2009年 1月 25日 更新

管理人の独り言(2)




「大学」「教育」について思うこと(1)


高校時代、私の成績は悲惨であった。ただ、出来はよくなかったが、唯一物理の授業は
楽しかった。物理の先生は、最初の授業で「文部省がうるさいので、皆さんには指定の教科書を
買ってもらうが使わない。」と自ら作成したプリントを配った。それ以降プリントから小冊子になった。
実験器具も大手S製作所のものでは物理現象をきちんと説明できないと、これも自作の器具を使って
実験していた。
この先生の熱意が私にも伝わって楽しいと感じさせたのである。この先生は現在八五歳とのことだが、
最近、中高一貫校になることに対して「エリート校には反対」「高校は学問の面白さを知るところ」と
述べられていた。

現在の「教育」は、すべてが「受験」が中心となっている。「いい学校に入るため」である。
「いい学校」に入って何をするかの議論はない。すべての人が「いい学校」には入れるわけがない。
でも「いい学校」には入れなかった人でも、今ではとにかく入学金と授業料を払えば、レジャーランド化
した大学に入れ「大卒」の肩書きは何とかもらえる時代になった。

本人が「いい学校」に入りたいと思わなくても、周りや学校自体がそういう「教育」になってしまって
いるので学校が面白いはずがない。この「教育」は「学問」とは無縁だ。学校は本来「学問」をするところだ。
「学問」の楽しさを教える場でなくてはいけないのである。

小さいときからテストで人より一点でも多く点を取って「いい学校」を目指す「教育」が行われて
いるが、これで本当に社会に役立つ人間が出来るのであろうか。「いい学校」を目指すのもすべて
「自己の利益」のためであろう。本来は、「こういう学問をしたいからこういう学校に入りたい」
「こういう仕事をしたいからこういう学校に入りたい」でなければならないはずだ。

 私の高校時代の日記に、こんなことが書かれていた。
授業終了後の清掃時に、清掃もしないで帰ってしまう人間が多かった。進学校であったので、受験に
直接役に立たないことは逃れようという精神の人間が多かったのだ。
そんなことで「いい大学」に入って、高級官僚や大企業の幹部になったって、自己の利益しか追求しない
人間になるだけだと思うと。

今、世間で問題になる、官僚の問題、企業の問題は結局は日本の「教育」の問題ではないかと思う。

私の父は、常日頃「学校の名前で飯を食うな」と言っていた。「いい学校」を出たからといって、
それだけで驕るなということであり、また「いい学校」を出なかったからといって悲観するなという
ことである。要は中身だと。これが「教育」ではないのか。


「大学」「教育」について思うこと(2)
(「さらば『受験の国』高校生ニュージーランド留学記」を読んで)


新聞の書評を見て興味を持った。
読んでみて、作り話ではないかと思うほど、日本では考えられない「教育」、
ほんとうの「教育」が行われていることに感心した。

「日本という国はどこかおかしくなっている」からはじまって、日本の
教育の姿を、「学校は教育機関というよりロボット工場のように見えた。
それはヒエラルキーに忠実で、疑問を持たない生徒を作っていた。・・・」と。
また「すべての授業が、良いといわれる大学の入学試験に合格することに
集約されていた」と書いている。
そして、著者の選択は、高校の交換留学制度のよって、ニュージーランドの
交換留学生になった。著書はその体験記というべきもので、元々は、両親に
宛てた報告の原稿(英文)を編集したものだとのこと。

日本の「教育」は、著書にもあるように「いい学校に行く」あるいは「大卒」
という肩書きをもらうことがすべてのような「教育」が行われている。
その学校で何をするのか、などほとんど問題にされない。
今の日本の大学は、入学しさえすれば、よっぽどのことがない限り、
卒業できるのだ。

そのような「教育」に比べて、ニュージーランドで行われている
「教育」は、何とすごいことか。
国際的な視野から行われている「教育」といえるのではないか。まさに「国際人」
を作る「教育」である。日本の「大学」という狭い世界のことだけ考えた
「教育」とは、全く次元が違うように思われる。それも高校のときにそのような
「教育」が行われている。

これでは、世界で日本人が太刀打ちできないのは明らかだ。

大分県の教育委員会の出来事は、恐らく氷山の一角であろう。
「教育委員会」というのは本当の「教育」など考えていない。
文部省も物事を考えられる人間を育てたがらない。権力者の、あるいは
支配者の言うことを聞く人間(著者の言う「ヒエラルキーに忠実」)が
文部省の理想だろう。
それには、教育に携わる人間も、文部省に文句を言わない従順な
「教育者」を望んでいる。
それに従って人事を行っているのが教育委員会なんだろう。



再び「大学」「教育」について思うこと
「フィンランド 豊かさのメソッド」を読んで


「フィンランド 豊かさのメソッド」(堀内 都喜子著 集英社)を
読んだ。
フィンランドは、2006年と2007年に学力調査世界一位になったという。
授業数は、日本より少ないということだ。

一体どうしてだろうか?
次のことが挙げられていた。
 ・質の高い教師
 ・偏差値編成や能力別クラスがない
 ・同じクラスでの特殊教育
 ・学生のカウンセリングとサポート
 ・少人数制
 ・進学希望が強い
 ・平等な義務教育
 ・社会における教育の重要性が高い
 ・教師という職業の社会的地位が高い
 ・安定した政治
 ・経済格差が少ない
 ・地域差があまりない

私立学校もないそうだ。

大学への進学は、高校卒業試験の結果以外に、これから専攻したい分野の
専門知識も問われるそうだ。
従って、高校を出たばかりで何を勉強してよいか分からない場合は、
アルバイトなどをしながら考えて進むべき分野が決まってから進学する
ということもあるそうだ。

日本のようにただ「大学受験」が最終目的の教育、何でも大学に行って「学士」を
とることだけが目的の学生たちとおのずから差が出てくるであろう。
最近、日本では「大学全入時代が迫る中、「学士」の質保証を求める声が
強まっている」なんていうニュースもある。
日本の「教育」そのものが地に落ちている証拠だろう。

受験戦争という意識がなく、リラックスした雰囲気で勉強が出来る環境に
なっているとのこと。

日本も本当の「教育」を考える必要があると思う。

ノーベル賞と学歴


2008年のノーベル賞には日本人が4人も受賞した。
物理学賞では、南部陽一郎氏、小林誠一氏、益川敏英氏。
化学賞では、下村脩氏。
今までの受賞者の多くは、旧帝国大学出身者。
2000年の白川英樹氏(化学賞)が東工大で唯一の例外かもしれない。

今年は、物理学賞には、やはり東大や名古屋大学の旧帝大出身者のほか
下村さんが長崎医科大学附属薬学専門部卒という世間ではむしろマイナーな
大学出身者が受賞した。
非常に喜ばしいことだ。
「自分は(旧長崎医大という)小さな地方の大学の出身だが、
それでもノーベル賞を取ることはできる」という言葉にも感動した。

要は大学の名前ではなく、その人のやる気なんだろう。
そのことを改めて教えてくれた、下村氏は素晴らしい。

ところで、話は全く変わるが、
ノーベル平和賞の佐藤栄作氏は一体どうして受賞したのか全く分からない。
最近の新聞には、佐藤栄作氏が、中国と戦争になった場合には「米国が直ちに、
核による報復を行うことを期待している」といったことが明らかになった。
佐藤栄作という人は、「平和」など全く頭になかった人だ。
日大の大衆団交を否定したのも彼だ。ろくな人間ではない。
ノーベル平和賞とは、きっといかにアメリカ(圏)に忠実だったかを
評価する賞なのではないかと思う。



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