して種をつけないのですが、細かな根毛から株分けをして増えます。カーベル様の血液はすでに汚染されていることでしょう」 サインはインスフェロウを見上げた。 「このままではカーベル様のお命は長く持ちませぬ」 「カーベル様を救う手だてはないというのか!」 第五中隊長シーブルは悲痛な声で抗議した。 インスフェロウは暗い声で聞いた。 「カーベルはどうなるというのだ」 「マノンは、いまは血をすすっているだけです。しかしやがて肉を滋養とし始めるでしょう。根が骨に至った時、お命は失われます」
「こんな攻撃があるのか……」
「マノンはすでにカーベル様の身体に深く根を降ろしています。そしてマノンは枯れることを知りません」 「枯れない? どういうことだ」 「マノンは本来、一年草なのですが、花を咲かし実をつけないかぎり枯れることがありません」 インスフェロウは床に腰を降ろした。 「マノン」
いあわせた者たちは彼の周りに集まった。古老の話しを聞く子供たちのように。 「こんな話しを聞いたことがある。マノンの物語だ」
マノンは花を咲かせない。 植物性クンフにして知性化されたマノンは、花を咲かせることを恐れていた。
マノンは可憐な一年草である。 花を咲かせた後は、種子を作って枯れるだけだ。 それが当然だと思い長く世代を繰り返していた。 ある年。世界を寒波が襲った。 高い山に茂るマノンたちは、あまりの寒さに花を咲かせることができなかった。 そして彼らは秋から降りだした雪に、なす術もなく閉じ込められた。 種を蒔けずに枯れていく自分たちを哀れみながら。 次の春。雪が去ったあと、枯れずに青々と葉を繁らせるマノンがあった。 生き残ったマノンは、今年の夏も冷夏であることを祈った。 彼らには予感があった。次の春が身近にあると。 再び雪が降り彼らは若い姿で春を迎えた。 マノンは知った。 花を咲かさなければ彼らは死なない。
茂る緑の葉は、終わらない夢を見る不死の象徴。 試練を越えてやがて超越に至り、繁茂するマノンたち。 それはマノンにとって修行なのか日常なのか。 時を越える葉を見たときに、人は超越の意義を知る。 種子を作ることを先に送り、茂りつづけるマノン。 やがてすべてのマノンが超越に至ったとき。マノンは滅びの道を歩みはじめる。 マノンは繁栄と滅びを共に持って植物性クンフの素質を手にした。 白い蕾が少しずつ膨らみ、紅い花びらがいよいよ覗きはじめた時。 マノンの理性が恐怖に震え、本能が歓喜に舞い上がった。 強い意志がマノンを突き動かし、蕾は小さく退化した。 マノンは自ら繁殖を制御する力を手に入れた。 やがて枯れないマノンは人間の知るところとなった。貴重な観葉植物として、人間はマノンを大切にした。 人々はマノンを石垣で囲い風から守った。
嵐の日は囲いの上に屋根を渡し、日照りの日には冷たい水を根元に注いだ。 マノンは他の生物との交流を知った。
汎神族はマノンの一群が種をつけることをやめた事を知った。 世界の霊長たる汎神族は、このことを生物的汚染と判断した。 種子を作らずに生きつづけようとするマノンは、生態系に脅威となりうる。 マノン達を根絶することはたやすい。 しかし愛を持って世界を見る汎神族は、彼らの論理で行動した。 一柱の汎神族が使命を帯びてマノンのもとを訪れた。 名を咲之桜(さくのさくら)と言った。 咲之桜(さくのさくら)は、マノンと相対するにふさわしい深緑の瞳で、咲かないマノンを見た。 純白のローブが巨大な全身をさらさらと覆っていた。背中までの灰色の髪は、ものすごいカールがかかっていた。まるで髪全体が柔らかいスプリングでできているかのように、ボンボンと跳ね回った。 正視できぬほど美しいまなざしは、花をつけないマノンを虜にした。 汎神族はマノンに語りかけた。 「種の超越を得たる者どもよ。さらに一歩進む姿を我に見せよ」 マノンは奮起した。 汎神族に命ぜられたことに、植物の身でありながら興奮を覚えた。 一部のマノンが花をつけた。虫を呼び人に働きかけて、望む株同士の交配を慎重に進めた。せっかく冬を越したいくつものマノンが種をつけて枯れていった。 マノンは本来ひとつの花が幾百の種をつける。 自らを過酷な環境に追い込みながら、そこで種をつけることがマノンにとっての修行だった。 極寒の地。灼熱の地。そして水の底にもマノンは広がった。 生まれては枯れる幾千億のマノン。気の遠くなるような数の中から、ずば抜けた資質を持つマノンが生まれた。 植物をして言う優れた資質。それは汎神族の役に立つ資質に他ならない。 本来は高山植物だったマノンが世界に広がり、さらに選ばれて汎神族の従属生物となった。 咲之桜は言った。 「マノン。おまえを汎神族の従属生物としよう」 マノンは歓喜に震えて葉を開いた。 「その法呪を世界に広げないことが条件だ」 マノンは神の言葉を疑った。これほどまでして淘汰され優れたマノンが増えてはならないと? 「すなわちおまえの不死を認めよう。おまえは花をつける必要はない。しかしその法呪を他の植物に伝えてはいけない。世界の滅ぶことがおまえの望みではなかろう」 マノンには自分たちが増えることによって、世界に害を成すという概念が理解できなかった。咲之桜もそのことは知っていた。 咲之桜は、マノンに従属の法呪をかけた。 「人間はマノンの花を美しいと感じる。虫どもは蜜甘く花粉かぐわしと感じる。おまえは多くの者に喜びを与える。しかし花を咲かせる本能よりも、自らの正しい資質を維持し続けることの貴さを認めよう」
「花をつけぬ時は永遠の刻。葉は花よりも長いながい時を誇り続ける」 「マノンは美しい。マノンは我等の呼びかけに早く確実に応えなければならない。マノンを我等の従属生物とする」
「心配ない」 口を開いたのはインスフェロウだった。 「良い女はたまに花にまみれてまどろむものさ」 サインは希望と不安が入り交じった表情で聞いた。 「……インスフェロウ様。マノンを退治する方法をご存じですか」 「カーベルを護るのが私の使命だ。カーベルのためなら、私は殺人鬼にも結婚詐欺にもなるさ」
「お覚悟存じます」 「マノンは従属生物だ。知性化されており神の命令を聞く。花を咲かせることを命ずることはできないのか」 サインはかぶりを振った。 「汎神族ならばあるいは。しかし私の知るかぎりではありません。インスフェロウ様」 医師は期待に満ちた目で灰色の怪人を見た。 しかしインスフェロウもまたそのような法呪を記憶していなかった。 「命ずることはできない。しかし誘惑することはできるかな」 「誘惑ですか?」 「大陸1400万人の人妻を虜にした私だぞ」 「存じあげませんでした」 「安心しろ。因果療法士サイン」 インスフェロウは眼を三角にして微笑んだ。 「はっ」 「おまえの妻は対象外だ」 サインはジョークと知りながら笑えなかった。 「おまえにぞっこんさ」
インスフェロウは白く四角い紙を十枚手にした。薄い灰色のグローブをしたたくましいてのひらに紙を挟み込んだ。 「よりよじりて錐より細く雪の切片超えて冷たく」 両手をゆっくりとしごいた。紙はパスタのように極細の姿となってよりだされた。 「水張りて花の赤こそ水面に映す。香り気水に層をなす」 インスフェロウは島中からハンサムな男たちを集めた。 選抜は女達が行った。美しい男。性的な魅力に溢れる者が集められた。 インスフェロウが行おうとしている治療に必要となるために、急遽集められたのだ。 兵士や商人。歳若い学生もいた。街を練り歩けば見応えのある者ばかりだった。 かしましい女達が頬を染めて推した十五人の男たち。彼らは思いおもいの装いに身を包みカーベルのまわりに立った。我こそは王女をも口説き落とせる、と自信に満ちたフェロモン全開だった。
インスフェロウは彼らに命じた。 「美丈夫たちよ。マノンに愛をささやけ」 男達はうなずいた。 十五人の着飾った男達が、ベッドに横たわる全裸のカーベルを取り囲み、ゆっくりと膝をついた。 男達は一人ずつマノンに顔を寄せた。そしてよじった紙に唇を寄せてささやいた。 「マノン。いとしく小さなマノン」 「花開くおまえを愛でたいよ」 「あなたのかぐわしい香りに僕は夢心地だ」 「美しいマノン。可憐なマノン。私に愛を教えておくれ」 言葉は桃色となって紙を染め上げた。 インスフェロウは尖らせたこよりの先端を、カーベルの口から垂れたマノンの葉に刺して法呪文を流した。 「紙を伝いてしたたり落つるは律する言葉。心の葉たおり言葉なす」 再び男達は、こよりを通して愛の言葉をささやいた。 「瑞々しい肌が私を狂わせる」 男たちはささやくごとに葉に触れ、茎に触れてマノンを愛撫した。 指先を伸ばし、かすかに曲げて、茎の白い産毛を優しく撫でさすった。 「堅く秘められたおまえの姿」 「私だけに開いておくれ」 「おまえの蕾をこじあけて、おまえの色を見せるんだ」 男たちはインスフェロウの周りを回りながら、熱く言葉を繰り返した。 愛の言葉は法呪となって、マノンに性を語りかけた。 「おまえの花弁に触れさせておくれ」 「花をつけて」 「俺の子を産め」 ……ポタン…… 不思議な液体がマノンの中に広がった。 それはマノンが自ら封じてきた、性を喚起する体内秘薬だった。 「あああっっん」 声にあらざる声がマノンから漂い出た。 一度動き始めた性の走りは止まらない。 マノンの理性を圧して、蕾が身体の奥底から頭を持ち上げた。 見るみるうちにピンクの蕾が膨らみ始め、緑の葉はワックスを分泌して美しく輝いた。 カーベルの体内から養分が奪われていく。 しかし同時にマノンのホルモンが血管に流れ込んでカーベルは欲情した。 悩ましげに眉を寄せて、腰がベッドか浮いた。 両手の指に力が入り、シーツを強く握りしめた。 乾く唇を湿らせようと、無意識の小さく開いた口の中で紅い舌かうごめいた。 「……ごっくん」 医師たちまで生唾を呑み込んだ。 一人冷静なインスフェロウが、カーベルの足の甲から流し込んでいた栄養剤の量を増やしていった。 「いま溢れ出る初蜜を我にささげよ」 インスフェロウの法呪がマノンを活性化した。 「きゃあああああっ」 マノンが人に聞こえる悲鳴をあげた。 花咲く本能の歓喜を理性が圧倒した。 いままさに花開こうとしている自分を知ったのだ。 「ひいぃぃ」 マノンの悲鳴とも嬌声ともつかない声が流れた。 蕾がほころんだ。 長く忘れていた花の感動。 耐えきれなかった。 カーベルを苗床としたマノンたちは、いっせいに開花した。 ぷちぷちと蕾の薄皮が裂けて、薄紫の花弁が渦を巻きながら開きはじめた。 「死が死が死がしが」 マノンはこの期に及んで悲鳴をあげた。 しかし動きだした本能のメカニズムは止まらない。 ゆっくりと雌しべが立ち上がり、数えきれない雄しべがすがるように背を伸ばした。 雌しべはすらりと立ち上がり、周りを取り囲むたくましい雄しべ達を値踏みするかのように見下ろした。 ピンクの先端はしっとりと濡れて、胞子を待っていた。 はやりたつ雄しべ達は、我先に胞子のうをはじけさせた。 マノンが喜びと恐怖に泣いた。 「花粉が舞う……雌しべに花粉が触れてしまう……」 インスフェロウが言った。 「美しいおまえを慕って人が虫が集まる」 「受粉し花粉が脚を伸ばす……」 「おまえのかぐわしい香り。甘い蜜は汎神族をもとろけさせる」
滅びはすみやかにやってきた。 満開の花びらが縮れはじめた。水分を失って皺が襲いかかった。 そして一枚いちまいと散っていった。 葉は紅く染まり、やがてしなだれた。 茎に力がなくなり緑を失った。 かろうじて緑を保っていた枝房が種を含んで膨らんだ。 小さな刺が硬くとがった。刺が黒く鋭く固まった時。 マノンの種子は成熟した。 マノンの従属生物としての意識は、すでに薄れていた。 「……私の種よ……」 マノンの最期の言葉だった。 わが子を見ることのない一年草のマノン。
パチンと種がはじけた。 プチパチ……と、小さな音を立てて、ポプラの綿毛のような種達が空中にはじき出された。 かすかな知性を秘めたマノンの種は、小さな身体で自分を護る香りを発した。 その香りは乳にも似た母の香りだった。 あたかも動物には母性を思い出させる香りだった。 「ママ……ママ……」 そんな香りに乗って、カーベルの周りをマノンの種が漂った。 白く枯れたマノンはカーベルの血管からたやすく抜けた。 「カーベル様のお身体確認」 因果療法士と医師がいっせいに彼女の身体からマノンを排除し体調を確認した。 命の危険は去っていた。
やがて一昼夜が過ぎて、カーベルが目を覚ました。 彼女のかたわらには、一歩もベッドを離れなかったインスフェロウがいた。 「……インス……」 「カーベル。目が覚めたか」 「……私の花はきれいだった?」 「驚いたな。あの状況を覚えているのか?」 「私は子供を産んだのね」 「ああっ。比べるものもないほど美しかったぞ」 「私は……私の身体で育ったマノンは……花をつけてしまったのね」 「そんな生き方があってもよい」 「マノンは花をつけないものなのに」 「誰かが花をつけなければ、マノンは滅びる」 「でも……私のマノンが咲かなくっても……いいのに……」 カーベルは両手で顔を覆って泣きだした。 その姿は子を失った母の姿にも似ていた。 「カーベル。私を残して死ぬことは許さない」 「インス……」 「おまえがマノンを望んだとしても、私はマノンを滅ぼしただろう」 「……ひどい……どうして、そんなことを言うの……こんなに胸が張り裂けそうなのに」 インスフェロウはカーベルの横にひざまずき、大きな手でカーベルの前髪をかきあげた。 「おまえがマノンの愛に捕らわれる三十年も前から私はおまえを愛しているからだ。おまえがどう思おうと、おまえは私のものだ」 「……二十年でしょう?」 「そうか。では二十年前から私のものだ」 「あっ、ずるい」 「なんどでも言おう。おまえは私のものだ」 「ちがうわ。間違ってる」 「違う?」 「あなたが私のものよ。二十年前からね」 「今日は。そういうことにしておいてやろう」 「明日もよ。あさっても」 インスフェロウは金色の眼で微笑んだ。 「わかった」 「なんだか良い香りがするわ。とても安心する香り」 「おまえの身体が香っているのだ」 「……ほんとうだ。甘い不思議な香り。マノンの香り……?」 「種を宿した母なるマノンの香りだ」 それから一ヵ月のあいだ。カーベルからはマノンの甘い芳香が香っていた。 それはおかしがたい、やさしく切ない香りだった。
了
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