100題 - No76
注:死ネタではありませんが、
死を予兆させる内容です。

遥か彼方
死ぬことを怖いと思ったことはない。
己の命が国の糧となるのならば、本望だった。
けれど。
私は出逢ってしまった―――あの男に。
馬孟起に。

酒を酌み交わし、馬鹿げた冗談に笑い声を上げ、そうして共に幾度が戦場を駆ける内に……一線を越えた。
そのことを後悔などしていない。
今では互いになくてはならない存在になった。

だから……。

彼がいなくなることが怖くなった。
そして―――自分が死ぬこともまた……恐ろしいと思うようになっていた。





胸を締め付けられるような痛みに、趙雲は槍を揮っていた手を止めた。
逆の手で、痛む箇所を押さえ、眉根を寄せる。
鍛錬で身体を動かした為に出たものではない、嫌な汗が顎を伝い落ちた。

直にそれは納まった。
しかし、今日はこれで二度目だった。
朝、城へと向かう道すがら、た同様の痛みに襲われていたのだ。
こんなことがもう数日間続いている。
今のように早々に痛みが納まる時もあれば、長く続く時もある。

趙雲は大きく息を吐き出す。
最早己の身の内に何事か起こっていることは疑いようもないと。
そう考えた趙雲はその足で医師の元へと向かった。
今までの彼ならば決して医師に診てもらおうなどとは思わなかった。
咳や喀血はなかった為、胸を患っていることはないだろうと―――つまり他人にうつしてしまうようなものではないと考えていたからだ。
何より、真実を知るのが怖い訳ではなく、それが劉備たちの耳に入れば、決して今までと同じようには戦場に立てなくなる―――武人としてそれだけは避けたかった。
己の身体のことよりも武人としての誇りの方が、趙雲には何倍も大切だったのだ。

だが、今の彼は真実を知りたいと思った。
そうしてそれを知ることがまた怖いとも感じていた。
にも拘らず、趙雲が医師の元へ足を運んだのは、馬超のことが頭を過ぎったからだった。





もしも―――命の期限が近付いているのだとしたら……。
あとどれだけの時を、馬超と過ごすことができるのだろうと。





訪れた先の医師の診たてはやはり芳しくなかった。
「もうあまり刻は残ってはいないのだろうか?」
「残念ですが……」
心底申し訳なさげに壮年の医師は頭を下げた。
それだけで趙雲には充分だった。
ただ思っていた通り他人に感染するような病ではなかったことが、唯一の救いだった。
もしそうだったならば、周囲の人間に害を齎すことを流石に隠すことはできない。

衝撃がなかったと言えば嘘になる。
けれど薄々予想はしていたことだった。
嘆くよりも、趙雲はこれから先のことを考えいてた。

医師は将軍としての任を離れ、静養することを強く勧めた。
執務に追われる今の状況では、更に命を縮めることになると。
なるべく身体に負担を掛けぬように過ごせば、いくばくかの刻を永らえることが出来るということだろう。

だが趙雲にその気は毛頭無かった。
この夏が終わる頃には、馬超は北へと出陣することが決まっている。
長引く北方の小競り合いに、決着をつけに行くのだ。
一度戦に発てば、長く成都には戻ってはこられない。
それは戦場に身を置くもの同士、これまでも幾度も経験してきたこと。
寂しいとか、悲しいとか―――そんなことを思ったことはない。





だが。
次に馬超が帰還してくる頃には―――恐らく……。





だからこそ、趙雲は大人しく病床に就く気はなかったのだ。
趙雲の身体のことを知れば、馬超は恐らく激しく動揺するだろう。
ましてあと少しの時間しか残されていないことを知れば、尚更。
近々戦へ発つ、馬超に余計な心労を掛けさせたくはない。
馬超がとても優しい男だと誰よりも良く知っているから。

弱々しい己の姿も決して見られたくはなかった。
腫れ物に触るように労わられるのも、気遣われるのも嫌だ。

普段通りの自分でいること。
それが馬超に身体の変調を悟られずに済む一番の手段だと趙雲は考えた。
下手な小細工は、勘の良い馬超には通じはしないだろう。

そして何より……。
馬超の中に残る最後の自分の姿は―――笑顔でありたかった。





それから少しの間は、平穏に時は過ぎて行った。
発作は度々起こったが、趙雲は医師から処方された薬でそれを乗り切っていた。
今はそれで抑えられても、病状が進めばいずれ効かなくなると医師からは申し伝えられていた。
発作を繰り返すほど、それが負担になり、病は悪化していく。
そのような悪循環を断ち切り、無理をせず療養すべきだと繰り返す医師の言葉に、趙雲は頑なに首を振り続けた。
馬超が出陣するその日までは、何としてでも知られてはならないと、趙雲は堅く心に誓っていたのだから。

その為か、馬超は趙雲の病には気付いてはいない様子だった。
戦の準備に慌しい毎日を送りながらも、僅かな暇を見つけては趙雲の執務室へとやって来る。
「また来たのか」
断りも無くずかずかと部屋に入ってきた馬超に、趙雲はやれやれと肩を竦めた。
「随分なご挨拶だな、子龍。
もっと恋人を労わる言葉はないのか。
ここ暫くは忙しくて夜も別々だから、お前が寂しがってはいけないとこうして俺はわざわざ会いに来ているというのに」
言って、恨みがましい視線を向ける馬超を趙雲は一瞥して、今度は大仰に溜息を吐く。
「それはそれは、お気遣い痛み入る。
だが誰かさんが夜毎に訪ねてこないお陰で、ようやく軍師殿にお借りした書物に目が通せて、私としては大助かりだ」
しれっとした趙雲の言葉に、馬超は不機嫌そうに眉根を寄せる。

戦の前には決まって繰り返される会話。
趙雲が本気で馬超を疎ましく思っている訳でも、馬超が趙雲の言葉に本当に怒っている訳でもないのだ。
互いにもそれが良く分かっている。
だからこその会話。

二人で互いを睨みあうように視線を交わす。
そして、同時にふっと表情を和らげ、笑う。

こんな何でもない日常が、今の趙雲には愛しく思える。
今まで特別に思わなかった日々。
それを心に深く焼き付けておきたかった。

「まだ隊の調練が残っているから、戻るよ。
岱に無理矢理押し付けてきたから、あいつ怒っているだろうしな」
「いい加減にしないと、そのうち馬岱殿に愛想をつかされるぞ」
小さく笑いながら、趙雲も立ち上がった。
ちょうど諸葛亮の元へ届けねばならぬ書簡があった。
途中まで馬超と共に行こうとしたのだ。

が、立ち上がった瞬間、ずきりと趙雲の胸に痛みが走った。
漏れそうになった呻きを堪え、趙雲は奥歯を噛み締める。
「子龍?」
立ったまま動こうとはしない趙雲に馬超は訝しげに声を掛ける。
「なんでもない」
平静を装って、趙雲は書簡を手に取った。

懐に薬があった。
けれどそれを馬超の目の前で飲むわけにはいかない。
病のことが知られてしまう。

「行こうか」
趙雲は胸の痛みなど感じさせぬ足取りで、部屋を出る。
趙雲にとって発作の苦しさよりも、馬超に気付かれることの方が恐ろしかった。
それが趙雲の身体を動かしていた。

馬超がそれ以上不審を抱いた様子はなかった。
今度の戦のことだとか、馬岱が口煩くて敵わないとか、そんな他愛も無い話を馬超は実に楽しそうにする。
その笑顔に今までどれだけ癒されてきただろうか。

回廊の途中で調練へと戻る馬超と別れる。
馬超の姿が視界から消えた瞬間、趙雲は側の柱に凭れ掛かった。
胸の衣をきつく鷲掴む。
「……っ…」
震える手で薬を取り出すと、それを飲み干した。
だがそれでも痛みはなかなか納まってはくれない。
医師の忠告の通り、徐々に薬では抑えきれなくなっているのだろう。

ようやく痛みが去ると、趙雲は大きく息を吐き出した。
それは痛みが納まったことに対してではなく……。
馬超に気付かれなくて良かったと。
ただそれだけだった。





馬超が戦の準備に忙殺される日からようやく解放されたのは、もう間近に出立を控える頃だった。
久々に趙雲の邸を馬超が訪れた。
手にした酒を趙雲へと差し出し、椅子に腰掛けるとほっと息をつく。
「流石のお前でも疲れているようだな」
趙雲は肴と酒器を用意して戻ってくると、馬超の向かいに腰掛けた。
「入隊したばかりの兵が多かったからな、調練が何とも大変だった。
今度の戦自体はそれ程大きなもでもないのだが、だからこそ丞相は新兵に実戦を積ませるいい機会になると考えたんだろう。
だがそれを率いる俺の身にもなってくれ」
ぶつぶつと言いながらも、趙雲から渡された杯を手に取る。
「勝てそうか?」
趙雲の問いに、馬超はふんと鼻で笑った。
「愚問だな。
勝てそうなんじゃない。
絶対に勝つんだよ」
自信満々に言い切って、馬超は一気に酒を呷る。

その姿に趙雲は羨望を覚えた。
もう―――自分が戦場を駆けることはできないだろうから。





夜も更ける頃。
窓から吹き込んでくる風が冷たさを帯びる。
もう秋の気配がすぐ其処まで近付いてきているのだ。
趙雲は立ち上がると、窓を閉める。

するとそっと後ろから抱きすくめられる。
馬超の指が趙雲の髪を弄び、その唇が項へと落とされる。
触れられる箇所が不思議なほどに熱を帯びていく。
馬超の腕の中で、趙雲が肩越しに後ろを振り返れば、今度は唇に感じる温もり。
それに応えるように、趙雲は目を閉じる。

あとはただ感情の赴くままに、身を任せる。
馬超の愛撫は彼の性格を現すように激しいく、そして優しい。
その熱に翻弄され、心地良い快楽に溺れていく。
一つに繋がると、馬超という男の存在をどんな時よりも近く感じられる。

力強い抱擁も。
口付けも。
肌から伝わる温もりも。

全てを身体に心に……刻み込んで―――逝きたい。






「……うっ…」
胸を押さえ、趙雲はきつく瞼を閉ざし、蹲っていた。
薬を飲んだのはもう随分と前だった。
にも係らず、一向に痛みは納まらない。

馬超に抱かれた後、共に吸い込まれるように眠りに落ちた。
だが、突然襲い来た胸の痛みに、趙雲の意識は覚醒する。
隣で眠る馬超に気取られぬよう、ゆっくりと身を起こし、そのまま自室を出た。
別の手近な部屋へと身を滑り込ませ、趙雲は痛みが去るのを、こうしてじっと待っているのだった。

「…む……頼むから……」
誰もいない静まりかえった部屋の中、趙雲は乱れる息の下から懇願する。
それは果たして誰に対しての言葉なのか。
趙雲自身も分かってはいなかった。

どうか、もう少しだけ。
あと少しだけで良いから―――時間をくれ。
孟起が出陣するその日まで。

そう、ただ願う心だけがそこにはあった。

趙雲の願いが通じたのか、はたまたようやく薬が効いたのか。
胸の痛みがようやく消えはじめた。
額に浮かんだ汗を拭い、趙雲は立ち上がる。

馬超が目を覚ましているかもしれない。
不審がられぬうちに早く戻らねばなるまい。
乱れた息を整え、趙雲は先程までの苦しさを微塵も感じさせぬ表情を作る。

しかし、趙雲の心配は杞憂に終わった。
自室へ戻れば、馬超はぐっすりと寝入っているようで、規則正しい寝息が耳に届く。
ほっと肩の力を抜き、趙雲は再び馬超の横へ身を滑り込ませた。

こうして過ごせる時もあと僅かなのだ―――





そうして迎えた出陣の朝。
空は青く澄み渡り、穏やかな日差しが降り注いでいた。
肉親を見送る多くの人々が城門に集結している。

その中に、趙雲の姿もあった。
目の前には、金色の見事な鎧を纏った馬超が立っている。
「無茶はするなよ。
決して冷静さは失うな。
それから……」
「分かった、分かったから!
晴れの出陣の日に、そう小言ばかり言わないでくれ」
うんざりした様子で馬超は趙雲の言葉を遮る。
「お前の方こそ、俺がいなくて寂しいからって浮気なんかすんなよ」
ニヤリと笑う馬超の頭に、趙雲の拳が落ちた。
「ふざけてばかりいないで、ちゃんと務めを果たせよ、孟起」
「どうせなら拳じゃなくて、口付けが欲しい」
全く反省する風もなく、馬超はしれっとした口調で強請ってみせる。
「もう一発お見舞いしてやっても良いのだぞ」
「あはは、それは遠慮しておく」
拳を握り締めた趙雲から逃げるように、馬超は軽やかに馬に跨った。

「そろそろ出立する。
ではな、子龍」
馬上の馬超を見上げ、趙雲もまた表情を和らげる。
「武運を―――孟起」

趙雲は笑った。
それが馬超の中に残る最後の自分の姿になるのだからと。
自分に出来る精一杯の笑顔を。

「あぁ、行ってくる」
軽く手を上げて、馬超もまた趙雲に応えるように晴れやかな笑顔を見せた。
取りも直さずそれがまた趙雲の中に残る馬超の最後の姿になるのだ。





列を成す隊の先頭で馬を進める馬超の脇へ、馬岱が馬を寄せて来た。
「あに……」
声を掛けようとした馬岱はしかし、最後まで言葉を発することはできなかった。
目を見開き、馬超を凝視する。
その表情にはありありと驚きが見て取れる。

馬超は泣いていた。
じっと前方を見据えたまま。
次々と溢れてくる涙を拭おうともせずに。

「一体どうなされたのです?兄上」
ようやく我を取り戻した馬岱が問う。
すると視線は前に向けたまま、馬超は口を開く。
「子龍はもう長くない」
と。

「えっ?」
突然何を言い出すのかと、馬岱の混乱は深まるばかりだ。
「あいつはもう直に死ぬ」
馬岱の戸惑いなど意に介さず、馬超は続ける。
まるで自分自身に言い聞かせるように。

「何を仰っているのです!?
趙将軍はあんなにもお元気だったではないですか。
先程も兄上を見送りに来て下さっていたでしょうに」
「子龍は病に侵されている。
それを俺に気取られまいと、必死に隠していた―――
けれど、俺は気付いていた。
あいつの様子がずっとおかしいことに……誰に分からなくても、俺には分かる」
「ならば何故先程は…」
馬岱が遠目に見た二人の様子は、いつもと全く変わりなかった。
互いに笑顔を見せていたではないか。

「子龍は病のことを俺に告げず、常とは変わらぬよう過ごそうと心に決めているようだった。
ならば俺に何が出来る?
問い詰めてみたところで、子龍は絶対に首を縦には振らぬだろう。
だったら、気付かない振りをしてやるくらいしか、俺には出来ぬではないか!
幾度も胸を押さえて苦しんでいる姿を見たことがある。
あの夜だって、発作を起こしたあいつが俺を、起こさぬようにとそっと部屋を出て行ったことにも気付いていた!
本当は苦しむあいつを思い切り抱き締めてやりたかった。
無理にでも寝台に縛り付けて、休ませたかった。
けど子龍の望みはそんなことじゃない。
俺もまたいつも通りに過ごすことであいつに応えたかった」
激情を隠そうともせず、馬超は声を荒げた。
手綱を握る手も、怒りのためか、悲しみのためか、震えていた。

「なぁ……岱。
俺はちゃんと笑えていたか?
あいつの望みを叶えてやれただろうか?」
「兄上……」
馬岱にはそれ以上何も言えるべき言葉がなかった。

馬超は決して後ろは振り返らなかった。
そうしたい衝動を必死に押さえ込んでいたのだ。
泣き顔を見せる訳にはいかない。

趙雲が馬超にそう望んだように。
馬超もまた趙雲の中に残る自分の顔が笑顔であることを望んでいたのだから―――





綺麗な列を成して、馬超の軍が門を出て行く。
趙雲はじっとその場に佇んでいた。
馬超の姿が地平線の彼方に消えるまで、ずっと―――

「……」
微かに趙雲の唇が動く。
けれどその声はあまりにも小さくて、吹き抜ける風の中に消えていった。





written by y.tatibana 2006.08.05
 


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