ぶひ〜
資料がない〜
全然書けないではないか。困った


スターリングラード





1942年夏
ドイツ軍の夏の攻勢はある意味、戦争に勝利するための最後の手段であった。
アメリカの参戦は予定の物だったが、モスクワ占領の失敗は予定の物では無かったからだ。
アメリカが本格的に戦力を投入してくるまでに、何としてもソ連を、戦争から脱落させねば成らなかった。
しかし、モスクワ占領を狙ったタイフーン作戦の失敗は、この作戦に参加した北方、中央軍集団戦力の著しい低下を招いた。
この状況でソ連を脱落させるための手段は、実質的に作戦に参加しなかった南方軍集団による攻勢しかなかった。
ソ連の南部工業地帯を押さえ、これによってソ連を無力化するのである。

この攻勢の重要性は非常に高く、ドイツ軍は他の戦線を薄くしてでも、参加戦力の増強をはかった。
しかし、元々南方軍集団に満足な戦力が不足していたこともあって、予想される長大な戦線を任せられるだけの戦力は集まりそうに無かった。
そこで、ドイツ軍側面の防御を担当する戦力として、同盟国軍を参加させることになった。
ルーマニア、イタリア等の同盟国軍は、兵力はともかく、装備はあまりにも頼りなかったが、他に兵力も手段も存在しなかった。

5月、攻勢はハリコフ周辺で開始された。
この方面では、タイフーン作戦で攻勢能力が失われたと判断したソ連軍が、反撃を開始しようとしていたが、ドイツ軍は先手を打ってこの部隊を包囲して大きな戦果を挙げた。
6月一杯までこの方面での戦闘が続けられたが、ソ連軍の防御は甘く、予想以上の戦果を挙げることになった。
6月28日、勢いに乗ったドイツ軍はドン河の西でいよいよ本格的な進撃を開始した。
オリョル方面から発した第四装甲軍が急激な速度で進軍し、これを迎え撃ったソ連軍の戦車部隊との間で戦闘が生じた。

ソ連軍がT34を先頭にして突撃してくる、ドイツ軍はこの天敵に対して集中砲火をもって対抗した。
ドイツ軍には、それを可能とする練度の高さがあったし、これまでの戦闘とは異なる装備もあった。
マルダーKは、二号戦車の車体に75mm砲をほとんどむき出しで装備し、その周りに薄い装甲板を張っただけの戦車だった。
その装甲の薄さは、『ベニヤ板』などと呼ばれるほどであったが、砲弾を食らわなければ、その75mm48口径砲でもって、まともにT34を破壊しうる戦闘力を持っていた。
また、主力となる四号戦車も、新型の登場で、T34に対抗できる戦闘力を持つに至っていた。
更に、戦場の南方から第六軍が迫っていた。

包囲される危険を感じたソ連軍は、ドン河の東へと退却を始めた。
一方、ソ連軍を包囲する予定だったドイツ軍は、この事態に対応を迫られた。
最善の策は、南下して、まだドン河を越えていないソ連軍を包囲する事であり、司令部の指示も南下であった。
しかし、第四装甲軍はそれまでの苦労が嘘のようにソ連軍を打ち破れたことから自信を得て、このまま進撃してヴォロネジを占領する道を選んだ。
確かに、ヴォロネジは重要な交通の要所であり、これを押さえることは大きな戦果となる。
だが、ソ連軍ヴォロネジ方面軍はこの都市を渡すつもりは全くなかった。
敗走するソ連軍を追う形でヴォロネジに迫った第四装甲軍に対し、多量の部隊が動員された。
この為、当初は容易であると見られた占領に、多大な時間が消費され、その間第四装甲軍は動くことが出来なかったのである。
装甲部隊が動けないというのは致命的であった。
第一次大戦と異なり、この戦争における戦車の役割はその機動力なのである。
それを最初に示したのは他ならぬドイツ軍なのだが、この時のドイツ軍は、市街戦に戦車部隊を投入し、その機動力を失ってしまうという愚を犯したのだった。
この事態に、ヒトラーが激怒することで、ようやく第四装甲軍は南下を開始したが、既に時遅く、ほとんどのソ連軍はドン河の東岸へと渡るか、ドン河に沿って南下した後だった。

作戦の第一段階では、ドン河西岸にソ連軍を包囲し、ソ連軍の抵抗力を消滅させるはずだったが、これが失敗したことは明らかであった。
しかし、一方で、ヴォロネジへの攻撃は、ソ連軍の交通と通信を混乱させ、ドン河東岸への一斉退却は、上層部の指示の不手際から大きな混乱をもたらしていた。
混乱したソ連軍を見たヒトラーは、組織的な反撃が不可能になったと判断し、この間に次の作戦段階へ進むよう指示した。

7月20日、ドン河湾曲部の西側に残っていたソ連軍を追う形で、ドイツ軍は南下と東進を続けた。
南方の部隊は、A軍集団としてドン河の南へと進撃して、カフカス山脈以北の占領を目的としていた。
この方面には、油田と、それに付随する工業都市があり、この占領はヒトラーの悲願であった。
また、東へ向かった部隊はB軍集団と名付けられ、ドン河を越えて、ボルガ河まで進撃して、スターリンの名を持つ都市、スターリングラードを占領する予定であった。

7月25日、アゾフ海に注ぐドン河下流の都市、ロストフを攻略したドイツ軍は、一路南下を続けた。
この時点でヒトラーは、カフカスに残されたソ連軍の数は少ないことと、組織的抵抗力が失われているとの判断から、A軍集団の目標を山脈以南にまで拡大する命令を出した。
この命令は、トルコ国境までの進撃を意味し、その距離は2倍にまで拡大されたことになる。
当然、用意されていた補給物資が不足するのは明白であったが、燃料に関しては油田地帯の占領で確保できるという、いい加減極まりない判断であった。
更にヒトラーは、カフカス攻略軍に含まれていた第四装甲軍をスターリングラード方面へ転進させる命令も出していた。
そのため南に向かったドイツ軍は、減少した戦力でカフカス4000m級の山脈を制覇せねば成らなくなった。

まるで獣道のようなでこぼこの道を、炎天下の中ドイツ軍は南下を続けた。
8月に入って、第一装甲軍は進撃を続けたが、燃料を得るはずの油田地帯は、退却するソ連軍によって破壊された後だった。
さらに、これを補うべき補給部隊についても、カフカス方面とスターリングラード方面で攻勢方向が直角を成したために、長大な距離を走らねば成らず、これを期待できるだけの能力は、ドイツ軍には存在しなかった。
8月中旬になると、燃料不足により、全ての部隊が停止した。
ヒトラーがこの事態に激怒したが、それで燃料が生まれるわけでは無かった。
それでも、総統命令は絶対であり、歩兵はゆっくりと前進を続けたが、ゲリラ戦術を続けるソ連軍の前に損害は増えるばかりであった。
しかも、その僅かな前進でさえ、秋の豪雨が道路を荒れ地に変えることで、不可能となった。


一方、東への攻勢は、7月23日に開始された。
スターリングラード攻略を命じられたのは、第六軍であったが、その前方には、ドン河湾曲部内に強固な防御陣をしくソ連軍がいた。
これを正面から突破するのは困難と判断したドイツ軍は、これを南北で突破して後方で手を結び、包囲殲滅する作戦を実行した。
北側で突破を担当したのは、第16装甲師団を中心とする部隊、南側からは第24装甲師団を中心とする部隊だった。
このうち、北側の部隊は、当初ソ連軍の対応がまずかったため速い速度で進撃できたが、逆にそれが災いして、敵中に孤立した状態でソ連軍二個機甲軍の攻撃にさらされることになった。
ソ連軍は量的には優勢であったが、これらの部隊は練度の低い農民達で構成されていたため、無様な戦闘を展開することとなった。
戦車はただ闇雲に集中砲火の中に突進し、歩兵は砲火に射すくめられ、戦車を支援する任務を忘れていた。
もちろん、ソ連軍全てがこのような部隊ではないのだが、多民族国家であるソ連は、ろくにロシア語の解らない地方の農民兵士が戦火に放り込まれることも度々であった。
8月8日、この戦闘で二個機甲軍を全滅させたドイツ軍は、すぐさま進撃を再開し、ドン河湾曲部の最深部で手を結び、ソ連軍を包囲した。

この包囲下にあるソ連軍を掃討している間に、第六軍はスターリングラード攻略の計画を立案していた。
ドン河湾曲部に達した第六軍からスターリングラードまでは、60Km程度の距離しかなく、しかも包囲戦で多くの部隊を失ったソ連軍に残されている抵抗力は少ない物であろうと予想された。

8月23日、第16装甲師団を先鋒としてドイツ軍が東進した。
この日のドイツ軍は抵抗らしい抵抗もうけずに、一日の間に50Kmあまりを走覇してスターリングラード北方に達した。
これを知ったソ連軍は、多量の部隊を投入し、ドイツ軍による翌朝の攻撃は後続部隊が遅れていたこともあって、撃退されてしまった。
後続のドイツ軍は前進を急いだが、スターリングラード前方で防御陣をしくソ連軍が側面攻撃を仕掛けてきたため、前進は遅々として進まなかった。
状況は厳しく、特に孤立した第16装甲師団は激しく消耗したが、この時、南方から第四装甲軍が参戦した。
カフカスから戻ってきた第四装甲軍は一路北上を続けてスターリングラードを目指したが、ここにも強固な陣をしくソ連軍が待ちかまえていた。
突破は困難と見た第四装甲軍は、今度はその装甲部隊としての機動力を生かして陣地を迂回、ソ連軍側面に攻撃を仕掛けた。
この攻勢はソ連軍後背を突く格好となった

8月30日には防御陣は大きく崩れ、そのほとんどは、スターリングラードへ向けて退却を開始した。
この時点で、第六軍は決断を迫られた。
南方からの圧力が弱まったために、孤立した第16装甲師団を援護することが可能となっていたが、同時に、崩れたソ連軍を追って南下すれば、第四装甲軍との間で挟み撃ち、旨くいけば包囲殲滅できる可能性も有ったのである。
このソ連軍はいずれ叩かねばならない、ならば有利な状況で叩くべきなのだが、第六軍の選択はより安全な策であった。

9月、ソ連軍を取り逃がしはしたものの、ドイツ軍はスターリングラード市街地に達した。
既に、爆撃機による攻撃で、市街地は大きく破壊されていたが、ソ連軍はこの都市を手放す気は、1mgも持っていなかった。
第六軍はそれまでの激しい戦闘による消耗と、カフカス方面に多量の補給物資が流れたことによる補給不足から、状況は決して良くなかった。
このため総攻撃ではなく、市街地を一箇所ずつ制圧していく方法が採られた。
もっとも、ソ連軍の状況も良くなかった。
部隊の再編は遅々として進まなかったし、その間守り続ける命を受けた第62軍は、一般市民をかき集めて数を確保しているに過ぎなかった。

両者の死闘は激しい物だった。
ほとんどの家々は、トーチカのように改造され、そこに詰めるソ連軍を排除することは困難を極めた。
そのため、排除よりも、家ごと消滅させる方法が採られた。
重砲の直撃を受けたソ連兵の大半は即死だった。
しかしながら、この方法では市街地の奥に進むにつれ支援が受けられなくなっていった。
さらに市街戦に不向きな戦車を投入して、戦闘は続けられた。
戦車砲はバリケードを破るのには十分な破壊力を持っていたが、歩兵の自爆覚悟の肉薄攻撃の前には無力であった。
僅かずつ前進していたドイツ軍だが、再編されたソ連軍が送り込まれてくるにつれ、次第にその足は鈍り、損害と死体だけが量産されていった。

激しい戦闘は10月に入って一旦小康状態になったあと、10月中旬に再開された。
瓦礫と化した工場を舞台に、両軍の兵士が血溜まり作り続けた。
10月14日の戦闘だけで、5000人が血の海に沈んだ。
ドイツ軍は攻撃を続けて、市街地の八割方を制圧したが、投入された第14装甲師団に残された戦車はわずか十数台であった。

11月中旬に入って、再び工場周辺が戦場となった。
血の臭いがする空気は、冬を感じるような温度になっていたが、火炎放射器を構えた突撃工兵が、両軍の死体ごと全てを黒焦げにした。
ドイツ軍は東へと進み続けた。市内を流れるボルガ河以西を押さえるまでの辛抱である。
残りの距離は、百メートルばかり、しかし、その百メートルを前進する時間が無かった。

11月19日、ドン河を守るルーマニア軍に、ようやく再編を終えたソ連軍が襲いかかった。『天王星』作戦のはじまりである。
この北からの攻撃に対し、迎撃する第48装甲軍団の装備は、チェコ製の38t戦車。
その37mm砲では、T34を破壊できるわけがなかった。
パニックを起こしたルーマニア軍を無視して、ソ連軍は南下を続け、ドン河湾曲部を制圧した。
これにより、この東部にいた第六軍が、ソ連軍の包囲の中に閉じこめられた。

包囲された軍はおよそ33万の兵力であり、しかも、一度破れた戦線は、際限なく破れ続けた。
戦線の修復は困難であり、第六軍が生き延びる方法は、脱出以外には残されていなかったが、ヒトラーの命令は「死守」であった。
しかし、ヒトラーが命令を下したところで、状況が良くなるわけではなかった。
ヒトラーは状況を好転させ、ソ連軍を押し返して、元の戦線に戻すためにドン軍集団を編成させ、その困難な命をマンシュタイン元帥に与えたのである。

実際、ヒトラーの命令は困難であり、不可能と紙一重であった。
マンシュタインは多量の増援を要求したが、到着は遅れ、また着いた部隊も戦線維持の為に投入せねば成らず、これを押し返すなど、不可能なことであった。
彼は頭の中で、命令を第六軍救出に書き換え、作戦を実行した。
12月12日、第六軍救出作戦は開始された、これに参加できた兵力は装甲二個師団を中心とする戦力であった。
スターリングラードまでの距離は100km。
ソ連軍もスターリングラード戦により、兵力的にそう余裕があるわけでは無かった。
ソ連軍が投入した部隊は、ドイツ軍によって各個撃破されていった。
しかし、補給は不足し、敵中への強引な進撃は、常に包囲される危険と隣り合わせであった。
二つの川を越え、残りの距離は50km。
これ以上の進撃は危険すぎた。
12月19日、 マンシュタインはこの場所で防御へと移行し、第六軍に包囲を突破して合流するよう指示したが、第六軍は動かなかった。
マンシュタインは、ヒトラーに退却許可を迫ったが、スターリンの名を持つこの都市からの撤退を許すようなヒトラーではなかった。

同じ頃、ソ連軍は新たな攻勢を開始していた。『土星』作戦である
ドン河を守備していたイタリア軍に攻撃が加えられた。
T34を先頭に、ソ連軍は広範囲にわたって攻勢を仕掛け、イタリア軍を短期間で崩壊させた。
状況は急速に悪化した。
この攻勢は第六軍包囲どころの騒ぎではなかった。
このまま、南下が続き、ドン河、ドネツ河間が走破されると、カフカス方面へと南に大きく張り出しているドイツ軍が包囲されかねないのである。
これによって失われる兵力は150万にも成る。
マンシュタインに選択の余地はなかった。
ドン軍集団は西へと退却を開始した。

第六軍の敵に新たな項目が加わった。
寒さと飢えである。
空輸によって運ばれてくる物資は、満足させるような量はなく、それでさえも、戦線の後退と共に届かなくなってきた。
輸送機もこの過酷な条件の下で次々に撃ち落とされ、さらには、飛行場までもが攻撃にさらされて破壊されるにいたっていた。
スターリングラード戦でドイツ軍が失った航空機は500機あまりに達した。

1月に入って、気温は-20度以下、夜になると-30度にまで達していたが、それでも第六軍は戦い続けた。
1月にカフカスで戦うA軍集団に退却許可が出たため、それが退却するまでの間、敵を引きつけておくためである。
一方、カフカスのドイツ軍も退却を急がねばならなかった。
第六軍がいつまで保つか解らない。
カフカスの山々を苦労して運びあげた重装備は、次々に放棄された。
燃料の切れた戦車も、爆発する罠を仕掛けて放棄された。
歩兵は、夏に苦労して南下してきた山道を、今度は北上していく。
カフカス戦でドイツ軍がしたことといえば、山を登って装備を捨ててきた事だけだった。

1月10日、第六軍に対してソ連軍の総攻撃が開始された。
今度は第六軍がスターリングラードを守り、ソ連軍が攻撃するのである。
だが、勝敗は初めから明らかであった。
それでも、第六軍は激しく抵抗を続けた。
全ての砲弾を撃ち尽くすまで砲撃を続け、撃ち終わると砲兵は銃を取った。
次々に量産された死体と傷兵は、雪の中に放置された。
ソ連軍は、市街地まで迫ると、中央通りを挟んで、南北に分断する作戦に出た。
ドイツ軍は激しく抵抗を続け、2週間あまりに渡って抵抗を続けたが、1月25日、ついに南北に分断された。
分断された第六軍にヒトラーからの命令が届いた。

「降伏などあり得ない。最後まで戦闘を続けよ」

ドイツ軍はなおも一週間に渡って抵抗を続けたが、1月31日に南側が、2月2日に北側が降伏しスターリングラード戦は終了した。

包囲された33万のうち、生み出された死体と捕虜は、ほぼ同数の約10万。
死者と、降伏した者、どちらが幸せだったのかは解らない。
なぜなら、降伏しても再びドイツの土を踏めた者は、そのうちの僅か数パーセントだったからである。
彼らはモスクワで敗軍の行進をさせられた後,シベリアへと送られた.








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