「あがらの和歌山 シリーズ16」に私が投稿した「河西橋が語りかけること」より引用
和歌山市駅の裏から北島に架かる河西橋は完成から百年を超える。
現在上流側に新橋の建設が進み、完成と共に役割を終えるこの橋に関わる物語である。
その前身は南海加太線の紀ノ川橋梁である。子供の頃、私の面倒を見る名目で父は、河西橋付近の堤防でよく釣りをしていた。私は遊び相手もなく、
砂利採取船が何隻も働く川面を眺め、北島方面から来る電車が堤防手前で大きくカーブし傾きながら、ゆっくりと走行する姿に危なっかしさを感じたような、
かすかな記憶がある。今見ると満身創痍の河西橋と言っても良いだろう。大きく傾いた橋脚がそのまま流用され。
大正3年完成当時の石積みの橋脚も一部は流されてコンクリート橋脚に置き換えられている。この橋には昭和25年のジェーン台風以後何度も襲った水害の爪痕が残されている。
加太線紀ノ川橋梁として使われたのは、何時までなのか、これが私の調査の最初の視点であった。
亀位匡宏氏の「南海加太線むかしむかし」を初め大半の書籍にはジェーン台風までとされているが、実際には3年後の昭和28年の7・18水害まで運行され、
その後、市に払い下げられて歩行者・二輪専用橋として改修、河西橋に名称変更されて現在に至っている。この三年間の運行記録は公式には残されておらず調査は難航した。
解決の糸口は、 写真集「和歌山の汽車・電車」の著者・和田康之氏を取材した時に訪れた。 その空白の昭和27年9月に紀の川橋梁を走行する車両を撮影、
鉄道雑誌(注)に投稿されていた。 話を伺うとジェーン台風でも橋は無傷ではなく、単行運転で、さらに モーター四個から二個へ軽量化をした上での徐行運転だった。
当時和田氏は通学に利用していたが、渡る途中で軽い衝撃があり怖かったと言う。すでに松江線での旅客輸送を開始していた時期に、そこまでして運行を再開したことは謎であり
、確認し得る唯一の資料が和田氏の撮影された一枚の写真であった。その頃、武内雅人氏もまた和歌山地方史研究の紀要に河西橋の歴史を発表、
7・18水害まで運行していたことを突き止めていた。これを契機に武内、和田、亀位氏に声をかけて加太線と河西橋の歴史について、
さらに沿線の発展に大きく関わってきた加太の観光の歴史に詳しい利光伸彦氏もパネリストに加えてシンポジウムを企画し、
平成31年2月和大クリエの後援の下に河北コミュニティセンターにて開催が実現した。講演会の関連イベントで、
4月には加太線北島支線の旧跡を巡る歴史ウォークを開催した。河西橋を渡ったところで初代北島駅跡の解説を私がしていた時であった。
後ろの方でスタッフの一人にリュックをかついだ老人が話しかけて来たそうだ。「ジェーン台風で橋に被害があって、南海はもう廃線にしたかったようだが、
住金の従業員が通勤に困るので、走らせてほしいと要望された。仕方なしに南海は再開したが、7・18の紀州大水害で橋脚が傾いてしまい、
本当に走れなくなってしまった」と言い残して去ったという。私が知りたかったことを教えてくれた彼の姿を探したが、すでに私の視界からは消えていた。
物資も設備も不足する時代、戦後の復興に向け産業を支えた住金、その労働者の輸送を担った南海電鉄の隠れた奮闘の歴史を、この傾いた橋梁が物語っているようだ。
注 「関西の鉄道 No.52」 「鉄道ピクトリアルNo.807」