■国指定史跡 『品川台場』
嘉永6年(1853年)6月3日アメリカ東インド艦隊指令長官M.C.ペリーは、砲艦1隻、測量船3隻を率いて浦賀に来航、江戸幕府に開国を迫りました。この対応に苦慮した幕府によって品川沖の海上に築造された砲台が品川台場です。
![]() |
![]() |
|
|
第3台場全景(歴史の宝庫)
|
第6台場全景(鳥の宝庫)
|
幕府から台場築造と大砲鋳造を命じられた江川太郎左衛門英龍(伊豆韮山の代官:1801〜55)の当初の構想では、各方向から敵船への砲撃が可能なように、五角形または六角形の台場を品川から深川にかけて連珠のように配置し、11箇所の台場を築造する計画でした。
第一・第二・第三台場は嘉永6年8月に着工し、翌年安政元年(1854)4月に竣工しました。第五・第六台場は安政元年1月に着工し同年11月に完成しました。しかし、第四・第七台場は着工したものの財政難や日米和親条約の締結という歴史的背景もあって途中で工事を中止しました。但し第四台場の工事は、文久3年(1863)5月に再開され翌年完成しました。第八台場以降は未着手のまま鎖国政策の転換によって中止され、完成した台場もその役割を果たすことなく放棄されました。築造に要した資材は関東地方の材木を用い、石材は伊豆や安房の安山岩を使い、土砂は品川御殿山や泉岳寺境内などの高地を掘削して搬出したといわれています。
第三・第六台場は大正4年(1915)東京市に払い下げになり、第三台場のみが昭和3年(1928)から歴史公園として開園しています。丸岡藩砲台跡・和田岬砲台・西宮砲台・鳥取藩台場跡・土佐藩砲台跡・長崎台場跡など江戸時代末期に海岸防備のために築かれた台場・砲台は、いずれも国指定史跡となっています。
品川台場は、日本最初の大規模海上構造物であり、西洋の軍事技術を応用しながら、伝統的石積技術を適用して短期間に工事を実現した、幕末の日本の技術水準の高さを示す貴重な土木遺産であり、幕末の国際関係を知る上で重要な史跡です。
尚、石垣から30間(54m)以内の水域も文化財の指定地域に含まれています。
■都立 潮風公園
品川区東八潮一、二丁目 〜船と飛行機が見える公園〜
東京港改造計画に基づいて造成された13号埋立地の一部を当初「13号地公園」として開園し、その後、周辺地域を含め臨海副都心として整備されるに伴って、平成4年から平成8年にかけて、全面改修工事を行い、名称も「潮風公園」と改め新しい公園として生まれ変わった。臨海副都心内では最大の公園で、お台場海浜公園と隣接し、海辺の公園ならではの施設(サニーテラス、コーストデッキ、夕日の塔、しおかぜ丸)を備え、レインボーブリッジを背景とした景色は美しさそのものである。
![]() |
![]() |
|
|
天気のいい日はみんなでバーベキュー
|
コーストデッキの「潮風公園島の日曜の午後」
|
**** 遊び方 ****
1.「バーベキュー広場」で
場所代無料で利用できるし、海と空を眺めながら松の木陰でバーベキューができます。
また、コンロ等の調理器や食材まで現地で調達できます。
○予約:使用2ヶ月前から受付(年末年始除く)
○利用時間:AM10:00〜PM4:00
※中学生以下の利用は、大人の指導者が必要。
2.「噴水広場」で
東京湾を望む大きな噴水広場では、いつも子供の元気な声が響き渡っています。
隣には船の形をしたコンビネーション遊具「しおかぜ丸」があり、アスレチック気分も満喫。
3.「コーストデッキ」で
海に面したコーストデッキからは、対岸(品川、大井)の都市景観やレインボーブリッジなどの美しい夜景が楽しめる。
また、コーストデッキには「潮風公園島の日曜の午後」という彫刻があり、正面からと横からとでは全く別な形に見えてしまう不思議な彫刻です。
4.「サニーテラス」で
南地区と北地区の両方にある「サニーサイドテラス」に寝転んで日光浴を楽しもう。散歩したり横になったりできる板張りのテラスです。
■りんかい線(東京臨海高速鉄道)の歴史
国鉄時代、武蔵野線が貨物線として計画され、京葉線は京浜から京葉臨海地域の物流を担う目的で貨物線として計画されていたという。今、蘇我から京葉線に乗車すると海浜幕張〜習志野駅間には操車場の予定用地が残されていて、南船橋〜市川塩浜駅間では武蔵野線とスルー運転ができるように鉄道が敷かれています。
新木場駅を出ると東京駅地下終点へ向かいますが、新木場駅手前で更に別の複線が分岐していて、それが東京貨物ターミナルの大井地区へ至る京葉貨物線(江東区新木場−品川区大井埠頭)の全線計画であったらしい。京葉貨物線の同区間は1974年に着工され、全線の80%がトンネルと橋梁で、工事は78%まで進んだところで国鉄分割・民営化などで中断し、清算事業団に引き継がれた。
東京都は1987年に「臨海部副都心開発基本構想」を発表しました。バブル経済期であり、都心部開発の限界感から打ち出された巨大プロジェクトであった。1989年には鉄道路線として利用されることとなり、運営体として1991年3月、東京都が85.5%、JR東日本5%、他金融機関という出資比率で第3セクター東京臨海高速鉄道(TWR)が設立され、線路その他を民営化後の所有者であった国鉄清算事業団から譲渡されると共に、第1期事業区間として「新木場―東京テレポート間」4.9キロの免許を取得、整備工事に着手した。さらに第2期事業区間として「東京テレポート―大崎間」7.3キロの免許を1994年3月に申請した。
将来的にはJR大崎駅まで延長し埼京線とを結ぶ計画になっています。現在、2002年12月全線開通を目指し工事が進められています。
このような背景で生まれたりんかい線は、今では「ゆりかもめ」(新橋〜有明区間)とならんでお台場への主要アクセス手段となっています。今後の全線開通と将来的な他路線への相互乗入れが実現すればもっと多くの人たちを呼び込んでくれるでしょう。
■ゆりかもめ(東京臨海新交通)の歴史
昭和57年12月「東京都長期計画」の中で、東京都は東京港港湾地区の再開発として「東京テレポートタウン」開発を計画した。当時は、政府も民間の資金・活力を導入することにより公共工事の推進を最重要課題として掲げていて日本国内で大規模開発が次々と計画された。
特にこの臨海地域については、関係6省庁と東京都によって「開発推進協議会」を設置し省庁間の調整が行われていたが、各省庁と民間企業での利権争いと法規制等のしがらみで調整は難航した。
そこで東京都は政府の支持を得て、都主導による開発を決定し昭和63年までに臨海副都心基本計画を策定した。約450haを埋め立てて都心と結ぶ交通機関、社会インフラ整備(共同溝や下水、道路など)計画する計画で、その事業費用は進出企業への借地料により当てるものであった。
そして臨海副都心として世界始動の幕開けとして平成8年3月世界都市博覧会を開催することにした。
しかし日本国内バブル崩壊による進出企業の出足が悪く借地料の値下げを行ったが、平成7年4月に新都知事を迎えた東京都は、目前に迫った世界都市博の中止に踏切り臨海副都心計画は見直しを余儀なくされた。
東京都は、昭和60年8月「東京臨海部新交通システム計画委員会」を設置し、経営主体は第三セクターで路線は有明までという計画で事業に着手していた。最終的には、路線区間を新橋〜有明区間(12.1km)で側方案内方式の新交通システムを採用、車両は大型の2ドア車両で自動運転を実施するということになった。
昭和63年4月、東京都が67%、民間企業(銀行)が33%の出資比率によって第三セクター「東京臨海新交通」が設立された。平成10年4月には会社名を「ゆりかもめ」に変更した。
お台場には、東京都及び住宅・都市基盤整備公団の高層住宅が建設され、またフジテレビ日商岩井といった大企業や商業複合施設があって沢山の乗降客があります。また、船の科学館には国際交流大学村があり海外からの住民も増えています。有明では、ホテルやビックサイトで一年を通じて催しがあり沢山の利用者が訪れています。
この台場・有明地区を結ぶ新橋(汐留地区)は、日本テレビや電通、ホテル等の高層ビルが建設中で今後ますますゆりかもめ沿線は活気を帯びてきます。そうなれば輸送力の安定性や安全性の確保以外にもさらなる付加価値が求められ、地域の発展にあわせてあらためて総合的な街づくりが必要になるであろう。いつまでも都民(特に沿線利用者)にとって快適な生活環境をあわせもつ複合的な街であって欲しいものです。