凍花 3
この手は沢山の血に染まっている。
戦いの中、奪った多くの命。
けれどあの時の感触だけが、今もまだ生々しくこの手に残っている―――





張飛が去り、二人だけが取り残された鍛錬場で、趙雲はすっと細めた瞳で馬超を睨み付けている。
歴戦の将が持つその鋭い眼差しは、あらゆるものを圧倒し後退させるかのような強い力を持っていた。
けれど馬超には、それがこれ以上自分を近付けさせまいとする趙雲の精一杯の虚勢のように見て取れた。
その向こうには、何かを恐れ脅えている趙雲の姿が垣間見れるような。

だから当然馬超は怯まなかった。
「そうだな……私は貴殿のことを何も知らない。
だからこそ知りたいと思うのだ」
「私のことが好きだから……ですか?
笑止な……」
嘲るような笑みを浮かべて、趙雲は吐き捨てるように言う。

けれどどれだけ拒絶の言葉を投げかけられても、馬超は腹も立たない。
それどころか今の趙雲を見ていると、嬉しささえ覚える。
感情を失くした人形のようでなく、僅かでも感情を表に出している方が余程良い。

立腹するでも、不快そうに眉を顰めるでもないそんな馬超に、趙雲の瞳は益々険を帯びる。
「好きだなどという戯言を口にすれば、何でも赦されるとお思いか?
そんなものは傲慢な思い上がりもいいところだ。
愛だの恋だのと―――そんな幻想のようなものを信じるほど、私は愚かではありません。
人の心など移ろいやすいもの。
まして好きだなどと言ったところで、本心では何を考えているのか分かったものではない。
だから申し上げたでしょう?
私はそういうものに心を縛られるのは御免だと」
「だが、過去にはあったのだろう?
誰かと心を通わせあったことが―――
だが馬超は趙雲の言葉をそのまま受け入れることは当然せずに、問い返す。

それは先日も馬超が訊ねた問いと同じだ。
その折、趙雲の瞳に過ぎった翳りを馬超は思い返していた。
趙雲に以前心を通わせた人間がいただろうことを、最早馬超は確信していた。
けれど趙雲は異常に人から愛され、そして愛することを恐れ……そして憎悪しているように馬超には思えてならない。
その原因がおそらく趙雲が心を通わせたその人物にあり―――趙雲が汚点だという過去の出来事に繋がっているのだろう。

馬超の問い掛けに、趙雲は俯き、肩を震わせている。
馬超は瞠目する。
一瞬、泣いているのかと思ったのだ。
「ち……」
名を呼びかけようとした時、再び趙雲は顔を上げた。
その表情に、馬超は再び目を見開くことになる。
趙雲が笑っていたから。
喉の奥で、声を詰まらせるように、くつくつと。

「ええ、私にも俗に恋人といわれるような関係を結んだ相手がいたことがありました。
貴方が言うように、その時の私は心を通わせ合っているなどと愚かなことを思っていた。
けれどそんなものは幻想でしかなかったのですよ。
私がその人物に今なお抱いている感情を教えて差し上げましょうか?
憎しみですよ。
愛しさなど欠片もない……あるのはそう―――憎悪だけだ」
きっぱりと断言した後、趙雲は佩いていた剣を鞘から抜き去ると、馬超の首筋に刀身を当てた。

ちくりとした痛みが、馬超の首筋に走る。
生暖かいものが、自身の首筋を流れていく感触があった。
刀の当てられた皮膚の表面部分が切れたようだ。
ただそれが浅いものであることは、感覚で馬超には分かる。
馬超は突然趙雲に傷を負わされたことよりも、そのような行動に出た趙雲の思惑が知りたかった。

「私は―――その相手を殺しました。
この手でね」
冷めた声で告げられた言葉。
そうして心底愉快そうに、趙雲は声を上げて嗤う。
まるで狂ってしまったかのように。





「従兄上!?
どうなされたのですか、その傷は!」
馬超が邸に戻った早々、彼の姿を見た馬岱が驚きの声を上げた。
馬超の首筋の傷と、肩口が赤く染まった衣を見てのことだった。
「大したことはない」
趙雲との間にあったことを話す気はなく、馬超はそれだけを言って早足に自室に入ろうとする。

が、その腕を馬岱が慌てて捕らえた。
「何を仰ってるんですか!?
手当てしないと……」
「本当に大丈夫だ。
もう血も止まっている。
考え事をして歩いていたら、枝に首筋を引っ掛けてしまっただけだ。
騒ぐようなことではない」
「ですが……」
納得できず追いすがる馬岱の手を、馬超はやんわりと解く。

どうにもこの従弟には弱い。
これ以上ここにいると、誤魔化しきれなくなりそうで、馬超は「少し休みたい」と言い残し、自室へと入った。
扉を閉め、寝台へと腰を下ろすと、馬超は深々と溜息を吐く。

やっと本当に趙雲と相対することができたのだと思った。
感情を決して露にせず、人形のようだった彼が初めて見せた血の通った人間らしい表情。
過去に彼が心を通わせたことのある人間がいることも、予想通りだった。

だが―――
そこにあったのは愛情ではなく、憎しみだったと彼は言った。
そして……その相手を自らの手で殺めたのだと。

二人の間に一体何があったというのだろう?
それは果たして真実なのか?

趙雲はもうそれ以上何も答えてはくれなかった。
一頻り哂った後、剣を鞘を収めると、またあの冷たい眼差しで馬超を一瞥し、去って行ったのだ。
おそらく趙雲は今後も何も語ってはくれまい。
昔の趙雲を知らない自分が、いくら考えてみたところで、答えは導き出せはしない。
それでも次々と溢れる疑問は、馬超の頭の中から離れることなく、回り続ける。

「従兄上、従兄上!」
扉を叩き、馬超を呼ぶ馬岱の声に、ぼんやりとしていた意識が引き戻される。
無視してしまおうかとも思ったが、そうするには忍びなく、馬超はしぶしぶ答えを返す。
「……どうした?
俺は少し休みたいと言ったはずだ」
「丞相がお見えになられたのです」
「諸葛亮殿が……?」
馬超は怪訝そうに眉根を寄せる。

特別親しくもない彼が、何の前触れもなく自分の邸を訪ねてくるなど想像もしていなかった。
今はあまり誰とも話す気にはなれなかったが、丞相である諸葛亮の訪問を無視する訳にはいくまい。
また一つ、馬超は溜息を落とした。
「客間にお通ししろ」
馬岱にそう指示して、馬超は重々しく腰を上げた。
血に染まった衣を新しいものに変え、首筋の傷が目立たぬよう結んでいた髪を解くと、馬超は自室を後にしたのだった。




(続)





written by y.tatibana 2010.10.24
 


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