100題 - No21
注:この小説は100題「ひたすら」の続きです。

視線
空を見上げれば抜けるような青。
けれど馬超の心は一族を失ったあの日から一度も晴れることはない。
ずっと重く厚い雲が垂れ込めている。
空を自由に羽ばたく鳥達を馬超は食い入る様に眺める。

今の自分はまるで―――





回廊で言い争う声がした。
「今日は休んでいろと言っただろう!」
怒鳴っているのは張飛。
「ですから…私は大丈夫だと申し上げているではありませんか」
それに対して趙雲が困ったような笑顔を浮かべて答えている。

最初に馬超の姿に気付いたのは趙雲だった。
真っ直ぐ見つめてくる視線を馬超は冷たく見返した。
それでも趙雲は怯む様子も見せず微笑みかける。
「おはようございます、馬超殿」
もちろん馬超から返る言葉はない。

馬超の事を「好き」だと趙雲が告げたのは馬超が蜀に降ってまもなくを過ぎた頃。
一族を失った自分に対する同情でそんな馬鹿げたことを言っているのだろうと馬超は思った。
くだらない憐憫の情など必要ないと馬超がいくら突っぱねてみても、趙雲は本気だと…信じて欲しいと懇願する。
そう言って頻繁に屋敷を訪ねてくる趙雲を馬超はある日を境に抱くようになった。
趙雲が繰り返す戯言を聞く代わりに、己の欲を満たしたとて構うまい…。
そんな昏い想いが馬超を支配する。
口付けも愛撫もなく、ただ己の欲を満たすだけの一方的な行為。
苦痛しか感じていないであろう筈なのに、趙雲はそれでも尚馬超を好きだと言う。
昨夜も訪れた趙雲をただ抱いた。

今、目の前に立つ趙雲の顔色の悪さは昨夜の行為の所為なのだろう。
恐らく張飛はそんな自分と趙雲の関係を知っていて、趙雲の体を心配し休むよう諌めていたのだろう。
事実馬超を見る張飛の眼差しは険しくて、何か言いたいのを堪えているように思えた。
趙雲はただ穏やかに馬超を見つめている。
趙雲の視線はいつも真っ直ぐに相手を捕らえて、決して逸らされることはない。
馬超がどれだけ趙雲を冷たくあしらっても、そして彼の体をどれだけ乱暴に開いても、その漆黒の澄んだ瞳は逸らされることなく馬超へ向けられている。
趙雲の想いを信じることはしないのに、突き放すこともせず、人とのよすがに縋らずにはいられない己の浅ましさを全て見透かされているようだ。
それに耐え切れず、いつも先に視線を逸らすのは馬超だった。
今もまた―――馬超は眉根を寄せ、その視線から逃れるように足早にその場を立ち去った。



馬超はそのまま回廊の先にある、城の庭先に出た。
陽気に誘われてか、木々の梢に何羽かの鳥が羽を休めて囀っている。
誘われるように馬超は手を伸ばす。
その気配を感じ取って、鳥達は一斉に飛び立った。
高く広がる蒼天目指して―――
残されたのは馬超一人。
高い城壁に囲まれたその庭で…馬超は伸ばした手をきつく握り締め、
じっとその場に佇んでいた―――



やがて陽が落ち、扉を叩く音が響く。
扉の先に立っているのは、いつものように穏やかな微笑をのせた趙雲。
「貴殿も懲りぬ男だな…。
同情も憐れみも必要ないと幾度言わせれば気が済む?」
「私の気持ちは偽りではないと私も何度も申し上げているはずです」
きつく睨みつける馬超の目をやはり趙雲は逸らすことなく見つめてくる。
この視線がいつも心を乱す。
落ち着かない…―――

―――同情ではないと言うのなら、一体俺のどこに魅かれたというのだ?」
「理屈ではないのです…。
貴方の傍にいたい、貴方の傷を癒したい…そして貴方の笑顔が見たい。
ただただそう想う気持ちを止められない」
馬超は趙雲の両腕を強い力で掴んだ。
途端に趙雲の体が強張るのが分かった。
馬超は酷薄な表情を浮かべる。
「怖いのであろう?俺の事が。
…だが俺はここに来たからには遠慮なくいつも通りに貴殿を抱くぞ。
覚悟は出来ているのだろう?
―――俺はこういう男だ…こんな人間の傍にそれでもいたいと思うのか?」
馬超の予想を裏切って、趙雲は躊躇うことなく頷いた。
「…貴方に抱かれるのは、身体も心も酷く痛みます。
けれど…それでも貴方に触れられている…抱かれているその時だけでも貴方が私を欲してくれているのが―――嬉しいのです。
愚かだと思われるでしょう…。
ですが―――それが偽らざる本心ですから」
向けられるひたむきな視線。

今までこれ程までに自分を必要だと思ってくれた人間がいただろうか。
本当は―――分かっている。
趙雲が同情や憐れみで自分のことを好きだなどと言っているのではないということに。
しかしそれに気付かない振りをして、自身を騙し続けている。
それは受け入れることが怖いから。
また失ってしまうことが何より恐ろしい。
もうあんな想いはたくさんだった。
けれど自分の弱さから趙雲を完全に突き放せずにいる。

「俺は…羽をもがれた鳥だ。
一族を殺され…裏切られ故郷を追われ…今や飛べなくなった鳥。
それでも青い空に焦がれ、自由に羽ばたく鳥に目を奪われている。
そんな男のことが好きだとは…貴殿はもの好きだな」
自嘲を込めて馬超は言う。
「飛べないのなら、歩けばいい。
羽を失くしても、足があるのなら歩けるはずです。
もし…足も折れてしまったなら、その時は私が貴方をどこへでも運びましょう。
飛ぶよりも速くはないかもしれない…自由も利かないかもしれません。
ですが、生きている限り人は前に進めるではありませんか」
さも当たり前のように言って、趙雲は微笑んだ。

過去に捕らわれ、あの時から動けなくなっている。
自由に飛ぶ鳥に自分を重ね、幸せだったあの頃を思い出していた。
全て終わったことなのに。
悔やんでも恨んでも過去は変わらない。
趙雲の言う通り、羽をもがれたのなら歩けばいい。
だが……、
頭では分かっていても、長い間冷たく凍りついた心がそれを受け入れてはくれない。
また前へ進んで、傷付くことを怖れている。
どうしようもなく臆病なのだ…自分は。
けれど―――
今、目の前に立つ真っ直ぐで強いこの男を、こんな自分の身勝手でこれ以上縛りつけてはいけない。
それだけははっきりと自覚した。
一時の快楽を得るため、そして寂しさを紛らすためだけに抱いても良い様な人間ではないのだ。

馬超は趙雲を引き寄せ、初めて趙雲に口付けた。
趙雲は驚きで目を見開き…やがてそこから透明な雫が一粒零れ落ちた。
「趙雲殿」
唇を離すと名を呼んだ。
こうやって彼の名を呼んだのも初めてではなかったか。
しっかりと逸らさぬよう趙雲の瞳を見据えた。
「貴殿の気持ちは嬉しく思う。
けれど―――もうここには来ないでくれ」
趙雲はじっと馬超の目を見つめ、そうして頷いた。
「分かりました」
綺麗な笑顔を浮かべて、趙雲は静かに一礼した。
そして踵を返し、部屋を出て行った。



―――これでいい。
もう解放しなければならなかったのだ。
前に進むことの出来ない自分が留めておいては駄目だ。
例え進むことが出来たとしても、どうして今更彼の想いを受け入れることができようか。
散々心も身体も傷付けてしまったというのに。

心に感じる痛みを押し込めるように、馬超は壁に拳を叩きつける。
もう終わったのだと―――そう自分に言い聞かせながら…。



その日を境に…扉を叩く音はなくなった―――






written by y.tatibana 2003.11.08
 


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