2009年 1月 25日 更新

管理人の独り言(1)

「ニホン」?「ニッポン」?

私は、「ニッポン」という響きが大嫌いである。
「大日本帝国」を連想するからである。
「日本大学」は"Nihon Uviversity"であって、
"Nippon University"ではない。
「ニッポンダイガク」ではないのである。
日大を、「ポン大」と呼ぶ人がいるが、間違いである。
「日本大学全学共闘会議」も「ニホンダイガクゼンガク
キョウトウカイギ」であって「ニッポンダイガク・・・」
ではない。
「日本大学」が良かったのは、「ニッポン」ではなく
「ニホン」であったことぐらいか・・・・?

蛇足だが、卒業して、就職した会社は、日本**株式会社
で、「ニッポン」であった。


全共闘ベクトル論

「全共闘ベクトル論」などと大仰な書き出しであるが、
そんな大層なことを言うわけではない。
何かいい言葉が見つからないので、そんな書き方をした。

何が言いたいのかというと、
巷では、全共闘世代に対する、全共闘世代以外の人からの
言いたい放題の罵詈雑言。言わせておけばいいのだが、
全共闘世代の立場から言っておきたいこともある。
そこで、以下の話になる。

そもそも、全共闘世代とは何か。
全共闘世代とは、全共闘で闘った人たちが属する世代と
いうことであって、「全共闘世代の人」=「全共闘で闘
った人」ではない。そこを取り違えて話をしている人が
なんと多いことか。

全共闘で闘った人は、同世代の必ずしも多数派ではない。
私はむしろ少数派であると考えている。
多数派でなければ、真理はないのか。それも違う。
歴史をつくるのは、むしろマイノリティからではないのか?

「団塊の世代」=「全共闘世代」これは、大体当たって
いるかもしれない。世代はニアリーイコールということ。
ただ、ここでも、上で述べたことと同じであるが、「団塊
の世代の人」=「全共闘で闘った人」ではない。

私が思うには、「団塊の世代」とか「全共闘世代」とか
呼ばれる、私たちの世代の特徴のひとつには、「多様性」
があげられるのではないかと思っている。
巷では、「群れる」とか「集団でしか行動できない」とか
いわれているが、決して皆がみなそういうわけではないと
思っている。

私たちの世代の中には、いろいろな奴がいる。これは、
確証があるわけではないが、私たちの世代以前の世代よりは、
考えられないほど、多様だったのではないかと思う。

音楽では、ビートルズやグループサウンズ、フォーク。
服装にしろ、髪形にしろ、私たちの世代から新しい物が
出てきているし、同じ世代でも、それを好む者、好まない者
も当然いた。

今では、誰でも「ビートルズが好き」と言う人が多いが、
ビートルズが日本に来た頃は、ビートルズが好きな人間は
日本では、少数派であった。
先日、テレビを見ていたが、RCサクセションの仲井戸麗市氏
(1年歳下?愛称:チャボ CHABO)も「同級生で、ビートルズ
が好きだといっていたのは、2〜3人だった」と言うような
話をしていた。
要は、私たちの世代は「多様化の始まり」なのだと思っている。

全共闘、とりわけ日大全共闘は、決して多数派ではなかった
のだけれど、何故、あんなに(当時を知らない人にはわから
ないかもしれないが)大きなうねりを作り上げることが
できたのか。
当時の日大生のひとりひとりは、皆、考え方も趣味も、また
政治志向も違っていた。それこそ多様化していた。
その人それぞれの、考え方、そしてそれへの思いの強さを
ひとつもベクトルであらわせるとすると、このベクトルは
皆バラバラ。そして、時と場合によっては、その方向も、強さ
も変化する。
世間で言われている「団塊の世代」や「全共闘世代」評では、
画一的な方向を向いたベクトルだととらえているけれども、
それは全く違う。

それが、1968年、1969年に、皆のベクトル合成値
が極大になったのだと考えている。
日大の場合には、それは1968年9月30日に最大の極大値
に達したのではないかと思っている。

ある意味では、皆のベクトルが、ある方向に「共振」or「共鳴」
(ニュアンスは違うかもしれないが)したのかもしれない。

それにもうひとつ。
「全共闘」といっても、全国の大学の全共闘が同じ「全共闘」だった
のかといえば、それも”No”である。
多くの大学の「全共闘」がセクトの共闘に近いものがあったが、
日大の場合は、ノンセクトが主導であり、むしろ右翼的な連中から、
左翼まで幅広く共闘していた。セクトはむしろ脇役であったのでは
ないだろうか。

1970年以降は、日大に限らず、「団塊の世代」のそれぞれ
の人のベクトルもまたバラバラ。ひとつにまとまる事はなく
なったように思う。

2007年以降、また、まとまりそうな雰囲気もあるが、
あまり期待は出来ないであろう。。


中公新書 「安田講堂 1968−1969」(島 泰三著)


この本が出版されてすぐに買って読んだ。
書評を書く能力はないが、感想を若干記しておく。
「日大全共闘」についての記述も多く、また好意的に書いていただいており
一応は、満足できる内容だったが、いくつか「おや?」思うところがあった
「ひとつの『仮定』」としているが、「日大では右翼・体育会と全共闘が合流した
とする」という記述がある。日大闘争を本当に理解しているのかな?
という疑問が湧いてくる。大学当局の私兵としての「右翼・体育会」
「合流」できるのであれば、そもそも闘争など起きなかった。
もうひとつ。「大和魂」なんていう言葉が最後のほうに出てきた。
私は、「大和魂」とか[武士道」だとかいう言葉が大嫌いである。

数年前、日大芸術学部の在校生が「取材」と称して、「日大闘争」について
インタビューを受けたことがある。(「取材」の真偽はわからないが。)
そのときに、「当時『武士道』ということを考えましたか?」なんていう質問
を受け、私にとってあまりにも唐突な質問であったので、一瞬答えに窮し
少し経ってから「そんなこと考えたことないよ」で終わってしまった。

「日大闘争」は、譬えていえば、「百姓一揆」であり、決して「武士」道では
ないのである。「武士」などという「支配階級」の闘いではないのである。
私は、「大和魂」や「武士道」は偏狭的ナショナリズムを鼓舞する言葉だと
感じており、ともに嫌いな言葉である。



「がん」が見つかったときのこと


私は、30代になって結婚後まもなく「がん」が見つかった。

最初は、左の耳のそばに何かしこりがあるのに自分で気が付いた。

当時、私の勤めているところは、子会社の敷地でその中に子会社の診療所があった。
その診療所の医者に相談すると、その医者は「そんなもの、放っておけばいいんだよ」
その一言だった。
それでも気になったので、今度は週に1度くらい来る本社の女医さんに相談してみた。
すると「私は専門ではないので、他の事業場の先生を紹介します」とのこと。
一番近い事業場の診療所長宛ての紹介状を書いてくれたのですぐに行ってみた。
診療所長の外科医は「ここでも簡単な手術は出来るけど近くの病院を紹介するよ」と
紹介状を書いてくれた。

近くの病院にいくと、外来での手術になった。耳下腺腫瘍である。
手術後、病院の医者から「病理検査の結果、悪性の疑いがあるので入院して
もう一度手術を行う」とのこと。
入院して手術をし退院したが、今度は「念のため」放射線治療を行うという。
その病院には放射線治療の設備がないので姉妹病院で放射線治療を受けることになった。
放射線治療というのは、体に相当負担がかかるようで、夜中失禁しそうになって
目が覚めたことがある。
放射線治療の後もその病院で術後の経過を見てもらっていたが、耳鼻科での診療の際、
インターンであったのか、私が「ここにしこりがあるでしょ?」と聞いても、
その医者は分からないという。この医者は大丈夫なんだろうかと不安になった。

そんなある日、会社の工場移転のため、家を引っ越すことになり、これを機会に
引越し先の公立のがん専門の病院を紹介してもらうことにした。
そして紹介してもらった公立病院で最初に見てもらった医者の一言「手術の仕方が
間違っています。また、この種の治療には、放射線は効きません」だった。
そして「再手術が必要です。そのとき下顎の骨も切除する必要があるので、セラミックを
準備します」
一体、今までの治療はなんだったのか?

15時間の手術の後、ICUに何日入っていたのか、自分の記憶はない。
その後、入れたセラミックは、感染症のため抜いてしまった。
ハイテク製品は、体が受け付けないということか。

その後、おかげさまで25年生きている。
その公立病院の担当していただいた医長は、優れた医者として有名だったようだが、
私が入院中に、若い医者にこんなことを行っていたことを記憶している。
「患者は、いろいろ分からないことを言うが、これをきちんと聞かなくてはいけない。
その中に真実が隠れていることがある」と。言った言葉通りではないが、そんな主旨だった。
私の手術は、患部の筋肉を切除してしまうので他の部分から移植することになっていたが、
その医者は、その手術前に何時間もかけて写生をしていた。他の患者でもそうだという。
移植のときの縫い目は細かく丁寧だった。

私の一つの病気で、何人もの医者に出会った。
ピンからキリまであった。
また技術は優れていても、医学が分かっていない医者もいた。
最後は良い医者に出会ったため、「がん」にかかっても25年生きている。

患者にも医者を見る目が必要だと感じた。



Top