100題 - No35
注:この小説は100題「会いたい」の続きです。

離れない
激しく咳き込む音が、人気の無い小さな邸の内部に響き渡る。
趙雲は寝台の上で、上体を折り、口元を手にした厚い布で覆っていた。
ゴフッと鈍い音がすると同時に、手にした布は赤く染まっていく。
荒い息を肩で整えながら、趙雲はゆっくりと身を起こした。

―――人間とはそうは簡単に死なぬものだな…。

赤く染まった布を見つめて、ぼんやりと趙雲はそんなことを思う。
それでも日に日に力を失っていく身体。
槍を振るうことも最早出来なくなってしまっているだろう。

武人として既に死んだ自分。
それは人としても死んだと同じ。

それでも変わらず自分を求める男がいる。
会いたいと毎日尋ねてきては、分厚い鉄の扉を血が出るまで叩きつづける。
彼に会いたいのはもちろん、自分も同じだ。
けれどそれ以上に彼には生きていて欲しかった。
武人としていつまでも誇り高くあって欲しい。
戦場に立つ彼の姿に何よりも心惹かれたのだから。

伝染する死の病。
それを患ってしまった今、彼とは会えようはずも無い。
彼がいくら扉を叩いて自分を呼ぼうとも、言葉を発することは一度もなかった。

それに今のこの弱弱しい姿を見られたくはなかった。
彼もまた槍を持ち戦場を駆ける姿が好きだと言ってくれたから。



その時、微かに扉を叩く音に趙雲は気付いた。
控えめなその音から察するに馬超ではないだろう。
寝台から降り立つと、身体が傾いた。
それを壁で支えるようにして、趙雲は寝所を出て、扉へと向かった。

その気配を察したのか、扉の外から声が掛けられる。
「趙雲殿」
諸葛亮の声だ。
「お加減は如何ですか?」
「変わらずです……。
それよりもこんな所に来られてはなりません、早く城にお戻りを」
趙雲の言葉を無視して、諸葛亮は続ける。
「私の事よりも貴方のことです。
何か困ったこと等はありませんか?」
この邸には趙雲の意向で誰も人を置いておらず、必要なことは趙雲自ら為さねばならない。
「お心遣い感謝致します。
…大丈夫です、特にそのようなことはありません」
食事など今はあまり喉を通らなくなっていた為、準備する必要もなくなってきていた。
それは大丈夫だということではないだろうに、趙雲は余計な気遣いをさせまいとそう答えたのだった。

だが、諸葛亮はそれは見抜いているようだ。
「やはりご自分の邸に戻られた方が良い。
貴方がどうしても望むのならと、ここに住むことを陛下にもお認め頂きましたが。
けれどこんな所では満足な治療も受けられません。
このような場所で病身の貴方が一人でいることなど、正気の沙汰とは思えません」
「治療など無駄なこと…貴方もご存知のはずです。
武人として働けぬ今、もう私は死んだも同然の身。
ここがもっとも相応しい死に場所だと思います」
「貴方は今までこの国の為、力を尽くして下さってはないですか!?
そのようなことあるはずがありません。
それにもう―――馬超殿にもお会いにならないつもりですか?」

すると趙雲は小さく笑った。
「貴方は何でもお見通しのようですね。
ええ…会うつもりはありません」
そこに趙雲の意思の強さを感じ取ったのか、諸葛亮が深く溜息を吐く。
―――また参ります」
そうして諸葛亮は去って行った。

趙雲もまた寝所に戻ろうとした。
その趙雲の耳にコツコツと鉄の扉の脇…床に接する部分に設えられた小さな扉を叩く音が届いた。
そこは書簡などをやり取りするためのもの。
辛うじて手を差し入れることの出来るほどの小さな扉だった。

諸葛亮が先程何が渡しそびれたのだろうと、趙雲は屈み込むとその小さな扉を開けた。
こちらの方は隣の鉄の扉とは違い閂などは掛かっていなかったのだが。
そこから冷たい風が吹き込んでくる。
思わず身震いし、趙雲は開け放った扉を見つめる。
だがそこから何かが差し入れられてくる様子は無い。

扉を叩く音は風のせいだったのだろうか。
不審に思いつつ、そこから外を確認しようと、趙雲は扉の側の床に片手をついた。

その瞬間を見計らっていたようだ。
外から伸びてきた手が、趙雲の手首を捉えた。

―――っ!!」
趙雲は目を見開いた。
忘れもしない、この指の感覚。
「捕まえたぞ、子龍」
馬超だ。

慌てて趙雲はその手を振り払おうとする。
だが馬超はそれこそ趙雲の手首が折れるのではないかという程の力でもって彼を捕らえていた。
今の弱りきった趙雲の身体では到底それを外せそうにもない。
「離せ、孟起!!」
たまらず趙雲は叫んだ。

久方ぶりに聞く、趙雲の声に馬超はそっと微笑を浮かべる。
「嫌だ、絶対に離さぬ。
お前がこの鉄の扉を開けてくれるまでは」
「駄目だ!それだけは。
頼むから聞き分けてくれ。
お前に会うわけにはいかぬのだ」
「嫌だと言っているだろう」
「孟起!」
懇願するようにその名を呼んでも、力が弱まる気配はない。
どうあっても離す気がないことが感じ取れる。

趙雲は堅く目を閉ざす。
迷いを断ち切るように一度かぶりを振ると、捕らえられているのとは別の手で己の懐を探る。
そこから取り出されたのは小柄だった。
鞘の部分を口にくわえ、趙雲はそれを鞘から引き抜いた。

―――許せ、孟起。

心の中で詫び、目を開けると、趙雲は小柄を馬超の手を目掛けて振り下ろした。

戦場では慣れた血の感触と、その匂いが鼻をつく。
小柄に切りつけられた馬超の手の甲からは真っ赤な血が止め処なく溢れ出している。
それでも―――馬超の手は趙雲を離してはいなかった。
それどころか、更なる力を其処へと加えてくる。

「も…うき…」
呆然とした様子の趙雲に対し、外から聞こえてくる馬超の声は力強かった。
「絶対に離さぬと言っただろう?
これくらいの痛み、お前に会えぬ心の痛みに比べれば如何ほどにもない」
「何故分かってくれない!
私はお前に生きていてもらいたい」
「お前の方こそ何も分かっていない。
お前と離れていることがどれだけ辛いのか。
離れたくない…会いたいのだ、子龍。
もしお前が本気で俺から離れたいのならば、この扉を開けて俺の胸を突け!」

気付かぬうちに、涙が溢れていた。
痛い程に伝わってくる馬超の自分への想い。
素直に嬉しいと思う。
そして馬超ほどの男にそれ程までに思われる自分がとても幸せだと改めて感じる。



趙雲は震える手を上へと伸ばし、閂を外した。
すると馬超がようやく趙雲の手を解放し、同時にもの凄い勢いで扉が開かれた。
「子龍」
戸口に立った馬超が優しく呼びかける。
趙雲は馬超を見上げ、そうしてゆっくりと立ち上がった。
視線の高さが同じになったところで、馬超は心底嬉しそうに笑った。

「会いたかった」

そう告げたのはどちらの方だったのか。
二人は互いにきつく抱き締めあった。

「俺はもう絶対にお前の側を離れない。
―――帰ろう…子龍」
馬超の言葉に趙雲はやはり戸惑ったように首を振る。
「この身体を見れば分かるだろう?
もう私は長くない。
そんな姿を誰にも―――特にお前には見られたくはない。
ここで一人死なせてくれ」
だが馬超はそれを無視して、趙雲を抱え上げた。

随分と軽くなったその身体に、馬超は辛そうに顔を歪めた。
だが、もう決して離すつもりはなかった。
「どんな姿になっても、お前はお前だ。
お前の魂が汚れる訳でも、変わる訳でもあるまい。
―――俺を甘く見るな」
そのまま馬超は趙雲を抱えたまま、邸の外へと足を踏み出した。
身を切るような寒さだ。

「孟起!」
「諦めろ、子龍。
お前も大概頑固かもしれんが、俺はさらにその上をいく人間でな。
その上我侭なんだ。
よく知っているだろう?」
寒さから趙雲の身を守るように馬超は趙雲を更なる力で抱き込む。
趙雲は大きく息を吐き、そして顔を伏せた。
もう何を言っても無駄らしい。

「雪だ…」
馬超の呟きに視線を上げれば、重く垂れ込めた空から次々と舞い落ちてくる白い結晶が目に入る。
北方生まれの趙雲にとって、雪は特別なものだった。
それは馬超も同じなのだろう。
よく二人で肩を寄せ合い、ただ静かに雪を眺めていたことを思い出す。

あと何度この雪を見ることが出来るのだろうか。
しっかりと焼き付けておきたかった。

「来年も、その次もずっとこうしてお前と雪を見たいな」
馬超は腕の中の趙雲を覗き込み、趙雲に囁きかける。

そんな日が来ないことは馬超も分かっているだろうに。
けれどそれを趙雲は口にしなかった。
馬超の気持ちが痛いほど分かるから。
そして趙雲もまた馬超と同じ想いだったから。



その場に佇み、しばらく二人は空を見上げていた。
一瞬でも長く二人で過せる時間が続くようにと。
純白の欠片にそう願いを込めて―――





written by y.tatibana 2004.01.17
 


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