ないのにあるきのこ




昔からけっこう鮮明に夢を見る方だった。昆虫少年だった私はカブトをgetした夢を,釣り少年だった私は深山に分け入り山女魚を追い求める夢を,天文少年だった私は流れ星が全天を覆うようなドラマチックな夢を,フルカラー・音声多重で感触ばかりか味まであるリアルな体験として見たものだ。

どうもそれが最近,きのこの夢が多くなった。誰かに採られるんじゃないかと自転車を飛ばし,ようやく到着した貯木場で,一面に出ているヒラタケ。そこにもあそこにも美しく花開いているヒトヨタケの仲間。雑木林を散策しながら巨大なきのこを発見している様。雨のなかを思いついていってみたら吹き出るように出ているきのこ。新しいきのこ場が見つかるのではと,名も知らぬ沢に分け入るとそこには・・・。そんな夢が多くなった。

よくよく振り返ると,それらの夢に共通しているのは,「あったあった!」の感覚である。あるかもしれないし,ないかもしれない。よし,行ってみよう。そして「やったぜ,あったぜ」となるのである。もちろん,覚醒していても同じような気分できのこを採っているのだが,夢だとそれが純化されているような気がするのである。

それで思いついたのだが,どうも私にとってきのこがおもしろい理由の一つは,「ないのにある」ところに求められそうだ。どう見ても古い朽ちた木。何の価値もなさそうだ。けど,9月の雨上がりに行けばここから何か吹き出しているかもしれない。で,行ってみるとやはり何もない。しかし何となく怪しい気がする。それで次の週にもう一度行ってみる。ない。それで忘れたころにまた行ってみる。するとぶきーっと出ている古いヒラタケを発見!うーむ先週行けばよかったー。勘は当たっていたのだ。

この悔しさがまたいいのである。全く気配すらないきのこ。それがわずか数日で地球上のある場所で三次元空間を占拠し,また消えていく。その未確認物体の発生を予測して手中に収める,これがきのこの楽しみなのだ。その三次元姿形が美しく,かつ私の消化管を通過する際に悦楽をもたらすものならばなおさらよい。

そこで私は考えた。忽然とあらわれるきのこの姿をどうやればモニタ上でビビットに再現できるかを。そして完成したのが下の画像である。全くなにもなかったその場所に,確かに空間を占めて存在するきのこ,その存在感が欲しかったのである。







いかがであろうか。この画像の真ん中にハガキなどをおいて目をリラックスさせれば立体視できるだろう。すると,その瞬間にこの風景のなかに入り込み,ぱっと静寂が訪れ,「あそこにあるぞ!」という感覚がよぎらないだろうかー。

この画像のからくりだが,たまたま2枚撮影した画像があったので調べると,アングルがわずかに違っていた。ということはカメラの視線が異なるのだから適当に並べれば立体画像になるはずだから,作ってみたものだ。画像の大きさと中心間距離には複雑な理論があって,視覚と視線に関するフェルマーの最終定理なる方程式を解くと解として出てくるのだがー,というのは嘘で,多くの人の両目の間は6cm程度という単純な事実に基づくものである。だから画像はあまり大きくできない。近くからモニタを長時間眺めるのは電磁波の関係から健康によくないから,見つめるのは短時間にするか,50センチ以上離れて見るか,液晶モニタ・またはプリントアウトしたもので楽しんで欲しい。

(Dec 2, 2001)






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