きのこの観察のために顕微鏡を購入する人が増えてきているようだ。筆者も研究に趣味に顕微鏡を多用している一人であるが,顕微鏡を通して覗くミクロの世界はほんとうにすばらしい。ときにおもしろい観察対象に出会ったときなどは時間を忘れて見入ってしまうこともある。この至福の時間を味わう人々が増えているのはまことに目出度いことだ。そこで今回はちょっとした顕微鏡のはなしを書くこととしよう。道具としての顕微鏡
顕微鏡には2種類ある。一つは虫眼鏡の延長としてのおもちゃ顕微鏡。いまひとつは研究用の道具としてのそれである。両者の間にはじつに大きな差がある。おもちゃ顕微鏡の価格帯は数千円から20万円程度,研究用は20万円台から300万円程度である。大手の顕微鏡メーカーは,おもちゃ顕微鏡から高級研究用まで数々の機種を供給しており,それらはふだん目にふれることがない。一方,デパートや量販店でよく目にする顕微鏡は,ほぼ全てがおもちゃである。
では,きのこの観察にはどちらの顕微鏡がよいかというと,答えは2つある。もし,たまに使う程度で,胞子の形や大きさがわかり,デジカメ撮影も可能なことを希望する程度ならばおもちゃ顕微鏡でよい。アッベコンデンサがついている単眼の直筒タイプの顕微鏡で,7万円台ならいろいろと使えるだろう。半球レンズの単玉コンデンサに円孔絞りというシンプルなものもあるが,それでもけっこういける。小さくて場所をとらないし,ビクセンのデジカメアダプタも改造なしにそのまま使えるものが大半である。そして直筒ならば,良質のレンズを使えば像の切れば良いのである。
もし本格的に分類や撮影をこなしたいのであれば,研究用のものが必要である。顕微鏡の解像限界に近い胞子表面の突起や模様をクリアに撮影したいのであれば,研究用の生物顕微鏡・透過明視野の鏡基に最低でもプランアクロマート,できればプランフルオール〜プランアポ級の対物レンズを付けることが望ましい。価格はセットでだいたい35万円(プランアクロマート)〜200万円(プランアポ)程度というところである。
値段が高すぎる!との印象を持つ方もおられるかもしれないが,そんなことはない。研究用顕微鏡はプロが研究や臨床に使う道具である。おもちゃではない。例えば40倍のプランアポ対物レンズは一本25万円程度のものが多い。ふざけた価格に思えるかもしれないが,そんなことはない。一眼レフで言うならば,400mm F3.5のEDレンズのようなもので,特殊ガラスをふんだんに使い,諸収差を限界まで補正したレンズであるからどうしても高価格になるのである。そのぶん,切れ味はすばらしい。
筆者の研究用顕微鏡,バイオフォト。これも中古品で,鏡基は20年以上も前のものである。各部を磨き抜いた上でプランアポクロマートを装着してあり,像の切れ味はよい。顕微鏡に対する十分な操作技術・知識があれば,珪藻類の微細構造など,"おもちゃ顕微鏡"では見えないものが見える。なお,筆者はこの顕微鏡では菌類は撮影していない。
微細な形状を観察して同定の手がかりとする。そのときに頼りになるのはやはり優秀な機材である。いつか壊れるパソコンに数十万円投じ,デジカメに十万円投じてきたのなら,研究用のプロの道具,顕微鏡に100万円かけるのは無駄な投資ではあるまい。上手に使えば20年の寿命は十分にあるから,年間わずか数万円の経費である。蛇足ながら書けば,天文分野ですばらしい画像を撮り続けている人々がいる。これらの人々の間では「よい光学機材=よい画像への近道」は暗黙の前提になっており,天体望遠鏡や架台,CCDなどの機材に200〜300万円かけるのはごくふつうのことである。
但し研究用顕微鏡を使用する上での問題点は,勉強が必要なことだ。少なくとも顕微鏡の基礎についての知識がないと,性能を引き出せないからである。小学校以来顕微鏡に触れたことがなく,きのこ観察で顕微鏡が必要になったのなら,いきなり研究用顕微鏡に高額の出費というのは無謀だろう。カタログを読みこなす程度の知識がないと機種選定もままならないからである。しっかり勉強してから購入することを薦めたい。
入門機の魅力"おもちゃ顕微鏡"ではどのくらいのレベルの画像を得ることができるのだろうか。そんな疑問をお持ちの方もいるかもしれない。研究用の高級機と比較すれば多少劣るのは仕方がないが,じつは入門機でもステップを踏めばちゃんとした画像を得ることができるのである。それに,入門機には魅力がいっぱいある。何といっても,低価格である。それにすぐに使える。高級機のように複雑なメカニズムがないから,そのぶん説明書や解説書に時間を割かなくてもいいし,失敗も少ないのである。例えば,入門機の大半にはコンデンサの合焦機能がない。単玉レンズに円形絞りのコンデンサなら,理想の照明にはならないが,そのぶんケーラー照明の原理を勉強しなくともよい。"勉強してから観察"などというのは正直言ってつまらない。"何が見えるだろう?"と思ったら,その疑問が心をとらえているうちに覗いて見ればいいのである。これは自然観察にとって最も大切なことだ。入門機はその観点から優れている。とくに子どもが独力で観察を広げてゆく場合には,入門機はいちばん適しているといってもいいだろう。
かくいう筆者も,小学校〜中学校の頃から顕微鏡を使ってきた。親戚から譲り受けたビクセンの顕微鏡F-800である。この顕微鏡は単玉レンズのコンデンサに,円形絞りの簡素な作りで,微動は付いていない。対物レンズはただのアクロマートで,4倍,10倍,40倍である。接眼レンズはホイゲンの10倍と20倍のコンペンゼイション?が付属している。
この顕微鏡ではずいぶんいろんなものを覗いた。きのこの胞子はもちろん,花粉,シダ植物や動植物プランクトン,線虫,カビ,布,たくさんの昆虫,その羽根や足・顔。よい思い出である。今から考えると顕微鏡の照明原理など何も知らずにずいぶん無茶な使い方をしたものである。液浸系にならないかと,乾燥系の40倍対物レンズを水に浸けて使ったりしたものだ。酷使のせいでレンズは多少曇ったものの,まだ使えるのだから入門機はタフな設計だ。筆者がこの機種を手にして20年が経過したが,この入門機はデジカメを装着されることによりまだまだ活躍のチャンスがあるのである。
この画像は10倍のアクロマート対物レンズに10倍のホイゲン接眼レンズを使用し,ビクセンのデジカメアダプタを用いて撮影したものである。つまり上の顕微鏡の画像そのままの状態であり,研究用生物顕微鏡から見れば必要最低限以下のシステムで撮影したものだ。対象はアラゲキクラゲの切断面である。もちろん,トリミングし,このホームページに書いてあるような画像処理のテクニックを活用してある。どうだろう。十分な画像と言えないだろうか。比較的低倍率であれば入門機だってこのくらいのポテンシャルは持っているのである。より上位の対物レンズ(プランアクロマートなど,但し油浸以外)・接眼レンズと交換することにより,さらに高いレベルを目指すことだってできる。もし極限までの分解能を目指さないのであれば,デジカメとパソコンによって種々の画像処理が可能になった現在においては,シンプルな使いやすさと高いコストパフォーマンスを持つ入門機は,検討に値する対象だと思う。
研究用顕微鏡の中古品中古でよい品に巡り会う人もいるが,これはよほど幸運な場合である。一眼レフの世界でもそうだが,プロは機材を酷使するので,放出する中古の機材にまともなものはほとんどない。顕微鏡にもこれが当てはまる。使い古されてぼろぼろになり,各部に不具合が出たものが中古品の候補となる。顕微鏡ほどメンテナンスされていない機材も珍しく,大学等の研究室で完璧にメンテナンスされている顕微鏡をまだ私は見たことがない。そんなわけで中古品はかなり汚れているのがふつうなのである。良心的な業者はかなりメンテナンスをしてから中古として販売しているようであり,一般的用途には十分な状態である。しかしそれでもプリズム内部,鏡基下の表面鏡,内蔵フィルタなどはカビが生えていない限り清掃していないことが多いと思われる。というのは,もし全てを分解清掃したならば途方もない時間がかかって商売にならないと思われるからである。だからどうしても中古の顕微鏡はフレアが多い。もし中古品を買うのであれば,サンプルを覗かせてもらって自分で判断してからにすることをオススメしたい。新品の顕微鏡とのぞき比べができるならばなおよい。そしていずれの場合でも,どんな機種でもすぐに機構が理解できて,動作チェックはもちろんのこと,マニュアルで直ちにケーラー照明ができ,フレアのおおよその発生源が推測できる程度の技術を持ち合わせていることが必要である。
と,このように書きながら,私の持っている研究用4台,自宅用1台はすべて中古または廃棄品である(レンズは新品もある)。これはそもそもオカネがないことが原因なのだが,他に理由もある。筆者は汚れ落としが趣味なのである。汚れた顕微鏡の分解清掃は相当の知識・経験・根気・特殊技術を必要とする作業なのであるが,これがじつにおもしろく感じるのである。全ての部品をばらし,汚れを拭い,精密ネジのサビをミニグラインダーで削り落とし,塗装面を洗った後に研磨する。コネクタ類の金属をぴかぴかに研磨する。レンズやプリズム,ミラーを痕跡が残らないように拭き上げ,組み付ける。すると触ると手が汚れるような状態だった顕微鏡が,「これって新品?」と聞かれるようなものに変身する。フレアは激減し,クリヤーな視野になる。このような作業自体が趣味なので,汚れた顕微鏡を見るとついつい磨きたくなってしまうのである。だから廃品すらもらってくることもある。この気持ちが理解できる人なら中古顕微鏡も悪くないかもしれない。
顕微鏡の保管
顕微鏡のような光学機器にとって最も有害なのはタバコの煙である。タバコの煙にはオイルミストのようなものが混じっており,これらは液体である。したがって接触したところにべたべたとくっつくのである。どんな細かなところからも侵入し,長年のうちには光学系を曇らせる。だから愛煙家は顕微鏡の保管に十分すぎるほど気をつかったほうがいいだろう。他にも,家庭の場合は天ぷら油が大敵である。台所で炒め物をすると,しばらくすると各部屋においしそうなにおいが漂ってくるであろう。このことでわかるように,調理場で生成した微細な油は,部屋中を漂うのである。これらの油も光学系に付着し,見えを悪くするから十分な注意が必要だ。問題なのは,数年間かけて汚れていくので,見えが悪くなったことになかなか気が付かない,ということである。
こんなことにならないように,顕微鏡には厚手のビニール袋をかけておこう。ほこり避けの効果もあるので一石二鳥である。できれば専用の気密性ケースに入れて乾燥剤を入れておくのがベストだが,実際はなかなかできないだろう。
長期間使用しないときは,厚手のビニールに乾燥剤を多量に入れ,ビニールで何重にもくるんで封じるとよい。レンズカビの発生をかなり防ぐことができる。湿気の多いところでは,対物レンズを外してレンズケースに入れ,乾燥剤を入れたタッパー容器に入れておくとレンズを守ることができる。
一年に一度くらいは本体の掃除もしてあげよう。顕微鏡にはこまかなつまみが多く,手垢がつきやすいので,洗剤をしみこませて堅く絞った布で拭き,汚れを落としてからよく乾拭きしておく。それから通風のよい部屋において完全に乾燥させておけばOKである。(Aug 18, 2001)