調の距離 〜そしてその先へ〜
この約100年間で、クラシック音楽はそれまで長く続いた調のある時代から、ない時代へと激変しました。サブタイトルのその先へというのは、調がなくなった現代のメシアン、ブーレーズ、私の曲を指します。今回は調のある時代からない時代への過渡期の曲および調がなくなった曲を取り上げました。そしてそこにある様々な“距離”、調の主音と旋法のトニックとの間にある距離、調の位置が移っていく距離、調がなくても中心音が移動する距離―などにスポットを当ててみました。
藤井一興:Green (2013/1/5東京文化会館にて自作初演曲)
私は森や海、川などの自然を見るととても癒されるので、音で森林の散歩を描きたいと思いこの曲を書き始めました。
タイトルの“Green”を音楽的にちょっと変換して、Gはソ、reはレ、eはミとし、ソ、レ、ミをモチーフの一部として使いました。演奏所要時間は約6分。聴くと運指が難しいように思われるかもしれませんが、
実際には弾きやすく、鑑賞しやすい曲に仕上がっていると思います。
曲の構成は、最初木々がまばらにあるところから、だんだんと森が深くなり、森林の奥にいくと泉があって、泉からは水が湧き出、それが池に流れこむ様。そして深い森のなかの木漏れ日により、空気がざわめく。そして、緑への祈りをイメージしました。
近年、世界中で森林破壊が進んでいることや震災で多くの森に被害が出たことに、私はつねづね心を痛めています。地球環境を維持していく上で、緑が再生し、私たち人間だけではなくすべての動植物が豊かに暮らせるようにという祈りを込めました。
プーランク:ピアノ組曲「ナゼルの夜会」
リサイタルを開催する2013年はプーランクの没後50年に当たり、プーランクを演奏される方はとても多いと思います。プーランクは作曲家でありながら、ピアノの名手でもありました。私の師であるアンリエット・ピュイグ=ロジェは、プーランクが歌の伴奏をされていたのを何度も聴きに行ったそうで、とてもなめらかで柔らかい音色だったとおっしゃっていました。また、とても手が大きかったとも話してくださいました。実際彼の作曲した曲はオクターブ以上の和音が散在しており、
日本人だとある程度工夫しないと弾けないような箇所が幾つかあります。
今回演奏するピアノ組曲「ナゼルの夜会」はプーランクの初期の作品を代表する重要な曲です。この作品は1930年代のもので、この頃になると調のない曲が多く書かれるようになりました。しかし、彼はこの曲だけでなく、最初の作品から晩年に至るまで、頑なまでにずっと調のある曲を書いていて、どんな楽器であろうと常に旋律が歌いやすい曲を作曲し続けました。
調の距離においては、機能的な反復進行はドビュッシーではあまりありませんが、プーランクの場合はとても多くみられます。それらのことが当時の批評家から手段が古風ではないかと批判された原因となったと思われます。
確かに彼の曲はハーモニーがとても機能的で一見分かりやすく聴こえるのですが、巧みにたくさんの転調を用い、転調する時のゆらぎを上手く使うことで華やかさを演出しています。しかも、聴衆が多くの転調がされているのに気が付かないように構成しているのです。さらに不協和音を巧みに使うことで聴衆を自分の世界に引きずり込む魔力を生み出しています。これらは優れた聴覚のなせる技であって、私は高く評価されるべきだと思います。
この「ナゼルの夜会」は表情が各曲で頻繁に変わるため、その違いを的確に演奏で表現することの難しさがあります。ですが、全曲を通して緻密な計画性や創意工夫がみてとられ、そこに彼の天才的な即興性が加わっているので、まるで即興曲のような雰囲気を醸し出していて、とても楽しめる作品になっています。
ドビュッシー:見出された練習曲
この曲は1915年に作曲された12の練習曲の第11曲“組み合わされたアルペジオ”と同時に書かれたものの、12の練習曲には入れられず、当時は出版されなかった曲です。
どちらの曲も多くの分散和音を組み合わせていますが、第11曲は緩やかでゆったりしている、こちらは生き生きとした激しさがあるといったように、作曲のアプローチが全く異なっています。
この曲は変イ長調で書かれており、調の距離を測る物差しが非常に天才的かつドビュッシー的で、ドビュッシーの聴覚での物差しで測った調との距離があります。今回私は初めて公の場で演奏することになり、ドビュッシーの新たな天才的作品に触れられとても嬉しいです。
ブーレーズ:アンシーズ
この曲は1993年、1994年に行われたウンベルト・ミケリ・ピアノコンクールの課題曲として作曲されました。現代曲で調の距離は全くないのですが、限定された音群を用いているにも関わらず、無限の広がりを感じさせる知力の素晴らしさがあります。
とてもテンポが速く、4分もない短い曲ですが、疾走する速さの中にブーレーズらしい妥協のない、理知的なアプローチが美しく反映されています。
ラヴェル:クープランの墓
1914年から1917年にかけて作曲された6曲からなるピアノ組曲です。前奏曲の最初のモチーフが全曲にわたって使われるというバロック様式ですが、ラヴェルの手法にかかるとバロック様式の古典的な精神が全く異なった彼独特の魔法の世界となります。
調の距離という意味ではかなり旋法的です。だからといって、全く調がないわけではなく、前奏曲はラの旋法で始まり最後はホ短調のT度の和音で終わっています。
この組曲は第一次世界大戦中に書かれており、各曲とも戦死した友人たちへ捧げられています。クープランとは18世紀のフランスを代表するバロックの作曲家フランソワ・クープランのことで、これをタイトルにしたことで亡くなられた6人に捧げるだけでなく、フランスの伝統文化を讃える曲にもなっています。
メシアン:幼子イエスに注ぐ20のまなざしより第15番幼子イエスの口づけ
この曲は主の愛が嬰児のイエスを通じて、優しく、優美に全世界に注がれ広がっていく様子が書かれています。情熱的な愛や優しさに溢れた愛、深い愛、人の心を慰めるような愛など、様々な愛に満ちており、私の大好きな一曲です。
今回とりあげた作曲家のほとんどは20世紀に起きた2つの世界大戦のどちらか、または両方経験しています。大戦はその時代の多くの作曲家にこの先どうなるのか分からないという強い不安や精神的な暗さを与えました。しかし、そのことがモチベーションとなり数々の傑作が生まれました。不安だからこそ不安さというものを純粋に音楽の美しさに昇華させて、
まるで一抹の不安もないかのように作曲した点に、心情の強さや信念の素晴らしさがあります。
私は戦争を体験していませんが、東日本大震災の時には本当に日本はどうなってしまうのだろうかと不安で胸がいっぱいになりました。いつの時代も様々な不安はあるのでしょうが、先人の精神に改めて敬意を表し、私にできることは一体何があるのだろうかと自分に問いかけてみました。やはり音楽しかありません。今回の選曲には震災で亡くなられた方を偲ぶ気持ちをこめました。
同時にささやかながら聴衆の皆様のお心を私の音楽で癒し、お力づけできたなら幸いです。【談】
写真上:2012年9月4日 Green
写真下:2012年6月17日 八ヶ岳高原ロッジ