ショージ君のよたよた海外旅行
中国 ・上海南昌

ひとり旅

 ふと目を覚ますと、上海の街は、まだ明けやらぬしじまのなかにあ
った。朝靄(もや)にかすむ高層ビル群が少しずつベールを脱いでい
く。そんな様子を、ベッドのなかから、けだるさと一緒にしばらく眺
めていたが、そのまま、ひとときをまどろんだ。         
 再び目を覚ますと、林立するビルも、あいだを埋めて果てしなく連
なる民家も、すべてが朝の光りを浴びて神々しいまでの輝きに変わっ
ていた。部屋は20何階かにある。世に名高い上海の喧(けん)騒も
ここまでは届かない。ただひたすら、静かに移ろいゆく朝の儀式に見
とれるばかりだ。地球が動くということを、これほどまでに分かりや
すく感じたことはなかった。                  
 数日前の朝には、上海の西方700キロにある町の楼閣に昇ってい
た。ここからの眺望の先には景勝地・廬山が、そのまた向こうには、
あの長江がある。降りしきる五月雨のなか、この広大な中国を独り占
めにでもするかのように、時間を忘れて眺めていた。屋根瓦の隙間か
ら小鳥が「チチ、チチチッ」と、私をのぞき見る。眼下を流れる大河
には漁夫が小舟をあやつり、遠望のなかを行く船もまた、まるで音を

  

 

立てない。                          
 この時も思った。静かに、ゆったりとした時間に身を置くことで、
これほどまでに息づく自然の豊かさを身近に感じるのか、と。この旅
は、はじめてのひとり旅。定年退職の記念に、40年余を勤めあげた
という感傷と連れだって、のんびりと自分を癒やしてみたかった旅で
もある。                           
 旅から帰った翌朝。いつものように近くの土器川べりを散歩した。
歩き慣れた河川敷なのに、ここでも、見るものすべてが、いままでと
は違って見える。草木に遊ぶ野鳥の声がこれまでよりずーっと近くに
聞こえる。立ち止まって雲の流れに見とれたり、水の音、緑の艶やか
さなどを、ひとしきり眺めながら、あたりの自然におもいっきり馴染
んでいる自分の変りように驚いてしまう。            
 それにしても、定年というのは、寂しさとか脱力感などとともに、
その時を迎えるものと思っていたら、そうではない。旅先で、連日の
手持無沙汰を楽しみながら「さすがに、ひとり旅はいいなぁ」くらい
に思っていたが、どうも、それだけではないようだ。       
 思うに、定年退職の日が、いよいよ現実となってくる頃、そのあた
りから、長い間、身につけてきた背広にネクタイという鎧が、ボロボ
ロとはがれ落ちていくのかもしれない。これまで、ほど遠い存在だっ
た悠悠閑閑とでもいう世界が、ギギ、ギギイーっと、その扉を開けて
くれるような、そんな気分がする。きょう、河川敷を散歩しながら、
ふと、そのことに気がついた。なんともはや、うれしい
       
 

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Last updated: October 5. 2001