1.私の疑問と推定
初めて小泉八雲の「稲むらの火」を読んだ時には、この小説のモデルが、浜口梧陵のことであることは知っていました。従って、史実に基づいたものだと考えていました。(多分そう信じている人は多いと思います) しかし、読み終えた後で、どうしてもすっきりしない疑問点が有りました。高台の火を見た程度で果たして人が集まってくるのかどうか?
南米のチリの地震ではない、こちらは南海地震である、地震による相当な揺れを体験したすぐ後である。倒壊した家屋が何軒もあったかもしれないし、すでに出火した家があったかも知れない。そのような時に、高台に火を見たとしても、自分の身や自身の家のことに精一杯だったはずである。
私が、最初に思ったのは、これは照明あるいは灯台としての火ではなかったのか?ということでした。
私は小学性の頃、夏休みになると大塔村の祖父の元で過ごしたのですが、当時はまだ電気が普及し始めた頃で、街灯も殆どなく、月明かりのない夜など一歩外に出ると完全な闇でした。
この時の南海地震が、夜間に発生していたとすれば、稲むらの火は理解出来るのです。
人々は大きな揺れの後、仮に津波の到来を知っていたとしても、松明を用意しない限り、どちらに避難してよいかまったく分からないのです。このような時に、高台に火を見つけた人々は、あそこへ向かって避難すれば良いのだと、考えるでしょう。
その方が、より浜口梧陵の防災に対する見識が感じられるのです。
2. 稲むらの火の真実
上記疑問を解決すべく、ネットで各サイトを調べてみました。 私が疑問を感じたように、小説と事実との差について解説したHPが沢山ありました。まず、Wikipediaでこの地震について調べると
- - - - - - - - - - - - -
1854年に発生した、安政の南海地震と呼ばれる。
M8.4 紀伊・土佐で津波による大きな被害をだした。(串本で最大波高11m)。
その32時間前には、M8.4の東南海地震が発生している。
- - - - - - - - - - - - -
とあります。多くの被害を出した、直近の1946年に発生したM8.0よりも、遙かに強い地震だったのです。
いずれも、南海地震単独発生ですが、次回予想される地震が、万一東南海-東海地震と同時発生するとM8.5程度にはなるだろうと予想されています。
さて、真実はどうであったかというと、意外な事に、浜口梧陵の手記が残されていたのです。
(下記参考資料のサイトをご覧下さい)
それによると
- - - - - - - - - - - - -
津波が計4回にも渡って押し寄せ、最初はその津波から村人と共に避難中の浜口梧陵自身が津波にのまれて、一時あやうく流されそうになったことも書かれており、小説になった英雄の姿と真実の浜口梧陵との差に愕然としてしまう。
稲むらの火は、津波の襲来を予知したものではなく、何回か津波が襲来して、大勢の村人が流された後、浜口梧陵の指示により、避難している人や漂流している人への避難の方向の目印として点火したものであった。(※1補足)
しかし、高台に点火したはずの稲むらの火でさえ、もっとも高い津波が押し寄せた際には、消し去ってしまった。
- - - - - - - - - - - - -
稲むらの火は、津波予知の火ではなかったのである。
しかし、浜口梧陵のしたことが無駄であったのかというと、決してそうではなく、稲むらの火が大勢の漂流者や避難中の村人に安全な避難の方向を示すことにより、9人の村人が助かったようである。(※1補足)
地震発生は午後4時頃であるが、12月24日という冬日であるから、ほぼ日の入りの頃である。 しかしそれから津波が何回か襲来した後ではかなり暗くなっていたと思われる。
(補足2)
さらに、稲むらについての解釈が、小説と異なるとの説明が、Wikipediaに載せられている。
小説では、刈り取ったばかりの稲に火をつけたことになっていますが、地震の発生時期が12月ということを見ても分かるように、すでに脱穀した後の稲わらに火を付けたようです。