【高階 杞一】
「春’ing」
今日はお鍋よ
だったらぼくは牛蒡と葱を買いに行こう
そう言って
出ていったまま
もう二十年もあの人は帰ってこない
この頃は
めきめきと
空も
春らしくなってきたし
わたしは
ひとりでもお鍋ぐらいは炊ける
丘の上で
雲といっしょに
トントンって
包丁を動かしているのも楽しいし
明日は
雲雀も入れてみよう
それから
自転車に乗って
街まであの人に
もうすっかり用意ができたことを告げにいこう
・・・詩集「春’ing」より
高階杞一(たかしなきいち)は好きですか?
H氏賞を受賞した「キリンの洗濯」で腹を抱えて笑いましたか?
亡くした子供を歌った「早く家へ帰りたい」で涙しましたか?
「春’ing」は1997年6月に刊行された同名の詩集の表題作です。
夕餉の鍋の材料を買いに行ったまま、二十年も帰ってこない夫に、まるでビートたけしの映画を見るような、得体の知れない黒いユーモアがあります。
突然独りぽっちになった妻にどんな心の葛藤があったのか、二十年たってようやく心に穏やかな春の陽が射してきました。
きっと今は二十年前よりもずっと「いい女」になっているだろうし、本人もそのことを自覚しているでしょう。
だけど、もっと他に人生の選択はなかったのでしょうか?
その答えを、同じ詩集の中に見つけました。
「人生が1時間だとしたら」
人生が1時間だとしたら
春は15分
その間に
正しい箸の持ち方と
自転車の乗り方を覚え
世界中の町の名前と河の名前を覚え
さらに
たくさんの規律や言葉やお別れの仕方を覚え
それから
覚えたての自転車に乗って
どこか遠くの町で
恋をして
ふられて泣くんだ
人生が1時間だとしたら
残りの45分
きっとその
春の楽しかった思い出だけで生きられる
・・・詩集「春’ing」より
なるほど、それも生き方ですね。
残りの45分でジタバタしているのは、春のうちに正しく学ぶことをしなかった人なのかも知れません。
では自分はどうなんだろうと自分に問うてみると、59歳(2009年時点)の今の私は、冬の入り口に立って準備し忘れたものはないかと途方に暮れているのです。
ところで「H氏賞」を受賞した「キリンの洗濯」を皆さんにご紹介するのに、少なからずためらいがあります。
「バッカみたい」と一笑に付されそうで・・・
でもねえ、やっぱり「キリンの洗濯」が高階杞一の出発点なんですよ。
だから、ちょっと覗いてみてください。
「象の鼻」
世界の端っこに
鼻のない象がいて
午後には
おばさんがきて
夜には
君が横にいて
ぼくは
長い長い夢を見る
広い砂漠を
あてどもなく歩いていく夢だ
象の鼻をひきずって
何故こんなものを借りたのか、と
考えながら
・・・詩集「キリンの洗濯」より
いかがでしょうか? 「なんだこりゃ」ですか?
「なんだこりゃ」のついでにもう一つ紹介してしまいましょう。
表題作の「キリンの洗濯」です。
これを読むとたちまち高階ワールドの入り口に立ってしまいます。
「キリンの洗濯」
二日に一度
この部屋で キリンの洗濯をする
キリンは首が長いので
隠しても
ついつい窓からはみでてしまう
折りたためたらいいんだけれど
傘や
月日のように
そうすれば
大家さん
に責められることもない
生き物は飼わないようにって言ったでしょ って
言われ その度に
同じ言い訳ばかりしなくたってすむ
飼ってるんじゃなくて、つまり
やってくるんです
いつも 信じてはくれないけれど
ほんとに やってくるんだ
夜に
どこからか
洗ってくれろ洗ってくれろ
と
眠りかけた僕に
言う
だから
二日に一度はキリンを干して
家を出る
天気のいい日は
遠く離れた職場からでもそのキリンが見える
窓から
洗いたての首を突き出して
じっと
遠い所を見ているキリンが見える
・・・詩集「キリンの洗濯」より
まあ、深く考えない方がいいですね。
長新太の絵のような不思議な世界がそこにある、それでいいじゃないですか。
でもこの世界にハマった私はそれからずっとこの詩人に興味を持ち続け、メールのやり取りまでしてしまうのです。
詩人と私がほぼ同じ年齢ということもあり、世の中の変遷や自身の変遷をどのように詩に残していくのか興味があって。
1993年10月に出した詩集「星に唄おう」で詩人はちょっとした冒険をします。
五十音の平仮名とその濁音と半濁音の各文字から始まる短詩を連作で作りました。
あで始まる詩、いで始まる詩、というように。
でも、ちょっと無理をし過ぎではありませんか? 同じ文字で複数の詩があったって良いし、この文字は詩が思い浮かばなかった、ってことでも構わないと思うのですが。
それからすぐに高階ワールドは急転回をします。
一人息子を病気で亡くしてしまうのです。
1995年11月刊行の詩集「早く家へ帰りたい」は、亡くした子供へのレクイエムとして書かれた詩集です。
読んでいると胸が詰まりそうで、この詩集の中から作品を紹介するのはためらいがあります。
詩人は自分の身に起こった悲しみまでも詩にしてしまうのかと、暗然とした気持ちになります。
でもあえて一編を紹介しましょう。「紙ヒコーキ」と言う詩です。
「紙ヒコーキ」
おまえのいなくなった部屋に
紙ヒコーキがひとつ落ちている
ぼくが催しでもらってきたもの
仕事が一段落したら
公園で飛ばしてやろうと思っていたが
その前に
おまえの方が空高く
いってしまった
休日のよく晴れた午後
外に出て
ひとり公園に行く
楽しげに親子連れが遊んでいる
ボールを蹴ったり
バドミントンをしたり
砂遊びをしたり・・・・・・
ぼくは
持ってこなかった紙ヒコーキを手に持って
思いきり
空に向かって飛ばす
それは高く軌跡を描いて飛んでいく
おまえはよろこぶ
ぼくのとなりで
そうしていつまでも
ふたりでその跡を追っている
・・・詩集「早く家へ帰りたい」より
この詩が野口雨情の「シャボン玉」に似ているのは偶然ではありません。
野口雨情の「シャボン玉」も亡くした子供へのレクイエムだったのです。
ともあれ、そうして悲しみに暮れていた詩人は、冒頭に紹介をした詩集「春’ing」で立ち直りを見せるのですが、1999年4月に刊行した詩集「夜にいっぱいやってくる」では、再び悲しみの世界に入っていきます。
「たんぽぽ」
踏切の向こうで
こどもがうれしそうに手を振っている
パパー、早く
って言うように
そこから動いたらだめだよ
そう言いながら
ぼくは遮断機の上がるのを待っている
警笛は鳴り続け
いっこうに電車は来そうにない
こどもはひとりでうろうろしはじめる
待ち切れず
渡ってしまおうと思った途端電車がやってくる
目の前を黒い車輌がすごいスピードで過ぎていき
過ぎ去ると
もう
こどもの姿は消えている
警笛が止み
遮断機が空に向かってゆっくりと上がる
踏切を渡り
誰もいない野原には
春だけが
ただ
しーんと広がっていて
・・・詩集「夜にいっぱいやってくる」より
これが1999年の高階杞一です。
ここには象の鼻を引きずったり、キリンを洗濯したりするエネルギーが感じられません。
高階杞一の眼には、もう象やキリンの姿は映っていないのでしょうか?
「茫洋」
ハサミで夜を切っていく
菱形、三角、ギザギザ、むちゃくちゃ
そんなふうに
ぼくらも終わった
君の激しい罵りも
今は遠い記憶となった
青空が間抜けのように広がっている
見上げると
関節がぼきぼき鳴るよ
何だか遠いところでぼきぼき鳴るよ
・・・詩集「夜にいっぱいやってくる」より
詩集「夜にいっぱいやってくる」はこの詩で終わっています。
何だか遠いところでぼきぼき鳴っているのは一体何なのか・・・詩人高階杞一の新しい世界がぼきぼき音を鳴らしながらもうすぐそこまでやってきているのかも知れません。
悲しみに沈みこんだ詩人高階杞一ですが、同年11月に詩集「空への質問」を刊行しました。
子供たちを読者のターゲットにしたこの詩集は、未来への希望が多く語られていて、気分を明るくしてくれます。
「鼓動」
誰もまだ来ない
朝の 誰ひとりいない校庭は
しんと
海のように広がって
ぼくは
ひとりで走ったよ
今なら
きっと一着になれる
今ならきっと誰よりも遠くまで飛べる
今ならたぶん 君にも言える
・・・詩集「空への質問」より
少しホッコリしたところで同じ詩集からもう一つ。
「返事」
冬の くもった空へ
手紙を書いた
いいこのなんて
あるのかなあ
つぶやいて
土のポストにいれた
その夜
雪が
降ってきた
遠い 空のはてからの
返事のように
・・・詩集「空への質問」より
2003年8月、4年ぶりに新しい詩集が発売されました。
「ティッシュの鉄人」、このタイトルを聞いただけで「キリンの洗濯」の世界が蘇ったのかと思いました。
しかし本を開いてみると全く違う世界がそこにありました。
言葉は極端に省略されていて、まるで詩人が見た夢の世界を垣間見せられているようでした。
詩集の半分は散文詩です。
こちらのほうが少しは理解しやすいのかと思いきや、言葉が多いぶん余計に分かりにくいものでした。
きっと、詩人高階杞一は大きな転換をしようとしているのでしょう。
次の針路が定まればこの詩集も理解が出来るようになるかも知れません。
2004年9月に砂子屋書房から「高階杞一詩集」が刊行されました。
この自選詩集には、幻の第1詩集「漠」(1980年11月刊行)と第2詩集「さよなら」(1983年8月刊行)が収録されています。
「漠」のほうは残念ながら抄本ですが、「さよなら」のほうは完本です。
詩人高階杞一が「キリンの洗濯」の前にどんな詩を書いていたのか、前々から気になっていたのでとても嬉しい刊行でした。
「漠」と「さよなら」に続く第3詩集がH氏賞を受賞した「キリンの洗濯」(1989年3月刊行)です。
「キリンの洗濯」はもちろん前二作の延長線上にあるのですが、何か違うものを感じます。
うまく表現できないのですが、「キリンの洗濯」はフィルターで何かを漉し取リ去ったような感じでしょうか。
逆にいえば、前二作にはフィルターで漉しとられていないドロドロとしたものがありました。
2005年9月に新しい詩集「桃の花」が発刊されました。
この詩集の中から冒頭の詩を紹介しましょう。
「杜子春」
泰山の南の麓の
桃の花がいちめんに咲いている庭で
杜子春は考えた
まっとうな人間になろう
そうしてまっとうな暮らしをしよう
まずは
妻をめとり
こどもをつくろう
そうして一生懸命仕事をしよう
そう決意して
ハローワークへ行くと
仕事がなかった
今時ああた、そんな条件のいい仕事おまへんで
あきれられ
たっぷりと値踏みをされて
表へ出る
泰山が
はるか遠くにかすんで見えた
・・・詩集「桃の花」より
ふむふむ、そう来ましたか。杜子春がたっぷりと値踏みをされましたか。
さもありなん。そうでなくっちゃ。
また、「桃太郎」という詩では 「いつまでも桃やってんじゃねえ なんてののしられ」 た桃太郎が 「鬼より 人の方がこわい」 と首をすくめます。
どうやら杜子春にも桃太郎にも新たな旅立ちが必要なようです。
それはきっと詩人が自分自身に言い聞かせていることでもあるのでしょう。
微妙に「キリンの洗濯」のころの高階ワールドとは色合いが異なるようですが、私は詩人の新たな旅立ちのお伴をしたくなりましたよ。
2008年9月に刊行された「雲の映る道」では、これまでに示されたいくつもの高階ワールドが混然一体となっています。
なるほど、それもこれもみんな詩人高階杞一なのだということですね。
そして、新たなテーマとして「老い」が現れてきます。
表題作「雲の映る道」はそんな新しい高階ワールドです。
「雲の映る道」
小学校への道は
田んぼの真ん中にあった
そばには小川もあって
そこでよくザリガニをとった
田植えが終わり
水を張った田んぼには
雲が映って
なんだか空を歩いているようだった
田んぼの向こうには
牛が歩いていたり
おにぎりを食べている人がいたりした
カエルもおにぎり食べるのかなあ
しゃがんで
泳ぐのを見ていたら
どこかでぼくを呼ぶ声がする
走らんと遅れるでー
と 遠くで
中村君が手をふっている
そんな道を
今でもときどき歩く
道も田んぼも
とうの昔になくなってしまったけれど
自分が今どこにいるのか
わからなくなった時
目をつぶって
雲の映る田んぼの道を
ゆっくり ゆっくり
帰っていく
・・・詩集「雲の映る道」より
もしかしたら高階ワールドの不条理さを愛したファンには、この詩は物足りないかもしれません。
けれども詩人高階杞一と同年代の私にとってはとても受け入れやすい詩なのです。
詩集「雲の映る道」ではテーマの一つに「老い」が現れましたが、2012年5月に刊行された「いつか別れの日のために」では、「死」が大きなテーマになっています。
思えば、詩集「早く家へ帰りたい」は亡くした子供への悲しみや追慕に満ちていましたが、「死」は本来のテーマではなかったように思います。もちろん「死」がその状況を与えたとしても。
でも、詩集「いつか別れの日のために」では亡くした子供や飼い犬のことを思いながらも、いつかは必ず自分にも訪れる死について戸惑っているように思えます。
それは詩人がこの数年前に大病を患ったこととは無縁ではないでしょうし、還暦を過ぎて干支をひと回りしたことも無関係ではないでしょう。
2014年3月に「千鶴さんの脚」という一風変わった詩集が刊行されました。
それは詩人の四元康祐が撮った写真に高階杞一が詩をつけた連作です。
何の説明も無い一枚の写真から高階杞一がどんな発想を飛ばすのか、なかなか興味深い作品群です。
その中から「絶対孤独」という詩をご紹介します。深夜に撮影された糸杉の林のような、なんだかよく分からない写真に添えられた詩です。
「絶対孤独」
それから何万年かが過ぎ
冷蔵庫のお肉も
卵も
野菜も
みんな溶け去った
そうなる前に食べておけばよかったと
思っている人も
とうぜん
消え去って
ここは
とても静かになった
丁か半か 問う声もなく
草むらに
冷蔵庫は残り
夜になると
その上に
小さな虫のようなものが来て
空を見上げて
消えそうな声で鳴く
コドック・・・
垂れ下がった(お尻のような)空に
声が
はねかえってひびく
・・・詩集「千鶴さんの脚」より
ちなみに、なんだかよく分からない写真には確かに「垂れ下がった(お尻のような)空」が写されていましたよ。
2015年5月に刊行された「水の町」はタイトル通り水にちなんだ作品が多い詩集です。
ご紹介する「帰り道」という詩にも最後に水が登場します。
「帰り道」
行くときは楽しいのに
帰り道は
どうしてこんなにさみしいんだろう
夕暮れの空で
カラスが鳴いていたり
自分の影が長くなっていき
まわりはどんどん暗くなっていく
あちらこちらに明かりがともり
家々から楽しげな声が聞こえてくるのに
自分だけ
まだ帰る家をめざして歩いている
楽しかった家
楽しかった頃の家
そんな
遠い家をめざして
帰って行く
道ばたで
蛙がわんわん鳴いている
そこに水があるんだとわかる
・・・詩集「水の町」より
2017年7月に刊行された「夜とぼくとベンジャミン」は冒頭からお侍さんの詩(そんなジャンルがある?)が4編続きます。
確かに以前の「桃の花」という詩集にも杜子春や桃太郎などが登場したことがありましたが、今回はもっとフツーの詩として。
そのギャップに虚を突かれます。
全般に長い詩が多いので(そんな理由かい?)一番短い詩を紹介します。
「真夜中に」
アイロンが向こうの部屋から語りかけてくる
あなたにもかけてあげましょうか しわくちゃだから
あのアイロン 女の子だったんだと
はじめて気づく
・・・詩集「夜とぼくとベンジャミン」より
2019年5月に共詩「空から帽子が降ってくる」が刊行されました。
「共詩」とは聞きなれない言葉ですが、一つの詩を高階杞一と松下育男という二人の詩人が共同で作ったものだそうです。
では、どうやって作るのか? 一人が数行書いたらそれを相手にメールで送り、受け取った詩人がその続きを書き、また送り返す。
そうしたやり取りを何度も行なって一編の詩を作り上げるのだそうです。
つまりそれは「連作」でもないし「補作」でもないし「添削」でもない。自分の作品であって自分の作品ではないのです。
本人は後書きで「意外な展開を見せて面白かった」と述懐していますが、読者としては戸惑うばかりです。
「一体誰の詩を読んでいるんだろう」という違和感が、この詩集を読んでいるあいだ中ずっと付きまとっていました。
詩集は2019年に発刊されましたが、作品自体は2010年から2011年にかけて作られたものだそうです。