研究することが日常
   私にとってリサイタルとはいい意味で日常的なものかもしれません。音楽家にとってリサイタルとは大きく分けると、日常的なものと研究発表的なものとがあると思います。日本ではとりわけ後者の要素が強いかもしれません。ですが、私は論文や研究を発表するようなつもりでリサイタルを開いてはいません。しかし、そうした側面がないと言い切れないのは、研究が大好きで、私にとって研究することが日常であり、根源的欲求であるからです。
 最近、私は音色への関心を非常に高めており、研究テーマの一つと言っていいと思います。もちろん以前からも大変興味はあったのですが、これまでにも増して惹かれるようになりました。というのは、東京文化会館の小ホールに新しく入ったスタンウェイのフルコンサートピアノ(D型571225、2005年製造)の音色が素晴らしく上等で、奇跡的と言ってもいいほどの逸品なのです。そのため、私が求めるアタック、つまり、音の柔らかさ硬さ、明るさ暗さ、強弱、長さなど様々なニュアンスを実に忠実に細部まで表現しうるのです。
 今回、私がリサイタルに選んだ曲目はバラエティに富んでおり、あまり見かけないプログラムかもしれません。そのことは十分承知ですが、この素晴らしいピアノならば、全く違った様式の曲に耐えうると思いますし、むしろ多様な音色の違いや美しさを楽しむのに適していると思うのです。

ベルガマスク組曲 月の光
 ドビュッシーのベルガマスク組曲は4つの曲からなっており、その中で最も有名な曲は第3曲の月の光です。思うに、有名な曲には有名になるだけの要素があるのではないでしょうか。この曲でいえば、とても分かりやすい旋律、誰しもが享受できるような月の光が移ろう様を表したリズム。そのリズムは柔軟で、優美で、世界中の人々に月の美しさと同じように受け入れられてきたのだと思います。
 私はこの曲を20年以上前からアンコールに選んでいます。アンコールのときの方が、緊張がほぐれ、開放感にあふれ、気持ちが自在になっている。そういう精神状態のときの方が、こうした美しい小品は弾きやすいからです。

夜のガスパール
   20世紀の初頭はピアノの音色、メカニックなどが大いに発達した時代です。夜のガスパールは1908年に作曲され、当時のラヴェルとしては、頂点と言っても過言ではないぐらいの、ピアノ技術や音楽の粋を集めた曲だと思います。
   また、ピアニストは皆惹かれると言ってもいいほどの曲ですが、演奏至難でもあります。演奏の難しさとは、表面的な指使いの華やかさやテクニカルな難しさとは違い、曲と本当に深いところで結びついていて、芸術的に評価されるものであると思います。指使いが難しい曲というのは、難しいところを弾くにはどうすればいいか?ということに囚われがちです。しかし、音楽、音色がより美しくありたいという作曲家の精神の結果として指が難しくなってしまった。ですから、その精神を汲みながら作り上げていくため、演奏の中に複雑さがあり、奥深さがある。表面的な演奏技巧だけなら、この曲は決して有名にならなかった。ギリギリのところに歌や心の本音、精神が存在するので、それを追い続けるところが何よりの魅力だと思います。

ピエール・ブーレーズ
 ブーレーズは2009年に第25回京都賞を思想・芸術部門で受賞されました。同賞の第1回受賞者はメシアン先生です。私がパリ・コンセルヴァトワールでメシアン先生の作曲の授業を受けていた1977年、在学3年目の秋に、学校主催の会でブーレーズが率いるアンサンブル・アンテルコンタンポランに作品を演奏していただく機会に恵まれました。曲目は「防人の歌(さきもりのうた)」という万葉集から題材を得て作曲したもので、ソプラノの奈良ゆみさんに大和言葉で歌っていただきました。
 その時に大変驚いたことがありました。リズムを記譜せず、1小節何秒と書いたものを、音をデザインする事からリハーサルして、定規で測ったように演奏してくださったのです。現代音楽をこんなに正確に表現できるのかと、本当にびっくりしました。当時、良い意味で漠然とした時空間を書いたのですが、こんなにも厳密に演奏できるのなら、作曲者はいろいろと思慮することが多いと思ったものです。それより何より、すでに著名な指揮者であったブーレーズが、フランスのためとは言え、よくもまあ、学生が書いた曲を演奏してくれたと、非常に驚きました。ブーレーズの包容力や心の温かさを物語る出来事でした。
 私は日本でピアノソナタ第1番を公開で弾くのは実は初めてです。この曲はアタックがすごい。強弱の幅が広く、それも最弱から最強音までを縦横無尽に最初から最後まで行き交うような感じであり、そして音域も大変広く、従来の12音音楽とは違った、音域を移し替えるような部分もあります。前の2曲とは全く違う音の組織が味わえる曲です。

展覧会の絵
 この曲が有名になったのは、冒頭のモチーフの音程の作り方が非常にユニークで、一度聴いたら忘れられない上に、調を変えて幾度も繰り返されるためでしょう。ムソルグスキーはこの繰り返しにより、聴衆があたかも展覧会に行って様々な絵を見て、その間に心境が変わることを意図していると思います。
 繰り返しモチーフを使うということは、ややもすると単調になりがちです。彼はそうならないように、プロムナードの音域や調を変えるなど、多くの工夫を凝らしています。
 演奏者の私としては、先ほどお話しした音色の研究に関わってきます。私が26歳の時、指揮者のイゴール・マルケビッチに、彼の南フランスのご自宅で、この曲について話を聞く機会がありました。彼は弱音が非常に重要で、オーケストラに普通では考えられないほど、もっと小さくと何度も言うし、ピアニシモの質感に非常にこだわるべきだと言っていました。当時の私はまだ若くてよく解ってない部分でもあり、非常に勉強になりましたが、今となってはその大切さがよく分かります。
 その逆のフォルテシモですが、ムソルグスキーのフォルテシモはとりわけ和音が多く、奥深く、本当に難しい。前回の上野のホールで(2009.6.9のリサイタル)、フォルテシモと楽譜に書いてあっても、フォルテシモの一つ手前の段階で顧みる作業をしましたが、これはいいと思いました。ピアノがとても良いからで、そういう細かいことに対しての反応が素直に音に表れます。フォルテの質を多様化する手段の一つだと思い、今後も研究していきたいと思っています。
 しかしながら、私はこのムソルグスキーの展覧会の絵は、十分に多様性に富み、自分の思うところ正直に表現できれば、さほど強く意識しなくとも観客との時空間を共有でき、ラヴェルの編曲した管弦楽の「展覧会の絵」よりも、ずっと楽しめる作品になるのと思います。そのように演奏すべく、お正月返上で頑張りたいですね。【談】