ぶひ〜
相変わらず資料がない〜
誰か頂戴(笑)
地図でも描かないと、良く解らないなあ


クルスク



ソ連軍の新たな攻勢が開始されようとしていた。
すでにドン河を守るイタリア軍は跡形もなく、もう一歩でA軍集団殲滅が可能となる。
だが、ドン軍集団が西へと向かったことで攻勢は遮られ、そのもう一歩が遠い。

そこで、ソ連軍が立てた作戦は三段構えと成っていた。
南方への攻勢を続け、ドン、A軍集団をこの位置に固定する。
次に、西への攻勢を開始し、この方面を守備しているB軍集団を西へと追いやり、ハリコフを占領する。
さらに、状況が許せば、ハリコフからアゾフ海まで南下し、ドン、A軍集団を包囲殲滅する。
これがソ連軍の立てた作戦であった。
作戦の対象となる領域は非常に広く、期待される戦果も大きい作戦であったが、一方で、スターリングラードのドイツ軍がなお抵抗を続けている状態であり、戦力的に可能かどうか危ぶむ声もあった。

1月13日、ドン河を守備するハンガリー軍に攻撃が加えられた。
他の同盟国軍の例と同じく、短期間で崩壊したハンガリー軍を無視して、ソ連軍が高速で西へ進撃した。
これによって、ヴォロネジ付近で守備していたB軍集団のうち、第二軍が半包囲状態となった。
さらにこの位置から、ソ連軍は南西方向に軍を展開し、同盟国軍の残党を一掃し、2月にはドネツ河まで達した。
一方、僅か数十キロ西で起こったこれらの出来事に対し、ドン軍集団は何ら手を打てなかった。
A軍集団がカフカスより退却中であり、動けなかったのだ。

1月31日、ソ連軍がドネツ河に迫ろうとしているとき、ようやくA軍集団のほとんどが退却を完了した。
マンシュタインはただちに状況打開に奔走した。
まず、マンシュタインはドン河からの撤退をヒトラーに迫った。
A軍集団が退却した以上、ドン河戦線を維持する必要はないのだが、ヒトラーはなかなか首を縦に振らなかった。
さんざんもったいを付けた撤退許可がでると、マンシュタインは部隊を後退させ、生じた予備兵力を急いで再編した。
だが、同時にヒトラーは、ソ連軍が迫っているハリコフを死守するように命令を発した。
マンシュタインはハリコフからの撤退を主張したが、これ以上の大都市陥落を許すようなヒトラーではなかった。

だが、ここで事件が生じた。
死守を命令されたSS装甲軍団が、ヒトラーの命令を無視して包囲下のハリコフを脱出したのである。
SS装甲軍団としては近くに居たという理由だけで包囲網の中に放り込まれたわけであり、しかも戦車部隊が市街戦で消耗するなど、甚だ愚かなことであった。
例によって、これはヒトラーを激怒させたが、一方で、ソ連軍も大きな関心を示した。
SS自体は軍ではなく、ヒトラー直属の親衛隊である。
ヒトラーの性格を良く心得ているスターリンにとって、その部隊が退却したという事実は、ドイツ軍の崩壊と同義と映ったのである。
攻撃中のソ連軍に新たな命令が下った。
南西方面軍が、ドネツ河を越え、さらにはドニエプル、アゾフ海を目指した。
しかも、作戦当初の第三段階のみならず、西への攻勢も指示されたのである。
ヴォロネジ方面軍は、クルスクを越え一路西へと進み、その攻勢は、ドイツ軍中央軍集団にまで及んだ。
もちろん、この予定外の攻勢は、ソ連軍に補給難をもたらしたが、それらは無視された。

2月20日、マンシュタインの反撃が始まった。
再編された戦力は南方軍集団と命名され、A軍集団の一部戦力を取り込んで、強力な軍に成っていた。
しかも、その前方を行く、ソ連軍の南西方面軍は無防備に側面をさらけ出している。
第一装甲軍が砲撃を開始した。
すでにソ連軍は燃料不足のため、動くことすら困難である。
南西へ突出したソ連軍を、北と南からドイツ軍が分断、各個撃破した。

この事態に対する、南西方面軍の対応は遅く、司令部が気付いて、ようやく防御に移るように指示を出したとき、すでにドイツ軍はあらゆる場所で勝利者となっていた。
僅か一週間で、数百台の戦車を失い、南西方面軍の攻勢は消滅した。


この反撃によって、ハリコフ南方からソ連軍は一掃され、西へと進んでいたヴォロネジ方面軍が突出した格好になった。
ソ連軍は直ちに部隊を南へと回して側面防御に当たらせることにした。
一個機甲軍がハリコフ防衛のために南下していた。

「ファイエル!」

3月2日、ドイツ軍の戦車部隊が側面から躍りかかった。
雷鳴を遙かにしのぐ爆音と、赤熱した砲弾の雨がソ連軍を混乱に陥れた。
新型のタイガー戦車を含む装甲部隊がソ連軍を次々に分断した。
ハリコフ周辺へと再び舞い戻ってきたSS装甲軍団だった。

わずか2日の戦闘で、ハリコフを守るべきソ連軍も全滅した。

ハリコフを再び奪取したドイツ軍は、なおもドネツ河に沿って北進を続けた。
さらにマンシュタインは、ヴォロネジ方面軍の北にいるドイツ軍の中央軍集団に対して、北側からの攻撃を要請した。

この危機に対し、ソ連軍がとりえる方法は限られていた。
予備兵力の全てが、北上を続けるSS装甲軍団の前面に投入された。

しかし、それでもドイツ軍の足は止まらなかった。
最後の予備部隊はスターリングラード戦で消耗しきっていた部隊だったからである。
3月16日、ドイツ軍がビエルゴロトを占領した。

ヴォロネジ方面軍は深刻な危機に直面した。
ドイツ軍がさらに北上を続け、クルスクに達するとヴォロネジ方面軍は壊滅する。
この危機に対応する予備兵力はすでに無く、他の方面軍が到着するまでにはまだ時間があった。
残りの手段は撤退しかなかったが、正面のドイツ軍の追撃を受けることは確実で、多くの装備が失われるであろう事は容易に予想が出来た。

ところが、ソ連軍が撤退を始める前にドイツ軍の足が止まった。
止めたのはソ連軍ではなく、ロシアの大地だった。
3月中旬に入って気温が上昇し、雪と氷を溶かしたのである。
これによって生み出された膨大な水が、ロシアの大地を泥に変えた。
それでも、ドイツ軍は泥濘の中を北上しようとした。
確かにクルスクまでの道のりは遠くなったが、北からの攻撃がこれを補うはずであった。

だが、北からの攻撃を要請された中央軍集団は動かなかった。
理由は、この方面にいた第九軍の疲労であった。

マンシュタインの反撃は、泥の中に終わった。











1943年春、
ドイツは悪化する一方の情勢の中で、攻勢による戦局打開の道を選んだ。
むろん、攻撃に必要な戦力は大きく不足していたが、防御に回れば同盟国が離反すると言う政治的理由により攻勢が選ばれた。
特に問題となったのはイタリアであった。
北アフリカに最後まで残ったチュニジアは陥落し、イタリアのファシスト党を揺るがしていた。
すでに地中海の制海権は失われて久しく、シチリア島への連合軍上陸はもちろんのこと、イタリア半島への上陸さえも十分考えられた。
この事態に、イタリア内部では連合国側へ寝返ろうとする動きが見られた。
ムッソリーニはともかく、他の幹部達が寝返り、クーデターを起こそうとすることは十分考えられた。
密かに、イタリア占領計画が立てられ、この為にドイツ軍の攻撃は遅れていた。

ドイツ軍のクルスク攻撃は5月に開始される予定だった。
東部戦線に突出部として残ったクルスクを攻略し、戦線を直線にする。
これによって生まれる予備兵力は、ドイツ軍にとって貴重な戦力となるはずだった。
ところが、第九軍のモーデル将軍が兵力不足を訴えたこともあり、攻撃は遅れに遅れ、すでに7月に成ろうとしていた。

これを見抜けない、ソ連情報局ではなかった。
ドイツ軍がもたついている間に、その兵力、目標を完全につかんでいたのである。
ソ連軍は直ちにクルスクの徹底的な防衛陣地化を開始した。
さらに、中央方面軍が北側に、ヴォロネジ方面軍が南側に配置され、それらには多量の戦闘部隊が配属された。

7月4日、クルスクの南から、第四装甲軍が攻撃を行い、「シタデル作戦」は開始された。
砲兵による一斉砲撃の後、中央のSS装甲軍団を中心に、左翼に第48装甲軍団、右翼に第3装甲軍団が展開し、攻撃が始まった。
一方の北部では、第九軍が7月5日に砲撃を開始することになっていたが、これを嗅ぎつけたソ連側が先制砲撃を加えたため混乱が発生し、やや遅れて戦闘が開始された。
第九軍が出撃し、三号突撃砲と重戦車に支援された歩兵が塹壕に向かって突撃する。
第一次大戦を思い起こさせるような、塹壕戦が始まった。
両軍の砲火が交錯して、戦場の視界は著しく悪くなった。
突撃砲の後ろに歩兵が続いたが、塹壕にたどり着くまでに多くが脱落し、また付いていけた兵士も、戦闘を行うどころではなかった。
このため、支援を失った戦車や突撃砲は、歩兵の肉薄攻撃の前に大きな損害を出した。
特に、正面装甲200mmを誇るエレファント戦車は有効な突撃力を持つと見られていたが、機銃を装備しないこの戦車ほど無様な物はなかった。
塹壕は何層にもわたって掘られており、百メートルの前進のために、千人単位の死体が生み出された。
塹壕の無い部分には地雷が敷き詰められ、拠点となる村は陣地で囲まれ要塞と化していた。

急遽、突破のために装甲部隊が投入され、ようやく前進に弾みがついたが、ソ連軍の対応も素早かった。
7月6日、ドイツ軍は10kmの厚さを誇った陣地帯を突破し、その南にある高地帯に達した。
ドイツ軍は4個装甲師団を投入したが、ソ連軍も2個機甲軍団を投入し、高地を守備した。
ここで、東部戦線始まって以来の大戦車戦が繰り広げられ、両軍2000台余りの戦車が激しく交戦することとなった。
ドイツ軍は東西にのびるこの高地を突破すべく、何重にも渡る波状攻撃を仕掛けたが、この高地を越えることは出来なかった。
7月8日、やむを得ず、予備の第四装甲師団を中心とする部隊が、高地の西側を迂回すべく進撃した。
この攻撃により、ようやく高地の一端を突破することに成功したドイツ軍だったが、高地を下る前にソ連軍が反撃し、一日と保たずに高地から蹴落とされてしまった。

一方、南部での戦闘はドイツ軍の死にものぐるいの攻撃で幕を開けた。
多重に渡る陣地を突破するには、間断無い攻撃によって敵に対応の暇を与えないことが重要であることを、マンシュタインは解っていた。
脱落する兵士や戦車は無視し、ひたすら前進を続ける。
この、ほとんど全戦力を叩き付けての攻撃は、一応の成功を見せ、開始1日後には10kmほどの進撃に成功した。
しかし、損害も大きかった。
特に、左翼の第48装甲軍団では、パンツァー・カイルの先頭を担う、新型パンサー五号戦車の故障が続出していた。
この戦車に関して言えば、ソ連軍に破壊されるより、故障によって脱落する数の方が遙かに多かったのである。
この為に、7月6日はソ連軍の反撃を食らい続けることになった。
ヴォロネジ方面軍は、多量の予備兵力を投入して攻撃を仕掛けたが、ドイツ軍の戦術能力はそれを上回っていた。
突撃陣形から素早く迎撃陣形へと変化したドイツ軍が、高火力をソ連軍に叩き付け、この日の反撃は撃退されてしまった。

7月7日、第48装甲軍団が再び前進を開始して、オボヤニ前方のペナ河上流に達した。
川に達して足の鈍ったドイツ軍に対して、再びソ連軍が反撃を仕掛けたが、この日も前日の二の舞となった。

一方、その東でも激戦が続いていた。
SS装甲軍団と、右翼の第3装甲軍団はドネツ河の上流域を目指していた。
このうちSS装甲軍団は、最精鋭の名に恥じない戦いを展開していたが、第3装甲軍団の方はもともとの移動距離が長かったこともあって遅れていた。
だが、ソ連軍の状況も良くはなかった。
ヴォロネジ方面軍の反撃はいずれも失敗に終わり、もはや予備兵力は底をついていた。
ドイツ軍は損害を無視して前進を続け、進撃開始点から30km北へ進んでいる。
このため、戦略予備として後方に控えていたステップ方面軍から、2個軍が投入されることになった。

7月11日、北では重大な事態が生じていた。
最後の予備であった第四装甲師団が投入されたことを知ったソ連軍が、第九軍の側面に攻撃を仕掛けたのである。
これに対応できる予備の装甲師団は無く、第九軍の唯一の選択肢は、攻撃を停止して側面へ部隊を回すことだけであった。
北での戦闘は終結し、ドイツ軍は10kmほど戦線を押し下げただけで、出撃地点へと戻らねばならなかった。

南での戦闘は、第二局面を迎えていた。
7月12日早朝、プロホロフカでSS装甲軍団は防御態勢に入っていた。
遅れている、右翼をここで待つためである。
このSS装甲軍団に、投入された予備兵力によるソ連軍の波状攻撃が開始された。
第一波は簡単に撃退されたが、9時頃に本格的な攻撃が始まった。
ここで展開された戦闘はドイツ軍が守り、ソ連軍が攻撃するというこれまでとは逆の戦闘だった。
T34が土煙を上げながら進撃し、これを迎え撃つべくドイツ軍から高密度の砲火が浴びせられる。
大半のT34は炎上したが、持ち前の速度を生かして砲火をかいくぐったT34は、ドイツ軍に至近距離からの砲撃を浴びせた。
両軍の戦車は数十メートル単位の距離で砲火を交わした。
この零距離射撃には、タイガーの重装甲も無力であった。

この日の戦闘は、昼過ぎから混戦状態となり、両軍は目の前の対応に追われて、全体の状況をつかめていなかった。
夜に入って、戦闘は中断し、両軍とも来るべき朝に備えて兵力の再編を行った。
明日の勝利を信じて準備を進めた両軍だったが、その明日がドイツ軍に訪れることはなかった。

7月13日、ドイツ軍へと舞い込んで来たのは連合軍のシチリア島上陸の知らせだった。
ヒトラーは作戦中止を指示し、イタリアへの増援を派遣することにした。
マンシュタインは作戦続行を主張した。
すでにクルスクまでの距離は半分もない。
右翼が到着し、投入された予備兵力を撃破すれば、ソ連軍の抵抗力は著しく低下するはずであった。
だが、それに対するヒトラーの答えは、有無を言わさぬ兵力の引き抜きであった。
クルスク戦は終わった。

ドイツ軍は出撃地点へと後退し、多くの重装備と、故障や損傷した多量の兵器が、戦場に放棄された。
夏のドイツ軍の攻勢は終わりを告げ、同時に、多くの装備が失われた。
両軍合わせて数千台にものぼる戦車が、この戦闘で失われ、ソ連軍が被った損害も軽視されざる量であったが、それらは短期間の間に、修理あるいは補充されたのに対して、ドイツ軍の兵力は二度と回復することは無かったのである。



このあと、ソ連軍が反撃を開始したのは、わずか半月後のことであった。










You can write a mail to me.

Return