2020年 8月 12日 更新

管理人の独り言(3)


「改訂新版・叛逆のバリケード」裏話


1968年に日大全共闘が自主出版した「叛逆のバリケード」(その後三一書房が出版)の
「改訂新版・叛逆のバリケード」(三一書房)がそろそろ(2008年9月?)出るという。

「改訂新版・叛逆のバリケード」については、昨年(2007年)末頃から話があって、
私にも2月中旬くらいに文理学部(当時)の先輩から「今、あの闘争を振り返って、
闘争とは自分にとって何であったかをとらえなおす、という観点で、また930同窓会結成の
経緯を含め手記を書いてみないか」との誘いがあった。

私も大学を卒業してからずっと自分としての「総括」をしたいと思いながら、何もせずに
40年経過してしまったこともあり、これを機会に何かまとめたいと思った。

私は「何故闘争に参加したのか」を自分なりに検証したかった。
これは、闘争に参加した人それぞれみな違う、百人いれば百通り、1万人いれば1万通りの
答えがあるものだ。
高校に入学したときから書き始めた日記を読み返し、自分の思いを書き綴った。
原稿用紙に100枚程度になってしまった。
文理学部の先輩は、とりあえず三一書房に提示してみるといったが、結局、三一書房からは、
原稿用紙15〜20枚にしろと、ついては、相談したいと言ってきた。
文理学部の先輩と共に4月3日に新宿で三一書房の関係者と会った。
私は、100枚を簡単に15〜20枚にできないと断ったが、三一書房側で、案を考えるとのことで、
そのときは別れた。
ついで三一書房の提案は、私の書いた原稿は無視して、インタビュー記事にしたい、といって
きたので、それでは私の思いは伝わらない、と断った。
次の三一書房の提案は、何とか30枚くらいに出来ないか、と私の原稿で残そうと考えている
ところを選択して連絡してきた。
私の原稿も小項目に分けて記述していても途中の経緯で単純になくなってしまうとつじつまが
合わなくなるところがあるのでそれを補ったり、自分が言いたかったことを最低限残して原稿を
仕上げたが、原稿用紙36枚になった。

三一書房は36枚でも結局許容枚数をオーバしたと判断したのか、文理学部の先輩から、2000字
削減した原稿を提示してきたが、私の限界は36枚に凝縮していたので、それ以上の削減は、
私の思いを正確に伝えられないと判断し、掲載はお断りした。5月末のことである。

文理の先輩にはご苦労をおかけしてしまったが、なんとも後味の悪い結末だった。
従って、私が「改訂新版・叛逆のバリケード」(三一書房)を買うことはないし、人に勧める
こともない。

私のボツになった原稿は、本ホームページの「日大闘争私史」「管理人の独り言」に掲載している。


日本に「二大政党制」はふさわしいか?


自由民主党(自民党)の政権が長く続いている。
そして長期政権であるが故の不祥事も相次いでいる。
昨年の参議院議員選挙で民主党が大勝してから、そろそろ民主党に政権交代かと
期待も寄せたくなる。
政権交代は必要なことだ。

ただ私は、この自民党と民主党の二大政党制を支持していない。

何故か。
民主党といっても、中身は、旧/元自民党ばかりではないか。
日本は、残念ながらいまだに民主主義が浸透していない。
それは、権力者に従順な国民を作る教育が徹底しているからだろう。
小泉政権時の政策は支持しているわけではないのに、「小泉劇場選挙」では、
国民の多くが自民党に入れてしまった。国民の愚かさを象徴する選挙だった。
このように民主主義は浸透していない日本で、二大政党制というのはどのようになるのか。
日本は、談合社会ともいえる。企業でも、役所でも「談合」が日常茶飯事で行われている。
日本で二大政党制が行われて、自民党と(元自民党がいる)民主党だけの政治になったら、
どのようなことがおきるか、誰もが想像できることだ。

日本の政治には絶対に3つ以上の政党が必要だ。「談合政治」を防ぐためにも3つは最低必要だ。
3つに限定することも必要はないが、第3に政党の力がもっと強くならなければいけない。
某宗教政党のように政権党に迎合して政権党の利益を享受するような政党は、
この第3の政党の資格はない。


全共闘「運動」?


2008.11.23東大駒場際の「今語られる、東大、学生、全共闘」という企画があり
参加してみた。
第一部の立花隆氏の話は1時間もの長い間やっていたが何ということはなかった。
第二部のディスカッションでは、ゲストに元東大全共闘の最首悟氏、片桐氏、
明大全共闘の米田隆介氏が、主催者や現役東大生からの質問に答える形式
で進められた。

当然のことであるが、現役東大生は当時のことを知らないので、仕方がないが、
私にとっては最初の質問からして違和感を持った。

「どうして全共闘運動に参加したか?」

私は、この全共闘「運動」なる言葉に非常に違和感を感じる。
「学生運動」という言葉があるので「全共闘運動」なんていう言葉が出てきた
のかもしれないが、全共闘に参加したものにとっては、全共闘「運動」に
参加した、という認識はない。全共闘の「闘争」であって「運動」なんて
いうものではないと思っている。

大学の不正、不当なこと、矛盾に対し、「それはおかしいんじゃない?」と
感じ、それを声にして出す。同じような仲間が、一緒に声を上げ、共闘して
その不正や矛盾を追及する。これが「全共闘」だ。
はじめから「運動」があって参加するものではない。
全共闘は、はじめは「問題」ありき、というところから出発する。
「学生運動」は、はじめに「組織=セクト」ありき、である。
似ているようで、基本的に違う。
ただ、日大や東大の全共闘の闘いが始まってから、それを真似て、できた
全共闘に参加した人にとっては、全共闘「運動」に参加、といっても
違和感がないのかもしれない。

全共闘は基本的には個人の自主的な参加である。
今日参加しても、明日は参加しないこともある。組織に縛られないのである。
それ故、全共闘という闘い方にも限界があるのだ。

全共闘は、「問題」が解決されれば、それで消滅。
新たな「問題」がおきれば別の全共闘が出来て当たり前だ。
また、闘えない状態になっても残念ながらそれも消滅だ。

よく、学者や評論家、あるいは元警察官僚の佐々淳行などが、全共闘は後世に
何も残していない、とか総括がされていない、・・・等々の批判をしている。

私はこう思っている。
全共闘は個々人の自主的な参加で成り立っていた。
個々人の参加の動機だって十人十色、一万人いれば一万通りの答えが返ってくる。
従って一つの総括などありえない。一万人いれば一万通りの総括があるのだと思う。
すでに総括してすっきりしている者、まだ総括しきれずに、悶々としている者、
いろいろいるだろう。それが全共闘なのだと思う。

また、後世に何も残さなかったか?
全共闘とは、先にも書いたように、不正、不当なこと、矛盾に対し、「それは
おかしいんじゃない?」と声を上げること、これが全共闘の基本だ。
全共闘の闘争以後、このような声はいろいろなところで出ているではないか。
決して特殊なものではない。もう普遍化しているではないか。

上記の討論会については、最首氏の話が一番分かり易く、共感が持てた。

ところで、現役東大生が作成したという資料集。気になったところがいくつかあった。
年表に、ちょうど40年前の前日すなわち1968年11月22日の出来事が記されていない。
意図的ではないことを希望したいが、日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会が載って
いないのだ。
また、日大全共闘の秋田さんの名前が、わざわざ明大(めいだい)と仮名が振ってある。
徳川慶喜(よしのぶ)を(ケイキ)と呼ぶことがあるが、振り仮名を振るときは、
「よしのぶ」だろう。
日大全共闘も明治大学(明大)の学友にはお世話になったが、議長は「メイダイ」では
なかったはず。「あけひろ」さんが正解だろう。



政権交代の必要性


アメリカは、史上最悪の部類に属するブッシュ政権からオバマ政権に移る。
アメリカは、時々大きな間違いを起こすが、これを修正しようとする民意が働く
ことが救いだ。
”Change”(変革)を求めて民意が動いた。

我々も1968年には「変革」を求めた。

日本も今の閉塞感を打開するには「変革」しかない。
利権屋集団の自民党保守政治が続く限り、日本に明日はない。

首相に「麻生」いいか「小沢」がいいか?
なんて聞いているばかばかしい質問がよく新聞に出ているがくだらない。

今必要なのは「政権交代」である。
「政権」が年中交代すると「不安定」だなんていう人があるが、これは大間違いだ。
年中交代する可能性があるということが、政権に緊張感が生まれ、愚かな政治が
出来なくなるので、むしろ「安定」になるのだ。
「小沢」がいいから民主党を選ぶのではなく、政権交代が必要だから、現在の
野党を選ぶのである。次の与党に一番近いのが民主党どろということである。
民主党が決していい訳ではなく、自民党より多少ましかもしれないというだけである。

また、このような緊張した政治状況では、いつも与党にくっついて甘い汁を吸おうと
する、公明党のような政党の正体があらわになるのである。

「不安定」は「安定」、「安定」は「不安定」につながる。


軍隊で平和が守れるのか?


憲法改正論者は「軍隊がないと国の安全が守れない」とよく言う。

では、軍隊で平和が守れるか?

60余年前の日本の軍隊はどうであったか?
大日本帝国陸海軍はむしろ日本を滅ぼした。
アメリカを見るとベトナムにしろイラクにしろ軍事力で何か解決したか?
答えは誰にでも分かることである。

軍隊は、戦争をすることが仕事である。平和が続けば仕事がなくなる。
多くの場合、軍隊は「仕事」を作り出す。職場を求めて。
軍隊があれば、戦争はなくならない。

仮に軍隊が必要だったとしよう。
この軍隊は、強いほうがいいのか、弱いほうがいいのか?
それは強いほうがいいに決まっている。
世界一強くなければ意味はないだろう。
アメリカより強い軍隊が作れるのか?
アメリカより弱くていいのなら、アメリカとは戦えないということだ。
だからいつでもアメリカの属国になっていればいいのか?

軍隊を強くするには、実戦が欠かせない。
平和な世の中で、実戦の場をどのように見つけるのか?
やはり「仕事」を作り出すししかないではないか。

軍隊があれば、戦争はなくならないのである。
軍隊のある平和なんてあり得ない。



アメリカはいつでもろくでなしを支援する


アフガニスタンのオサマ・ビン・ラディンやイラクのフセインは、
アメリカが手を焼いた(ている)人物であるが、結局、彼らは
アメリカが育てた人物である。

オサマ・ビン・ラディンは、アフガニスタンでのソ連侵攻に対抗するため、
フセインは、イラン・イラク戦争時にイラクに対抗するため、アメリカが育てた。

いつもアメリカは、ろくでもない人間を支援する。
中国では蒋介石。韓国では李承晩や朴正煕。ベトナムのゴ・ディン・ジエム。
日本に至っては、保守政党の歴代首相。
具体的には、岸信介や佐藤栄作というところか。



「敗北を抱きしめて」を読んで


以前、図書館で「敗北を抱きしめて(上・下)」(ジョン・ダワー著 岩波書店)を
借りて読んだ。なかなか良い本だと思った。
増補版が出て、もう一度読みたいと思い今度は買った。

写真や図が豊富になったこともあり、また前に読んだときの記憶が薄れたこともあり、
とても新鮮に感じた。

著者がアメリカ人でありながら、GHQの占領政策にはかなり批判的な書き方をしてる。

戦後の状況を極めて詳細に記述しており、GHQの初期の政策から朝鮮戦争に向けた
大きな政策変更が、日本の保守政治家の利害と一致し、戦争責任の追及もうやむやに
なったことがよく記されている。

最高責任者の責任を問わなかったことは、これをアメリカが利用しようと意図したことで
あり、昔は軍隊に、戦後はアメリカに利用されることになった。
ちなみに中国で人体実験などを行い、細菌の研究していた731部隊についても、その成果を
利用するためにアメリカは罪を問わなかった。
この成果は朝鮮戦争やベトナム戦争で使われた。

極東軍事裁判(東京裁判)では結局、最高責任者の罪は問わないように、アメリカも日本の
戦犯もまた反動政治家も最大限の努力をした。
731部隊や岸信介のようなアメリカの役に立ちそうな者の罪を問わずに済ませた。
明らかに「勝者の裁判」であった。
アメリカのご都合主義だったのだ。

本来、日本人が戦争犯罪人を裁くべきだったのだろう。
それが成されなかったことが、良くも悪くも今日の日本を作っている。



企業の「談合」に思う


2006年の正月だったと思う。
大学の同窓の仲間3人と新年を祝った。

その際に、当時、あちこちで発覚した談合事件の話題があり、私以外の仲間は
一様に「談合は必要悪」と認めている。

日大闘争の時には、一度はデモに参加したことのある仲間である。

私は「我々の世代がそんなものをなくしていくべきではなかったのでは?」と
言ったが、所詮少数派。

企業の中にトップリ浸かると結局そうなってしまうのか、と私は、嘆かわしく
思った。

私も企業の中にいたが、「偉く」ならなかったおかげで、今でも全共闘で
闘った時の気持ちだけは残っている。体はなかなかついて行けないが・・・。

企業の中にいると、その企業の中のことしか考えられなくなる。
社会に対する影響、人々の生活に対する影響が見えなくなる。
企業内労働組合も同じことだ。企業内の組合員のことしか考えない。
いや考えているのならまだいいが、往々にして企業内組合は、経営者の
ご機嫌を伺う組織に成り下がっている。

それが今の「派遣」の問題につながっている。
社会に対する責任を考えない経営者が増えたということだろう。
私はそう思う。


闘うことを忘れた日本人


2009年1月4日の朝日新聞の「耕論」という欄に仲代達矢氏が
「日本人は全学連時代以降闘うことを忘れてしまった」と書いていた。

「全学連」の表現が適切かどうかは疑問だが、主旨は極めて適切といえる。

「教育」の場が、「受験」のテクニックを教える場と化し、「大学」に行けば
それで終わり、という「教育」からは「社会」の問題を考える人間は生まれてこない。
従順に「お上のいうことに従え」という「教育」からは「変化」に対応できる
人間は育たない。
一つしか回答のない問題の答えをどれだけ覚えているかを競う「教育」の
中からは、世の中が「多様」であることが理解できないし、「新しい問題」に
対応できる人間も育たない。

「社会」が分からないから「闘う」相手も分からなくなっている。
だから相手が「誰でもいい」と無茶苦茶な自暴自棄的な行動が生まれる。

仲代達矢氏は、
「何か問題があれば全員で闘う」ことの必要性を説いている。
「悪しき権力に向かって闘う事」を説いている。

これが「民主主義」なんだ、と思う。




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