きのこさんぽは自転車で


きのこは毎年出る。それが楽しみだ。でも、今年出会えるかどうかはシーズンになってみないとわからない。先シーズン出会ったあのかわいいきのことは、ひょっとするともう会えないかもしれない。そう思うと今、目の前にあるきのこでも大切にしなきゃなぁ、と感じるものだ。

きのこを大事にするということは、無駄な乱獲をしないこと、発生環境を維持すること、と言ってもいいだろう。 発生環境を広く解釈すれば、世の中全体である。末永くきのこと戯れたい筆者はこのあたりにもこだわっている。今回はそんな中の一つ、自転車にこだわる理由の話である。

筆者はクルマを使わない。といっても公共の交通機関は使うことはある。ここでクルマというのは自家用車のことである。路線バスが走っているなら使うことはあるし、タクシーも年に一回だけと限定して使う。しかしマイカーできのこを探しに行くことはない(そもそもクルマを所有しない)。クルマというのはまことに便利な乗り物ではあるが、植物や生物にとってはけっこう厄介者なのである。富士山の例を見ればそれは明らかである。

シーズン中の富士山は、道という道にクルマが停まり、どこもかしこもきのこ狩りの人々で賑わうという。話ではよく聞いていたのだが、先シーズンに一度だけ富士山に行く用事があり、これを実際に味わった。驚きであった。どんな林道の奥でもクルマが入っており、下からは続々とクルマが上ってきている。百〜数百メートルおきにクルマが駐車しており、道もないような茂みから人が顔を出す。林道沿いは排ガスの臭いが途切れない。そして多くのクルマが東京方面のナンバーをつけているのである。

もっと驚いたのは山に入ってからである。どんな小径も、そうでないところも、踏み荒らされ、食べられないきのこは蹴散らされている。どんな奧に入っていっても空き缶やビニールのゴミが落ちている。林道沿いにはゴミの集積場のようになっているところまである。がっかりであった。こういう光景を見るとどうにも楽しくない。もともと八王子のきのこしか相手にしていないからいいのだが、この富士山の現状には呆れてしまった。

だいたい、たかがきのこを採集するのに、どうしてサウジアラビアから運んできた原油(ガソリン)をがんがん使い、排気ガスで樹木を傷めなければならないのだろうか。どんなに少なく見積もっても、秋の週末の一日で数十トンを遥かに越える排気ガスが富士山に吹き付けられていることになるだろう。富士山では、クルマは排ガスと乱獲者と大量のゴミを連れてくる存在と化しているように見えるのである。残念なことだ。四輪駆動に乗って林道の奥まで行く楽しさもわかるのだが、たまには山の生き物のことも考えてやって欲しい。木から垂れ下がるサルオガセや、木や石に張り付いている地衣類が、クルマの排気ガスにとびきり弱い生物であるということを知っているだろうか。地衣類は菌類と藻類の共生体である。この、きのこの親戚が健全に生育できる環境だからこそ樹木もきのこも健全なのだ。そんな環境に排ガスは無用である。

八王子に愛車「カサ号」が置いてあることもあって、筆者の「きのこさんぽ」はほとんどが「自転車+歩き」である。自転車でのきのこ散歩には実に利点が多い。まず、きのこがよく見える。自転車程度の速度だと、走りながらきのこが見えるのである。それに急に停まっても、クルマのように追突事故など起きようもない。筆者は走行中にきのこを見つけて採集したことが何度もある。ヒラタケ、エノキタケ、アラゲキクラゲなどが結構見えるものである。

それに、きのこ探りが微視的になる。クルマなら一ふかしで通り過ぎてしまうようなところも、入るのがためらわれるような小さな路地などでも、自転車なら見るようになる。きのこはどこに出ているかわからない。何しろ、クルマが停められないようなところで大発見!なんてことがずいぶんあるのだ。株から吹き出しているナラタケを見つけたのも自転車乗車中であった。

そして最後の利点は、乱獲しないということであろうか。自転車のカゴに入るきのこの量などたかが知れている。歩きならなおさらである。後で電車に乗ることも考えれば、一キログラム以上きのこを採集することはほとんどない。山のようなナラタケに出会ったこともあったが、手提げ袋二つだけ頂戴したこともある。たくさん採らないとなると、品質に目が向くようになる。ちょうどうまそうなところだけ厳選して頂くことになる。

こうして、自転車(徒歩)によるきのこさんぽにより発見は増え、乱獲はしなくなり、採集きのこの品質は高くなる。地元を自転車で走れば、土地への愛着も深まることだろう。ますます末永くきのこと戯れたくなる所以である。


(Jan 8, 2001)