100題 - No65
注:この小説は献上小説「傀儡」から
乱れる」→「強引」→「強いられて」→「恨み
と続いています。
ダーク系なので、苦手な方にはお薦め出来ません!
死ネタ注意!

届かぬもの
久々に立つ、戦場。

趙雲は馬上で真っ直ぐに背筋を伸ばし、拓けた大地の彼方を見つめる。
そこに大勢の敵方の将兵の姿がある。
あと数刻もしないうちに、決戦の火蓋は切って落とされるだろう。

今この時だけは―――何もかも忘れらる……そう思う。
否、忘れなければならい。
戦場で余計なことを考えること、それは即ち死を意味する。

馬超との歪んだ関係も。
魏延への想いも。
趙雲を支配する憎しみも痛みも。

全てを無に帰して、今は戦わねばならい。

「趙将軍」
後ろから控えめに声を掛けられ、肩越しに振り返れば、そこには趙雲と同じように馬へ跨り戦袍を纏った青年がいた。
「……なにか御用か?馬岱殿」
趙雲自身でも驚く程に冷たい声だった。
趙雲が憎悪するのは馬超であって、いくらその血族であろうとも、馬岱に罪はない。

けれど馬岱は、趙雲の心中を読み取ったように静かに頭を下げた。
「申し訳ありません」
そう詫びの言葉を口にして。

趙雲は眉根を寄せた。
その謝罪の意味するところ―――恐らく、馬岱は全てを知っているのだ。
馬超と趙雲との関係を。
そしてその背景にある馬超の卑劣な手段も。

―――貴殿にそのようなことをして頂く謂れはない。
話がそれだけならば、私は失礼させて頂く。
もう直に攻撃の指令が下る故」
素気無く言い捨て、趙雲は軽く馬腹を蹴った。
それに呼応して、ゆっくりと馬は歩を進めだす。
だがそれに馬岱の必死の声が追いすがる。
「お待ち下さい!趙将軍!
確かに従兄が貴方にしていることはどう罵られようとも仕方のないことです。
私が謝罪した所で許されるとは思ってはおりませぬ!
ですが……ですが、兄上にはもう―――
「岱!!」
会話を遮る鋭い声が、更に後方から飛ぶ。

趙雲にとっては戦場でまで聞きたくなかった声だった。
馬超もまたこの戦に出陣しているのだ。

趙雲は馬超のことを顧みることもなく、その場を去った。
こんな所であの男に煩わされるのは沢山だった。





戦へと発つ前の夜も抱かれた。
何度も何度も、尽きることを知らぬように。
相変らず馬超の剣は枕元に置かれていた。

一度それを手に馬超に斬りかかったことがあったが、結局はそれを馬超の胸に突き立てることはできなかった。
魏延への想いが趙雲の殺意を寸での所で押し止めたのだ。

「殺せば良い」

そう平然と言う馬超の言葉に、どうして従うことができようか。
趙雲がそう出来ぬことを知っていて、嘯いているだけなのだ。
どこまでも趙雲を見下し、嘲笑っているに違いない。
馬超を殺せば、魏延の命運もない―――そう告げたのは馬超本人なのだから。

最初、そこまで自分が馬超に憎まれる理由を知りたいと思ったことが趙雲にはあった。
このような仕打ちが為されるのは自分が憎まれているからに違いないと思った。
だがいくら考えてみようともその答えが導き出されることはなった。
そして―――今となってはもう趙雲にとってそんな理由などどうでもよくなっていた。
それを知ったところで、何が変わるのかと。
馬超が飽きるその時まで、ただこの歪んだ関係は続いていくだけなのだ。





号令が掛かった。

はっと趙雲は我に返る。
「行くぞ!」
趙雲は自隊を先導するように、敵へ向かい駆けて行く。
敵兵との激しいぶつかり合い。
仕掛けられる攻撃を跳ね除けては、趙雲は己が槍を振るう。
次々と屍の山が築かれる。

どうやら戦況はこちらが有利のようだった。
じりじりと敵は後退していく。
「あと一息だ!」
周囲の兵へと声を掛け、趙雲は敵を蹴散らしてく。

その時、射掛けられた矢の一本が、趙雲の馬へと命中した。
「!!」
棹立ちになる馬から、趙雲は地面へと叩き落される。
全身を強かに打ちつけて、趙雲は顔を顰める。
「趙将軍!」
副将の悲痛な叫び声が耳に届いた。

はっと視線を上げれば、剣を振り下ろす敵の将軍らしき姿が目に入った。
「ただでは負けん。
お前も道連れにしてくれる…」
全身から血を流し、息も絶え絶えのその男は低く呻くと、今度は趙雲目掛けて剣を振り上げた。

だが手を伸ばせば届くところに槍はあった。
それを手に取り、揮うだけだ。
男が剣を振り下ろすよりも先に、男の息の根を止めることは趙雲には造作もないことだった。

けれど―――、一瞬、趙雲は逡巡した。
このまま斬られてしまえば、全てから解放されるのではないかと。
武人として…人として……考えてはならない想いが過ぎった。
そんなことはただ逃げているだけの他ならないと、今までの趙雲なら嫌悪しただろう。
しかしもう趙雲は疲弊しきっていた。
身体も心も、自覚している以上に。

槍へと伸ばす腕が僅かに遅れた。
男の剣が振り下ろされる。





目の前に朱色が散った―――





同時に鳴らされる撤収の銅鑼の音。
勝利に歓声を上げる、兵達の声が方々から聞こえた。





趙雲へと剣を振り上げた男は、地面に倒れ伏し、最早物言わぬ屍と化していた。
その趙雲の前に立ちふさがる一つの影。
それは金色に輝く鎧を身に纏った男―――馬超だった。

馬超の腕を覆っていた鎧は砕け、その下からは血が止め処なく流れていた。
馬超は趙雲に斬りかかる男の剣を、寸での所己の腕で持って受け止め、そして止めを刺のだった。

「怪我はないか?子龍」
馬超は己の傷を気にする様子もなく、趙雲を振り返る。
「う……して……、どうして私を助けたりなどした!?
お前は私が憎いんだろう?
私のことなど放っておけば良かったのだ!
私が死ねばさぞ本望だろう!!」
趙雲は倒れた上身を起こし、馬超を睨みつける。

「俺はお前の事を憎んでなどいない。
何度も言った筈だ。
お前のことを愛しているのだと」
「黙れ!
誰がそのようなことを信じるか!
もうそのような戯言は沢山だ!!」
趙雲は掴み取った槍を、下から馬超の喉元へと突きつける。
「ならばそのまま俺を殺せばいい」
静かに馬超は告げる。
凪いだ海のような瞳をして。

刺すような鋭い視線で、趙雲は馬超を射抜くが、やがてゆるゆると首を振り、槍を下ろす。
「卑怯者……。
私がそれを出来ぬことは誰よりもお前が知っているくせに!」
すぅっと馬超の目が細まった。
趙雲が初めて目の当たりにした、それは馬超の悲しげな瞳だった。





そうして、そこから一筋の涙が零れ落ちる。





「どうしても―――この想いは届かぬか…」





その呟きと共に、馬超は身を屈めると趙雲の身体を抱き締めた。
いつものような荒々しさはそこにはなかった。
優しく、包み込むように趙雲を抱く。

だが一瞬の内に馬超はその身体を離すと、そのまま歩き出した。
もう趙雲の方を振り返ることもなかった。





そして。
それが……、
趙雲が馬超を見た最期の姿になった―――





あの戦の後すぐ、馬超は呆気なく逝ってしまった。
蜀に降った頃から、身体の変調は始まっていたらしい。
そしてもう、あの戦の時には相当に病は進んでいたのだと―――馬岱から聞かされた。
馬超の病のことは馬岱しか知らなかったそうだ。
あの戦も、馬超たっての願いで出陣したのだとも。

「きっと兄上は…最期に貴方と同じ戦場に立ちたかったのだと思います。
もちろん許されるなどとは思っていません。
ですが……兄上には時間がなかったのです。
限られた時間の中でどうしても貴方を手に入れたかった。
だからあのような卑劣な真似をもって、貴方を我が物にした。
兄上が貴方を愛していた……どうかその想いだけは信じてあげて下さい」
葬儀にも体調が悪いと出なかった趙雲を、馬岱が訪ねて来たのだ。
馬岱はそれだけを言い残し、趙雲の邸を辞した。
趙雲はその馬岱の言葉にただの一言も言葉を返すことはなかった。

窓辺に腰掛、趙雲は空を仰ぐ。
くつくつと意識せぬままに、嘲るような低い笑い声が漏れてくる。

―――笑止な。
今更何を言った所で、あの男が為したことが消える訳ではない。
まして愛しているなどと……。
何もかも壊した挙句、さっさと死んでしまったあの男の言葉など信じられるものか。
あの男がこの世からいなくなったからと言って、何もかもが元通りになる訳ではない。
やり場のない憎悪を抱くこの心が平穏を取り戻すことも。
文長との関係も。
もう以前のようにはならないのだ。

さぞ満足だったことだろう。
己の思うが侭やりたようにだけやって、逝って。
あの男に何もかも奪いつくされた私にはもう何も残っていないというのに。

これがお前の目的だったのか、馬孟起。
最後の最後まで苦しめる為に、あの日私を助けたのか。
お前らしい。
本当に卑劣なお前らしい。
地獄の底から私のこの様を見て、笑っているのだろう。

狂ったように、趙雲は笑い続けた。

―――
扉を叩く音が、趙雲の笑う声を止めた。
びくりと身体が揺れたのは、意識してのことではなかった。

己の頭に浮かんだ考えが、あまりにも馬鹿ばかしく、趙雲は頭(かぶり)を振る。
馬超は死んだのだ。
ここに訪ねて来る筈はない。

だが趙雲はその場を動けなかった。
やがて業を煮やしたのか、扉が勝手に開かれる。

入ってきた人物を目にして、趙雲は目を瞠った。
その人物は迷うことなく真っ直ぐに趙雲の元へ向かってくる。
そうして趙雲の前に立つと、思い切りその頬を叩いたのだ。
「!!」
趙雲が反応を返すよりも早く、今度は趙雲の身体をきつく抱き締める。

「ぶん…ちょ……う」
呆然と趙雲がその名を呟けば、ますます抱き締める力が強くなる。
「馬鹿野郎!」
魏延は趙雲を怒鳴りつける。
「どうして……ここに?」
「文が届いた。
馬超殿が生前にしたためたものを彼の部下が持って来た」

その言葉に趙雲の頭に最悪の結末が過ぎった。
あの男は魏延をも道連れにしたのかと。
自分に何かあれば魏延を陥れる為の作を弄しているのだと……その内容をしたためた文を用意してあると言っていた。
それが遂に白日の下に晒されてしまったのか。

―――死して尚、私を更なる絶望へと突き落とすか…。

趙雲は悔しさに唇を噛む。
これでは、何の為に馬超の為すがままになっていたというのか。
意味はなかったと……そういう事か。

「馬鹿だ、お前は本当に。
何故、俺などを守るために犠牲になった?」
「えっ?」
「馬超殿からの文に全て書いてあった。
お前が何故俺に別れを告げたのか。
馬超殿と関係を持つようになったのか」
「嘘だ…あの男がそんな……」
趙雲には信じられなかった。
今までの馬超の仕打ちを考えればそれは当然である。

「あの人は本気で俺をどうこうするつもりはなかったんだろう。
ただお前を手に入れたかった。
憎しみでも良いから、お前に自分を見てもらいたかったんだろう―――あの人はお前のことを心底愛していた」
「嘘だ!
違う、文長!!
あの男は決して私を愛してなどはいなかった。
いつもいつも苦痛を植えつけるように私を抱いた。
片時もその身から剣を離そうともしなかった!!」
「違う……違うんだ、子龍」
魏延は激昂する趙雲を宥めるように、背を撫で、優しく語り掛ける。

「馬超殿は俺に最期まで勝つことができなかったと―――文の中に書いてあった。
子龍、馬超殿はお前の手に掛かることを本当に望んでいた。
だから常に剣を傍に置いていた。
あの人に対する憎しみがお前を突き動かし、いつでもその剣を手にすることができるようにと。
お前が馬超殿の胸に剣を突きたてた時、それは俺への想いよりも、馬超殿への憎しみが勝った時なのだと……。
憎しみで良いから、自分へ向かう気持ちを、俺以上のものにしたかったと……そう文に」

だからわざと憎しみを煽るような台詞を口にした?
痛みを与えるように抱いたのか?
愛していたから?
深く、深く。


「……」
趙雲は何も言葉が出てこなかった。
ただ混乱していた。
色々な感情が綯い交ぜになっている。





―――この想いは届かぬか……。





最期に馬超が残した言葉がふと甦ってくる。
包み込むように抱き締めてきた腕を。
そして流した一筋の涙を。




「私は…私は……」
「分かっている、子龍。
馬超殿を許せないのは当たり前だ。
俺も許せない。
どんな理由であろうとも、あの人のしたことは卑怯な手段に他ならない。
それでもどうか一つだけは信じてやってくれ。
馬超殿がお前を愛していたことだけは―――

「……」
趙雲は答えなかった。
ただ趙雲もまた魏延の背に手を回し、懐かしいその温もりを確かめるように魏延の肩口へと顔を埋めた。
その趙雲の肩が微かに震えているのに、魏延はあえて気付かぬ振りをした。








―――その場所はしんと静寂に包まれていた。
そこに立つ墓石の前に佇む人影がある。
漆黒の髪の端正な顔立ちの男だった。
じっと墓石を見つめている。
何を想い、その墓石を見つめているのか。
髪と同じ色の瞳からには、どんな感情の色も読み取れなかった。

しばらく男はそれを眺めた後、そのまま男は言葉を発することもなくその場を立ち去る。

男が来るまではなかったものがそこには残されていた。
花が一輪。
墓石の前で手向けられたその花は静かに風に揺れていた。







written by y.tatibana 2005.04.17
 


back