終幕の果て5
ぼんやりと霞む意識の中、まず目に入ったのは見慣れた天井。
横たわったまま、何度か瞬きを繰り返す。
「兄上!気が付かれましたか!?」
頭上から嬉しそうな声が降ってきて、馬超はそちらへと視線を動かした。
「岱……」
視線の先の馬岱は、馬超と目が合うとほっとしたように顔を綻ばせた。
「……どうされたのか、覚えておられますか?」
馬岱の問い掛けに、馬超は微かに首を振る。

ここが自室で、寝かされていることは分かる。
だがその経緯が酷く曖昧だ。
思い出そうとしても、妙に体がだるく、上手く頭も働かない。

「兄上は……趙雲殿を助けに向かわれて、そして倒れられたのですよ。
大量に吐血して」
馬岱の言葉を契機に、ようやくゆっくりと馬超の記憶が甦ってくる。
趙雲が裏切ったということの真相を知り、その後激痛が襲ったのだ。
趙雲が捕えれて以来、鳩尾の辺りに慢性的に痛みは続いていのだが、それはずっと酒のせいだと思っていた。
だが倒れてしまったということは、そうではかったということか。
馬超の内心を読み取ったかのように、馬岱が続ける。
「薬師の話によれば、胃の腑に穴が開いていたそうです。
原因は精神的な抑圧や衝撃のせいだと申しておりました。
一命は取り留めたのですが、危ないところだったと薬師が。
それでも三日間ずっと目を覚まされなかったのですよ……心配致しました」

精神的な抑圧や衝撃―――
その原因が何たるかなど、馬超は元より馬岱とて理解しているだろう。
ここ数日間の出来事が、馬超の臓腑を侵蝕していたのだ。

ふっと自嘲気味に馬超は笑んだ。
「存外に俺は弱かったのだな……」
馬岱は困ったような笑顔で首を振る。
「そのようなことを仰られて―――兄上らしくもない。
それだけ趙雲殿の存在が、兄上にとって大きかったのです」

意識を失う前に聞いた趙雲の自分を呼ぶ声。
悲痛な、叫びにも似た声だった。
今まであの冷静な趙雲からは聞いたこともないような……。
それだけははっきりと耳に残っている。

「趙雲殿の裏切りの真相は、兄上が倒れれた後、丞相からお話がありました。
本当に良かったですね、兄上。
趙雲殿はこの国を、そして兄上を裏切っていた訳ではなかったのですから」
「何が良かったというのだ!?」
馬岱の言葉に被せるように、馬超は低い声で呻く。

欠片も自分にとって良いことなどない。
結局趙雲にとって自分は真実を語るほどもない対象だったということだ。
信じられてなどいなかった。
平気で欺くことが出来るような存在に過ぎなかったのだから。

真実がどうであろうと、馬超の心には未だ見えない楔が打ち込まれたままだった。
そんな馬超の表情から彼の心情を読み取ったのだろう。
馬岱は呆れた様子で大きく溜息を吐く。
「あの方がそのような人間でないことは兄上が一番ご存知でしょうに―――
趙雲殿もずっとここで兄上を看ていて下さったのですよ。
寝食を忘れて、私達がどれだけ言ってもここを退こうとはなさらなかったのです」
だが今この場所にいるのは馬超と馬岱の二人だけであった。
何処にも趙雲の姿などない。
馬超はふんと鼻を鳴らした。
「俺を心配する素振りを見せていただけだろう。
そうしながら、まんまと騙された俺を哂っていたのかもしれん」

「兄上!」
馬岱の諌めるような鋭い声に、馬超はふいっと顔を背ける。
「趙雲殿は客間で休んでおられます。
あのままでは趙雲殿も倒れて仕舞いかねない状況でしたので、失礼ながら私が一服盛って、無理矢理に眠って頂きました。
趙雲殿のお姿をご覧になれば、兄上もあの方のお心が分かりましょう」
馬超は何も答えない。
視線を窓の外へと向けたまま、黙り込んでいる。

しばらくその様子を馬岱は眺めていたが、やがてやれやれとばかりに小さく息を吐くと、立ち上がった。
「薬湯をお持ちしますね」
その立ち去り掛けた馬岱の背に、口を噤んでいた馬超が声を掛けた。
「世話を掛けてすまない。
随分とお前には心配も掛けてしまったな」
「貸しにしておいて差し上げます。
それと……その卓に置いてある書簡を読めるような目を通して下さい。
丞相からのものです―――何が書かれているのかは存じ上げませんが……」
馬岱はふっと微笑みを形作ると、馬超の部屋から退出して行った。

しばらく逡巡した後、馬超は半身を起こした。
まだ鳩尾付近に痛みはあるが、数日前よりも格段に楽になっている。
馬岱が言い残した通り、寝台の傍の円卓には一本の竹簡が置かれてあった。
それを馬超はしばしの間、じっと睨みつけるようにして見つめていた。
まだ迷いはあったが、やがて馬超はそれに躊躇いがちに竹簡へと手を伸ばした。
それを解くと、諸葛亮の性格を如実に示すようなきっちりとした文字が並んでいた。





―――貴方ほどの方が、胃の腑に穴が空くまでに思いつめて居られたとは、私としても想像がつきませんでした。
しばらくはゆっくりと休養を取られるがよろしいでしょう。

私は今回の事が間違っていたとは今でも思っておりません。
裏切り者を捕えなければ、今後我が国に致命的な災いを齎していたかもしれないのです。
この国の為、何としてでも裏切り者を見つけなければなりませんでした。
趙雲殿の手によって斬られた真の裏切り者は、丞相府の高官の一人でした。
私の身近な者から裏切り者が出たということは、私の不徳の致すところです。
貴方にとっては今やそのようなことはどうでも良いのでしょうが……。

趙雲殿に今回の策略を持ちかけた時、彼は決して一つ返事で了解してくれた訳ではありません。
あの方が、味方を欺き、試すようなことを喜んで実行できるような性格ではないことをご存知でしょう。
実際、少し考えさせて欲しいと言われました。
主公からは決して無理強いはするなとの仰せでしたので、私も無理に命じはしませんでした。
その趙雲殿がある出来事を契機に、是非とも自分にやらせて欲しいと願い出てきたのです。
その契機となった出来事とは、先の戦です。
内応者のよって魏に伏兵の情報が漏れ、貴方の部隊が急襲された―――あの戦です。

趙雲殿が私に真意を告げることはもちろんありませんでした。
きっとこの先も私にも、そして貴方にも言うつもりはないのでしょう。
けれど私には分かりました。
趙雲殿はこの国を守りたかった―――けれどそれ以上に貴方を守りたかったのだと。
裏切り者の手によって貴方の身が危険に晒された事が、趙雲殿には許せなかったのでしょう。

趙雲殿がみなを謀ることを平気で為されていたとお思いですか?
貴方も苦しんだ、そして趙雲殿も苦しんだ。
けれどその苦しみに耐えていたのは、貴方を守りたい一心だった。
貴方が苦しみながらも趙雲殿を救おうとしたように―――





静まり返った室内に、扉が立てる乾いた音が響いた。
開かれた扉から、中に入ってくる影がある。
馬超だった。
彼は一直線に、奥に設えれた寝台へと向かう。

寝台の上で、趙雲はぐっすりと眠っているようだった。
その傍らに、馬超はそっと腰を降ろした。

やつれたな―――

それが趙雲に対する第一印象だった。
眠ってはいても、顔色が優れず、疲労している様子は一見にして分かった。
手を取れば、そこもまた幾分か細くなってしまっている。

馬岱が趙雲の姿を見れば、彼の心が分かると言った意味がよく理解できる。
これまでは現実を受け入れるのと、荒ぶる感情と闘うのに必死で、趙雲のことをじっくりと見る余裕もなかった。
彼もまた闘っていたのだ。
苦しみもがきながらも、馬超を守りたいが一心で。

自分のことを決して信じてくれてなどいなのいのだと、馬超は思った。
だが真実は違った。
趙雲の姿がそれを雄弁に物語っている。
彼の自分に寄せてくれる想いもまた、深いものであったのだ。
どうして自分はそれを疑ってしまったのだろう。
知らぬこととは言え、自分の方こそ彼を信じ抜くことが出来なかった。

真実を知らずに騙されることと。
すべてを知りながらも、偽らねばならぬこと。
そのどちらが苦しいのだろうか。

その時、僅かに趙雲が身動ぎ、その目がゆっくりと開かれた。
傍の気配を感じ取ったのか、その視線がすぐに馬超を捉える。
「!?」
目を見開いた趙雲は、がばりと寝台から身を起こす。
馬超が言葉を発する余地も無いほどに、趙雲は慌てた様子で、馬超の髪を触り、頬に触れ、順々に彼の身体をなぞる。
そこに居るのが本当に馬超かどうかを確かめるように。
最後に馬超の左胸に押し当てた趙雲の手には、確かな馬超の鼓動が伝わってくる。

次の瞬間。
今度は驚愕したのは馬超の方だった。

趙雲の両の目から涙が零れ落ちていた。
止め処なく溢れるそれを趙雲は拭おうともせずに、伝わる馬超の鼓動に感じ入っている。
そしてとうとう趙雲は声を上げて、泣き出した。
まるで幼子のように。
迷子になってしまった童が、ようやく母を見つけ、安心したかのようだ。

それは言葉などよりも雄弁に、趙雲の気持ちを伝えてくれる。
あの長坂の英雄が……冷静沈着と評される趙子龍が、人目も憚らずに馬超の生を確認して、泣いている。

馬超は趙雲を己の胸元へと抱きこんだ。
彼の耳を、左胸に押し当てるようにして。
ちゃんと生きているのだと、しっかりと知らしめる為に。
縋りつくように趙雲の腕もまた、馬超の背に廻された。
強く強く馬超を抱き締めてくる。
そうして二人は互いにしっかりと感触を確かめ合う。
嗚咽が酷く、上手く言葉が出てこない趙雲より先に、馬超が口を開いた。

「ありがとうな、子龍」





(終)





written by y.tatibana 2006.05.13
 


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