お話です。まあ、気楽に読んでください。かなりの部分が事実に基づいていません。てきと〜に作ったので...
資料がまるでないので、全然書けなかったよ〜
1945年1月。第一ウクライナ方面軍による一斉攻撃が、ワルシャワの南方から開始された。
10000門を越える砲火と、サンドミエシュ方面から出撃したソ連軍が、
この方面を防衛していたドイツ軍3個歩兵師団を、分断、各個撃破していく。
ドイツ軍もすぐさま、タイガーII大隊を送り込んで、反撃を開始した。
「ファイエル!!」
砲撃をまともに受けたT34が炎をあげる。
だがそれも、長続きはしなかった。T34が厚く弾幕を張り、ドイツ軍の足を止めると、
SU駆逐戦車が圧倒的な火力でねじ伏せる。
ソ連軍の足は速く、ドイツ軍の対応は後手に回ってしまい、
タイガーII大隊と装甲師団はその日のうちに全滅していた。
「そうか・・・」
テント内で報告を受けた参謀総長グデーリアンは、ため息とも取れる言葉を吐き出すと、
状況の分析に取りかかった。
その二日後には、第一白ロシア方面軍が、ワルシャワの前面と北側から攻勢を開始した。
対するドイツ軍のA軍集団には、その二個方面軍の5分の1の戦力も存在しない。
勝敗は初めから明らかであった。
機動戦をマスターしたソ連軍は、戦闘力を失ったドイツ軍など無視し、西へと戦線を拡大した。
ドイツ軍には打つ手がなかった。大規模な反撃を行うだけの予備兵力は手元になく、
かといって、中途半端な抵抗では敵中に孤立するだけだからである。
四日間の戦闘で、ソ連軍の攻勢は150Kmの深さに達し、ドイツ軍戦線は崩壊どころか、
存在すらしなくなっていた。
グデーリアンにもこの事態が予測できなかったわけではなく、東部戦線の強化を
ヒトラーに迫ったが、ヒトラーは西部戦線における、「ラインの守り」作戦を
最優先とし、東部戦線には現有兵力での持久戦を命じていた。
そのため、バルト海沿岸に孤立していたドイツ軍の後退も認められず、十倍近い戦力差を
埋めるための増援も無かった。
2月に入ると、A軍集団の抵抗を粉砕した第一ウクライナ方面軍は、
オーデル河西岸に達し、南方からブレスラウに迫った。
また、第一白ロシア方面軍は一路西を目指し、フランクフルト北方のキュストリンを
包囲する形で、オーデル河西岸に達した。
すでにベルリンまでの距離は60Kmしか無かったが、雪解けと補給問題から、
ソ連軍の足は鈍っていた。
この状況で、グデーリアンはひたすら西へ進んできた第一白ロシア方面軍が、
他の軍よりも西へ突出していることに注目し、南北から挟撃する作戦を立案した。
グデーリアンは南方からの攻撃にSS装甲軍の使用を望んだが、ヒトラーは
ハンガリーに固執し、これを拒否した。
やむを得ず、北方からの攻勢のみに限定し、7個装甲師団を中心とする「夏至」作戦が
開始された。
2月15日に開始された作戦は、ソ連軍の意表を突いたが、ただ単にそれだけだった。
急遽かき集められたドイツ軍の足は鈍く、雪解けの泥の中で停滞した戦闘が続いた。
結局、わずか2日間の攻勢でドイツ軍の足は止まった。
この間に押し戻すことの出来た戦線は10Kmにしか過ぎず、
第一白ロシア方面軍の側面に穴を開けるという意図は全く果たす事が出来なかった。
だが、この作戦に強い関心を示したのはヒトラーではなくスターリンであった。
彼は、南方からSS装甲軍が参加していれば、大きな損害を被ったかもしれないことを見抜いていた。
この為、側面にドイツ軍を残しての進軍は危険であると見て、オーデル河東岸の掃討を命じたのである。
作戦はソ連軍の攻勢を遅らせることには成功したのだった。
ソ連軍は西進を停止したものの、オーデル河での戦闘は停止しなかった。
強引に進軍したため、若干、戦線の整理を付けておく必要があったからである。
その目標となったのが、オーデル河とナイセ河、バルタ河の合流地点を中心とする空間と、
その中に含まれるキュストリンであった。
補給の面から見て、この合流点を押さえることが必要とされたし、
キュストリン要塞の攻略は、オーデル河西岸への作戦空間の確保につながるからだ。
3月22日、ソ連軍は要塞の南北に出撃してこれを包囲した。
さらに、ソ連軍は退路を断つため、キュストリン要塞の西側へ機甲師団を進めた。
その西、ゼーロウ高地にはミュンヘベルク装甲師団が陣を張っていた。
敗残兵同然の戦車部隊と、新規にかき集められた訓練不足の兵士達からなるこの部隊は、
最近になって編成されたばかりであった
それでも、このゼーロウ高地の重要性からか、この部隊には、タイガー、パンサー各型50台以上が集められた。
すでに、まともな戦力が存在しない今では貴重な装甲戦力である。
ソ連軍はT34だけでも120台以上を進軍させてきた。
「ファイエル!!」
最初にパンサー中隊が火を噴いた。
道路を進んでいた先頭のT34が爆発炎上する。
ソ連軍もすぐさま反撃する。
ソ連軍は、破壊された先頭車両を迂回するように左右に展開しながら距離を詰めた。
『ドーン』
一台のT34がキャタピラを吹き飛ばされて停止した。
地雷である。
これを見ていきり立つソ連軍は、地雷のない北側へと展開した。
しかし、すべては罠であった。
その北側に展開した部隊に、今度はタイガー中隊の砲火が襲いかかる。
側面から砲火を浴びたT34はたちまちの内に炎上して沈黙する。
道路上は破壊されたT34で埋め尽くされ、機動力を奪われたT34は残骸を盾にして応戦する。
しかし、この距離ではタイガーの装甲を破ることは不可能であった。
アウトレンジ砲撃によってT34は次々に瓦礫と化していった。
ソ連軍も黙っては居ない。後方で部隊を再編すると、北側からの突破を試みた。
厚く弾幕が張られ、戦場は煙幕によって覆われた。
これによって、射撃命中率を低下させ、接近戦に持ち込もうというソ連軍の意図であった。
ソ連軍の砲火はすさまじく、タイガー中隊は後退を余儀なくされたが、この時、
パンサー中隊と後方に控えていた部隊が左右から反撃した。
その両側面からの攻撃効率は驚くべき物で、ソ連軍の量的な優位は一気に逆転した。
この日の突破の試みは全て阻止され。ソ連軍は東へと後退した。
この時点で、キュストリン要塞の西側にはソ連軍の装甲部隊は存在せず、
ドイツ軍がこのまま反撃を行えばキュストリン要塞に取り残された部隊の救出は可能だった。
しかし、ヒトラーはキュストリン要塞を失うことによる、空間的な損失を許さなかった。
キュストリン包囲軍の排除。
ミュンヘベルグ師団に新たな命令が下った。
ドイツ軍はフランクフルトに入った。
南方からオーデル河を越え、キュストリン包囲軍の南側の部隊の、更に南側から攻撃を掛ける作戦であった。
3月27日
ドイツ軍はフランクフルトから出撃したが、この道は狭く、ソ連軍の集中砲火の前に進むことすら困難であった。
それから2日後、ドイツ軍がフランクフルト周辺から動けないでいる間に、キュストリン要塞は陥落した。
ドイツ軍に打つ手は無くなった。
4月16日早朝
オーデル河東岸の掃討を終え、二週間に渡って念入りに準備を進めてきたソ連軍が、ついに最後の攻勢を開始した。
四千に達する砲と、六千余りの戦車。
圧倒的な力の前に、対するドイツ軍はその三十分の一の戦車しか持ち合わせてはいなかった。
この日のソ連軍の砲撃はすさまじく、ドイツ軍陣地は跡形もなく吹き飛んだ。
続いて、赤軍歩兵が突撃する。
だが、これらの大砲撃が戦況に与えた影響は少なかった。
ドイツ軍は既に撤退した後で、そこにはドイツ軍兵士の死体はなかったのだ。
でこぼこに掘り返された地面の上を、ソ連軍の戦車がのろのろと進んだ。
ゼーロウ高地前方に再びソ連軍が姿を現した。
ドイツ軍は持てる戦車と、砲の大多数を動員してこれを叩き続けた。
第一白ロシア方面軍司令、ジューコフ元帥はこの停滞した前進に苛立ちを募らせた。
彼は、多量の機甲軍を差し向けるよう指示したが、ソ連軍の足は鈍く、かえって交通渋滞を引き起こしただけであった。
ソ連軍の後続部隊が遅れたこともあって、この日の攻勢はゼーロウに達することはなかった。
同じ頃、南方ではコーネフ元帥率いる第一ウクライナ方面軍が、急激な速度で進軍していた。
彼は、ドイツ第九軍の南方を回る形でナイセ河を渡って進軍した。
これを止める力はドイツ軍に残されていない。
コーネフは十分な作戦空間が確保されたのを見て取ると、二個機甲軍を投入して進軍速度を速めた。
17日早朝
夜の間にようやく到着したソ連軍部隊が、ゼーロウ高地へと迫った。
「ファイエル!」
ドイツ軍の陣地で対戦車砲が火を噴く。
88mm砲や75mm砲など各種、対空砲も含まれていたが、それらは持てる能力の全てを発揮してソ連軍を叩いた。
早朝という理由もあったかもしれない。
東から昇った太陽に照らし出されたソ連軍を、ドイツ軍の正確な射撃がとらえ続けた。
わずか数十門の高射砲に守られたゼーロウを突破する為に、ソ連軍は太陽が昇りきるまで戦闘を続けねばならなかった。
太陽が昇り切り、ドイツ軍の全ての砲が破壊されると、ドイツ軍兵士はバラバラになって撤退した。
無人の高地を、T34が西へと向かった。
18日
ソ連軍の攻勢はベルリンの前方の都市、ミュンヘベルクへと迫った。
ドイツ軍に出来ることは、敗残兵同然の部隊を投入して、戦死者を増やすことだけであった。
20日になると、南方の流れもベルリンへ向かっていた。
コーネフの指示で、ドイツ第九軍の後方、第十二軍の間に割り込むような形で、ソ連軍が南方からベルリンへ北上した。
24日
西進した第一白ロシア方面軍と、北上してきた第一ウクライナ方面軍が手を繋いで、ベルリンは包囲された。
この包囲の中に閉じこめられたのは、ミュンヘベルク師団を中心に、敗残兵という形容すら当てはまらないような軍隊であった。
ソ連軍は総攻撃を開始した。
28日
戦局の全ては、終わりが近いことを告げていた。
だが、それを望まない者もいた。
第一ウクライナ方面軍が後方に回り込むような格好になった、ドイツ第九軍は、完全に包囲された形になっていたが、ここでソ連軍に降伏する気は無かった。
第九軍の5万兵士達と、10万近い民間人が、西へと向かった。
一方ベルリンでは、ミュンヘベルク師団の残り5台になった戦車が、SS重戦車大隊のタイガーIIと共に戦いを続けていた。
ドイツ軍の抵抗は激しく、ソ連軍の損害は大きかったが、大量の戦車を市街戦に投入して、ベルリンの街を破壊し続けた。
30日、ヒトラーは自害した。5月に入って、ベルリンのドイツ軍は降伏した。
だが、ミュンヘベルグ師団を含む、陸軍の一部は、ソ連軍への降伏を望まなかった。
最後の1台の戦車と、数千の兵士、民間人が西へと向かう。
このドイツ軍を、ソ連軍は逃さなかった。
ベルリン内にある橋を渡ろうとする無防備なドイツ軍を、銃火が襲った。
川の水はどす黒い赤へと変色し、無数の死体が生み出された。
それでも、僅かに生き残った者達は、西への脱出に成功した。
第九軍に最後まで残ったクルマルク装甲師団を先頭に、ドイツ軍が突撃する。
5月に入って連日の戦闘で、ドイツ軍兵士は疲れ切っていたが、残り少ない弾薬を握りしめて、なおも西進を続けた。
ソ連軍の猛砲撃が加えられた。
最後のタイガーIIがソ連軍目がけて突撃する。
その隙にドイツ軍が逃げる。
しかし、その前方には新たな部隊が居た。
既に悲鳴は声にならなかった。
突撃するドイツ軍兵士。
だが、その部隊から放たれたのは砲弾ではなく、信号弾だった。
最後まで戦いを続けていたドイツ第十二軍であった。
第九軍と第十二軍、それに従って来た民間人達はアメリカ軍に投降した。
5月7日
ドイツは降伏した。
その戦争は、3000万人余の血をヨーロッパの大地に撒き散らせて終結した。
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