う〜ん
第壱話
「碇くん・・・・私を一人にしないで・・・・」
自分がかつて、別れの旅立ちの時に流した涙の事を、今の彼女は知らない。
今、自分の頬を流れるその涙は、少女にとってはあまりにも辛すぎる涙だった。
一度目は自分が命を絶った時。
そして今度は少年の命が失われた時。
同じ悲しみを二度も感じることとなった彼女の魂は、今にも張り裂けそうだった。
いや、今回の悲しみの方が、より深かったかもしれない。
少なくとも、少女は、あれから一週間がたとうとしている今日も、その涙を流していた。
その少女は無言だった。
まだ骨折が治りきっていなかったので、病院のベッドの上で悲痛な表情を浮かべている。
その様子は、一ヶ月程度前の光景を連想させた。
ただその時とは違って、見舞いに来るミサトに、
声を詰まらせながらも、少年の思い出を語るのだった。
「アイツに・・・約束したんだから・・・・ずっと声を聞かせるって・・・」
ミサトが慰めにかける言葉に比して、少女の心の空白はあまりにも大きかった。
「それなのに・・・・それなのに、自分が死んでどうするのよ!」
まるで目の前に本人がいるかのように叫ぶ少女を、
ミサトはただ見つめることしか出来なかった。
彼女とて同じだったのだ。
涙を流した事も・・・・
少年の名を叫んだ事も・・・・
ネルフは生き残った。
神の技術を理解しうる組織はネルフ以外にはあり得なかった。
ネルフは、月に残された神の船から、神の技術を持ち帰り、
それを解析することが新たな任務となった。
一方ゼーレは解体した。
元々、神との交渉団体にしか過ぎなかったのだから、
神がいなくなった今、解体するのは当然だった。
ただ、ゼーレの力は残った。
アメリカとドイツに
そして、争いも残った。
ロシアでは、中途半端にゼーレの力が弱まったため、
政治的な対立が深刻化した。
さらに事態を悪化させたのは、ドイツとフランスの介入だった。
ドイツが旧ゼーレ派を、フランスが反ゼーレ派を支援したため、
政治的な対立は、軍事的な対立への変貌を生じ始めていた。
しかし、ゼーレの亡霊が次第に力を失いつつあることは確かだった。
そして、戦争は回避されつつある。
楽観すべき状況にないのは事実だが、両者に共通した認識が、
世界を動かしつつあったからだ。
「次の戦争を、人類はともかく、地球が耐えられない」
平和への目的は一致しているのだ。
『双方の目的は一致していた。ゼーレも我々も、
滅びの危機にある人類を救うという目的においては同じだった。ただ、
その実現方法が異なっていたにすぎなかった。
ゼーレは人類の遺伝的進化を・・・それも上から与えることによる進化を目指した。
ゼーレが人類を主導して新しい人類を作り出す。我々は、それに反発した。
神によって支配されてきた進化が、一部の人間の手に移っただけではないかと。
だから、我々は、科学力による進化を目指した。人類最大の切り札である知恵の進化だ。
そのために、我々は神の技術を必要とした。そして、両者は争った。
はたして、これで良かったのだろうか?
・・・その戦いは多くの命を奪って、多くの心を傷つけた。
それを知った時、私は犠牲となった者への償いにすら成っていないと知りながらも、
こう呟かざるえなかった。
「また老人が生き残ってしまった」と』
・・・・冬月コウゾウ『神罰』より
◆
「せ、先輩!怪我は・・・どうしたんです」
「・・・マヤ・・・大丈夫よ。これくらいどうって事無いわ」
「退院の話は聞いてませんでしたけど・・・」
「ええ、抜け出して来たんですもの。当然だわ」
「・・・そ、そんな・・・」
病院に戻るべき。
そのマヤの言葉は、リツコの眼光によって封じ込まれた。
マヤは、彼女の辞書の中から別の言葉を選択せねばならなくなった。
「・・・そんなにまでして・・・何をしに来たんですか?」
問われたリツコの方は、端末の電源を入れると、操作をはじめる。
普段に比べて遙かに遅いキータッチが、今の彼女の状態を物語っていた。
リツコはそれに対して、少しいらだった表情を見せている。
「・・・いいわ・・・マヤにも手伝ってもらわないと・・・いけないみたい」
そう言うと、リツコは作業を中断してマヤを向き直った。
しかし、どこから話すべきかと思案を巡らせている。
先にマヤが口を開いた。
「・・・月の技術については・・・具体的な作業に入ってないから
・・・・まだ、先輩が解析するような仕事は無いはずですよ」
「・・・ま、確かにその事も関係してくるかもしれないわね・・・」
「・・・なら、病院へ・・」
「・・・マヤ・・・・あなたが私を軽蔑することになるかもしれないけど・・・
・・・それでも良いかしら?」
「何言ってるんです先輩。先輩を軽蔑するなんて事はぜったい無いです!」
「・・・じゃ・・・はじめから話すわ」
その話は、マヤを驚愕させるのに十二分な内容であった。
リツコの話は長きに渡った。
疲労した様子を見せるリツコだったが、話を中断させることはなかった。
時折、自嘲的な表情を見せながらも、ただ立ちつくすだけのマヤに向かって話し続ける。
「・・・・解ったかしら・・・私がやってきたこと・・・レイの事、シンジ君の事、
そして私がやろうとしている事」
「・・・・・」
マヤは言葉をあげる事が出来なかった。
彼女が持ち合わせている、言葉の辞書の中にあったはずの文字は、全てが消え去っていた。
代わりに、僅かに頷いてみせる。
リツコは再び自嘲的な笑みを浮かべた。
「・・・解った上で・・・私に協力してくれる?」
リツコは、端末に向き直り、作業を再開した。
彼女の背中を見ながら、マヤの思考は、再び溢れはじめた言葉の数々の中に埋もれていた。
しかしマヤには、その中で選ぶべき言葉を知っていたし、それを見失うことはなかった。
「もちろんです先輩!協力させていただきます!」
「・・・・感謝するわ・・・マヤ」
リツコは少し振り返って、マヤの表情を確認すると再び端末に向き直った。
◆
格式のある調度品で飾られた部屋。
その部屋にピアノの音が響いている。
いかにも値が張りそうな家具の合間に、さりげなく配置されたスピーカーが
その存在意義を存分に行使している時間である。
この部屋の所有者の趣味と言えるのだが、今日の曲はずいぶんと明るい曲のように
訪問者には思われる。
「おはようございます」
「ああ、ま、そこに座ってくれ」
部屋の主は真ん中に置かれたソファーを指し示すと、
自らは棚から幾つかの資料を引っぱり出していた。
「ずいぶんと明るい曲ですね・・・今日は」
「ははは、良いではないか。今後の日本の行く末を暗示しているかのようでな」
そう言って笑った男は、何枚かの資料と、幾つかのメモを引っぱり出してきた。
「さて、報告を聞こうか」
向かい合って座った二人の間に、秘書が飲み物を差し出して退出する。
それを確認してから、訪問者は口を開いた。
「ネルフの方ですが、二ヶ月後を目処に第一回の回収を行うようです」
「ほお、二ヶ月か・・・ま、奴らにも準備があるだろうしな」
「で、本題ですが・・・」
「うむ・・」
そう言って、二人は顔を寄せる。
話し声がやや小さくなった。
もっとも、少々小さくしたところで今の盗聴技術の前では無駄という物である。
そのために、この部屋は厳重なセキュリティーチェックのもとに置かれていたし、
部屋の外にしても、それは同じであった。
「物を手に入れるために色々調べてみましたが、3つほど可能性があります」
「うむ・・」
「一つはゼーレの方で行われていた研究による物ですが、
これは研究が非常に限られていたのと、ゼーレが崩壊した為にやや望みは薄いでしょう」
「・・・確かにな・・・そう簡単にアメリカやドイツが頷くとは思えないしな」
「もう二つは・・・この写真を見てください・・・・」
胸のポケットから手の指の間を滑り落ちるようにして、
二枚の写真がテーブルの上に置かれた。
「・・・・」
「もう二つはネルフによる物です。この二人がそれを持っています」
「・・・なるほど・・・」
「ですが、このうち一人は既に死んでいるそうです・・・確かな情報ではありませんが」
「・・・」
「死体からではかなりの時間を要しますし、既に処分されているかもしれません」
男はそう言って一枚の写真を裏返した。
「・・・こいつか・・」
「いかが致します・・・いずれにせよ、研究は必要ですが・・・」
問われた男は立ち上がると、さまよう足取りで部屋を巡りはじめた。
「・・・研究の予算もバカにならん・・・出来ることなら、五体満足で・・・」
「・・・」
「・・・駄目なら・・・やむを得まい」
「・・・わかりました。では手配させます。いつ頃実行しますか?」
さまよっていたこの部屋の主は、机の所まで来ると
普段腰掛けている椅子へ体を埋めた。
「・・・ネルフが第一回の回収を実行したらやってくれ。
奴らも簡単に技術を引き渡すとは思えん。最悪でも技術と引き替えにするとしよう」
「承知いたしました。では二ヶ月後にまた伺います」
「朗報を期待するぞ」
立ち上がった男は最後に会釈すると、大きな両開きのドアを後ろ手に閉めた。
その瞬間、澄んだピアノの音が廊下に響いて消えた。
◆
「一週間で一応、格好だけは付いたな」
「ああ・・・」
「MAGIが治ってしまえば差し当たって何とか成る」
大きく破損したネルフ本部内は、この一週間、
さながら年度末の道路工事現場のような状態であった。
シゲルに表現させるところの、
「まるで大勢の女性に囲まれて歓声と悲鳴を浴びたみたいだ」
という状態で、ネルフ内の売店では耳栓が飛ぶように売れたという。
「それは、是非とも聞いてみたい物だな」
と、応じたのは自宅療養中のマコトであった。
自宅療養中といっても、人手が足りない状況なので、
松葉杖と車椅子を駆使して、時折本部に来てはミサトの仕事を片づけていた。
MAGIの能力が落ちたため、MAGIが処理していた雑用が彼らに回ってきたわけである。
もっともこの日、MAGIの方は94%までその処理能力を回復させていた。
冬月は将棋の駒を打ち込みながら、
いつものように深刻さを感じさせない口調で問いかける。
「さてどうする、解析する準備は整ったわけだが・・・」
「・・・とりあえず段階的に持ち帰る・・・船ごと持ってくるのは問題があるしな」
「・・・そうだな、そんな事をすればまたここが戦場になる」
「ああ・・・月に行けるだけが我々の利用価値だと思っているからな」
「・・・おそらく、そう思っていない方が少数だろう・・・我々の敵は多いな」
「ああ・・・」
ゲンドウの声には数rの溜息が含まれていたが、
それを発見できるのは冬月ぐらいのものであろう。
「ところで碇・・・初号機は動くのか?」
「ああ・・・問題ない。現に、月から帰ってくる時には起動している」
「・・・だが、あの時はすでに翼を広げた状態だったぞ」
「大丈夫だ・・・リリスの時は一回で起動している」
「・・・・なるほど」
冬月は再び将棋盤に視線を戻して、再び駒を打つ。
今度は、将棋盤に視線を置いたまま、再び冬月が口を開いた。
「まずは・・・優先事項はサルベージか・・・」
「もちろんだ・・・」
「彼はどうする。消えないうちに何とか出来るのか?」
「・・・それは、既にはじめている」
そう言うと、ゲンドウはモニターを操作して、ある一室の様子を映し出した。
そこにはリツコが怪我をおして端末に向かう姿が映し出されていた。
冬月はそれを興味深げに覗き込んだ後、ややあきれた表情を作った。
「・・・ふむ、これもお前のシナリオ通りか?」
「ああ・・・」
冬月のやや皮肉めいた問いに対するゲンドウの答えは、
いつもと何ら変わることのない口調で発せられた。
◆
暗い朝。
まだ時間は早いというのに、それでも少女は起きてきた。
彼女の家族はまだ眠っている。
一人は病院なので解らないが、おそらくこの時間ならば寝ている事だろう。
彼女は二人分の朝食を作ろうと、キッチンに立った。
手に取ったエプロンをしばらく眺めた後、
掛けてあるもう一つのエプロンを取る。
そして、朝食を作り始めた。
「碇くんのエプロン・・・私に温もりを伝えて・・・」
その声は、少し暗い部屋に拡散して空気に染み込んでいく。
レイがこの一週間、毎朝行ってきた儀式がそれだった。
「おはよう・・・レイ」
「おはようございます」
ミサトの眠そうな目はここのところの寝不足を物語っていた。
彼女自身の仕事は、数自体は多くなかった。
戦闘指揮をしない今では、後処理と司令から下された任務が仕事である。
後処理はすでに方向性が見えてきたので、あとは事務的な問題だけである。
司令から下された任務。それは二人のパイロットを守ることであった。
そして、自らに課した仕事である、二人の悲しみを和らげるという事。
後者の二つが、ミサトにとって重大な仕事となっていたのである。
いや、仕事と言うよりは、大人としての責務と償いであった。
それ故、彼女の疲労と心労は大きく、時折、彼女は自らの悲しみも乗せて叫ぶのだった。
「シンジのバカあぁ!」
ミサトとレイは朝食を終えるとネルフ本部へ向かう。
以前はガラガラだった道路に、一般車両が通るようになった。
避難警告が解除された為だが、人が一斉に帰ってこないのは、
一時とは言え戦場になった場所であるからだろう。
帰ってきた人も、慌ただしく避難した際に持ち運び忘れた物を、
取りに帰っているという人がまだ大半だった。
だがいずれ、人は増えてくる。
今のところ、ここに移り住んで来た人は工事関係者が大多数であったが、
以前住んでいた住民もまた、戻ってくるに違いなかった。
ミサトも以前のように町中を暴走することは出来なくなったが、
それを嘆くつもりはなかった。
一方のレイはただ車の中で前だけを見ている。
街のあちこちで行われている工事を見向きもしない。
それを見て、ミサトは溜息を吐き出すと共に嘆くのだった。
「世の中が平穏になったから、自分の惨めさに気が付くのね」
彼女の言葉は自嘲的な色彩を含んでいた。
◆
「ようこそ、タピオの森へ」
「・・・何とも辺鄙な所に住んでるな」
「ま、とりあえず上がれよ」
森の奥深くを進んだ所にその家はあった。
外から見れば丸太小屋にしか見えないその家は、
中に入ると訪問者の予想を裏切る要素に事欠かなかった。
「・・・中はずいぶんと綺麗だな」
「誉めてくれるのかい?」
「いや、お前らしくないと言ったんだ」
およそ、外見からは想像の付かないほど現代的な屋内は、
綺麗に飾られた調度品と、生活機器が並んでいた。
訪問者は部屋の中央に置かれたソファーに腰を下ろす。
「広いな」
「地下もあるぞ、ついでにトンネルもな」
そう言いながら、二人分の珈琲を入れた男はソファーに向かい合って座った。
「さて、何用かな。戦争は終わったし、
・・・お前さんも戦功で昇進できるんじゃないのか?」
「ふん、あいにくと政府はアメリカとの関係改善を第一に考えてるからな。
今回のことは闇に葬られて、俺も昇進は無しだろうさ」
「それは、ご愁傷様」
「下手をすれば消されるかもしれんな。ま、大人しく従ってやる義務はないがね」
そう言いながら珈琲をすすった二人の表情は、
その会話の内容とは裏腹に、深刻さを1rも感じさせない物だった。
「で、今日はなにか。消されないように協力を頼みに来たのか?」
「いやいや、俺のことではなくて・・・」
そう言いながら再び珈琲をすすった男は、
内ポケットの中から三枚の写真を取り出した。
「・・・何だ?綺麗なご婦人方だな」
「少々訳ありでね、この二人が狙われているのさ」
「可愛い子だな。どっかのアイドルのスカウト会社に狙われてるのか?」
「ふん、少々陰険なスカウト会社から狙われていてね。なにせ、あの巨人のパイロットだからな」
「・・・・それは、お目が高いことで」
「で、こっちの美人から頼まれた」
そう言ってもう一方の写真を指し示した男は、
再び珈琲をすする。
「・・・それで協力して欲しいと」
「そうだ」
「・・・・・最近上もうるさいからな・・・・
ま、そのネルフの美人指揮官と一緒に食事が出来たら受けてやっても良いが」
冗談めかして言う男に、訪問者はやや怪訝な視線を送った。
「・・・知ってたのか?」
「ああ、結構有名人だからな。それに、
昔、同僚に写真を見せられた事があってね。奴には色々世話になったしな」
「ふん、お前の友人だ、どうせろくな奴じゃ無かろう」
「ああ、そう言えばアイツもネルフに居るんじゃないのかな」
「・・・名前は」
「加持っていう切れた奴だよ」
しっかりと珈琲を飲み干した訪問者は、片手をあげて立ち上がると、
玄関の方へ歩き出した。
「じゃ、細かい話はいずれする」
「久々の仕事がただ働きとはな」
「ふん、ま、食事の件は伝えておくよ」
「こっちでも調べておく、二週間後に会おう」
終始にこやかな表情を崩さなかった男に、
訪問者はやや気の抜けた返事を返すと、そのまま森の中へと消えていった。
つづく
You can write a mail to me.
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