【大木 実】
「雨の田舎町」
雨に濡れ
雨に昏れた家家に燈がともった
家家のうしろを川がながれていた
その川のうえにも雨は降っていた
川の向うにも
知らぬ町町はつづいていた
その町町の燈もけむっていた
・・・詩集「屋根」より
朝から降り続いた雨が、夕暮れになってもまだやみそうにありません。
鉄橋の上から見た田舎町は、しとどに濡れてうずくまっています。
黒く光る屋根の向こうに川の流れる音がしています。
その川の向こうにも屋根が続き、煙雨の中に溶け込んでいます。
鉄橋の上に佇む詩人の眼には何が映っているのでしょう。
普通の言葉で書かれた普通の情景、それが大木実の詩の世界です。
現代詩が、ともすれば言葉の実験に走りがちな中にあって、普通の言葉で人々に感動を与えることの素晴らしさを大木実は教えてくれます。
大木実は決してメジャーな詩人ではありません。
大宮市役所に勤めながらの詩人の生活は、貧乏と病気に苦しんだ人生でもありました。
それだけに、大木実の詩は淡々とした静けさに満ち溢れているのです。
「曇つた日の夕方」
夕方は
どこの道をいつても
街の騒音が響いてゐる
どの路地をまがつて見ても
おなじやうな家がならび
煮物の匂ひがして
暮らし疲れた人達の帰りを待つてゐる
さうして曇つた日の夕方は
家々の障子もすすけて見え
灯りのこないひとときが
さびしく人々の心に沁みてゐる。
夕方の道は
何所まで続いてゐるのだらう。
・・・詩集「場末の子」より
この詩は大木実の第1詩集「場末の子」に収録されています。およそ二十歳ごろに書かれた詩です。
ちょっと読みにくいかも知れませんが、あえて旧仮名遣いのまま転記しました。
あなたがもしも見知らぬ町の夕方の道をあてどなく歩くことがあれば、家々の夕餉の支度のざわめきと匂いとをどのように感じ取っていたでしょう。
一日の勤めを終えて家に帰ってくるお父さんの顔から疲労の色がみるみる消えていくのを想像するかもしれません。
それがもしも曇った日の夕方であったならどうでしょう。
同じ情景なのに、つい肩をつぼめたくなるような重苦しさを感じるかもしれません。
大木実は晩年になって、既刊の12冊の詩集から各1編を選んで「うばぐるま」という選詩集を出版しました。
その際に詩人が第1詩集「場末の子」の中から選んだ一編はこの詩でした。
「屋根」
日暮らしの勤めに疲れ
帰っていくわたしを待つものは母ではなかった
ひとつの室(へや)であり
暗くなれば点るあかりであった
わたしにも
ひとつの明りがあたへられ
ゆふぞらに端座する屋根がわたしを迎へてくれた
過ぎてしまった二十八年といふ月日
なにごともなく
母もなく
寂しく貧しいあけ暮れであった
屋根をたたいて雨は降り 風はしづかに吹き過ぎていった
わたしはいつからか
わたしの暮らしのうへに在る
屋根といふものに深い信頼を寄せはじめていた
・・・詩集「屋根」より
この詩は大木実の第2詩集「屋根」の巻頭に載せられています。
28才の若者にしては寂しすぎる情景ですが、そこには次第に築き上げつつある自分自身の暮らしが見えようとしています。
詩人が築いた屋根の下で、やがて妻をめとり、子供を育て、家族が安心して暮らせる場所が出来ていくのです。
私には、ブランド品で身を包み無目的に都会をさまよう人々よりも、こうして一歩ずつ自分の生活を築き上げていく若者にこそ共感を覚えます。
「秋の貌」
秋は夜店のなかを歩いていた
物売るひとのうしろに佇んだり
のぞいて歩く子供たちの瞳のなかや
すれ違う少女の袂にかくれたりした
秋田の八月の宵宵
空には星が美しく 風がないのに町は涼しかった
裏通にある氷屋で飲んだソーダ水
そのストロウのなかにも秋はいた
・・・詩集「故郷」より
「秋の貌(かお)」と題されたこの詩は、大木実が若い頃に東北地方を旅したときに生まれました。
秋田の田舎町で偶然に出会った夏祭り。
夏の季節が短い北国の町で、詩人は確かに秋の訪れを肌で感じたのでしょう。
この詩は、高村光太郎から『才気の目立つ作』という高い評価を受けていますが、大木実には概して才気走った作品は少なく、ただ淡々とこの国の市井の情景を書き綴っています。
高村光太郎はそんな大木実の詩の世界を『今の世にこれほど素直な、ありのままの詩を見るのは珍しい』『こういう詩を何と品類していいのか私には分からない。けれども読むと打たれる』と評しています。
「旅の町」
訪ねた寺は門をとざしていた
ゆう日があわくあたっていた
くすり屋でくすりを買い
それから絵葉書をひと組買った
宿のゆうげを思いながら電車に乗った
・・・詩集「路地の井戸」より
「旅の町」も大木実の旅先で生まれた詩です。
この詩を読んだとき、私はなんだか自分が書いた日記のような心持ちになりました。
若かったころ、学生だった頃の一人旅を思い出しました。
何の計画も無く、その夜の宿すら予約せず、ただ国鉄の周遊券だけを手にして京都や山陰地方などを彷徨いました。
訪ねた寺がもう拝観時刻が過ぎていたり、休館日の美術館の前で茫然と佇んだこともしばしばでした。
なぜか翌日に再訪しようという気が起らず、私にとってそうしたお寺や美術館は門が閉ざされたままの印象です。
私と同じ様に、この詩と自分の体験とを重ね合わせている大木実ファンは大勢いるのではないでしょうか。
「花のいのち」
花はあけがたの
どういう時刻にひらくのだろう
井戸の近く 朝あさ咲いて
水を汲むたびあざやかなすがたにひかれる
けさ ぼくは早起きをした
かたわらに立ち あけがたひらく
花のひみつを知ろうとおもった
空にはまだ星があった
そしたら母に呼ばれた
家にはいって急いでもどった
その短いあいだに いつものように
花はあざやかにひらいてぼくを待っていた
・・・詩集「未来」より
「花のいのち」は子供の頃の思い出です。
皆さんにも似たような思い出があるでしょう?
この詩が初出された「路地の井戸」という詩集の時は、最後の2行がこんな風になっていました。
その短い時刻に
つぼみは花となって 僕を待っていた
どちらがよいかは私には分かりません。(どちらも素敵ですね)
詩集「未来」は初出とほぼ同じ時期に出版された子供向けの自選詩集です。
子供向けということで表現を変えたのでしょうか、それとも二ヶ月のタイムラグの間に推敲したのでしょうか。
大木実の詩はこんな風に掲載のたびに変化していくことがよくあります。
さて、単純に喜び、純粋に悲しむことのできた子供時代の思い出を、大木実は他にもたくさんの詩に書いています。
次にご紹介する「猿蟹合戦」も、幼い日の弟との思い出です。
「猿蟹合戦」
柿の木のしたに 弟はいる
柿の木を仰ぎ
「早くおくれよ」と
繰返しながら
柿の木の枝に兄はいる
兄は柿の実を食べている
ふところに
赤い柿の実がのぞいている
「早くおくれよ」
その声は泣き声になる
「ほうれ やるぞ」
兄はひとつを投げてやる
嬉しそうに駆けだしたそのときの弟の姿よ
そして拾いとり兄を仰いだそのときの悲しい眼よ
――弟よ
いちばん小さい いちばん色のわるい実を投げた
私は猿蟹合戦の猿のように賢く意地悪い兄であった
・・・詩集「初雪」より
人生の喜びも悲しみも淡々と受け止めていく大木実ですが、戦争の思い出は辛いものがあったようです。
特に新婚3ヶ月目の召集とあればなおさらのことだったでしょう。
復員間もない頃に出した詩集のなかに当時の心情が歌われています。
「初雪」
十二月九日
小雪が降った
ことしは六日早かった
私は去年の日記を読んでいた
十三日 妻病む
十四日 終日風強く寒し
十五日 初雪降る 積らず
十六日 妻入院す
十七日 召集令状を受く 夕方ひとり飲む
十八日 妻を見舞う 告げず
十九日 告げず
――
――
私達は家をもち三月と経っていなかった
ままごとのように短く
儚い私達のくらしであったが
私は感謝する 眼を閉じて
私は感謝する
初雪は
今年も僅か降り
積らず消えた
・・・詩集「初雪」より
召集令状を受けた日に、詩人は一人で静かに酒を飲みました。
飲みながら、どんな思いが頭の中を巡ったのでしょうか。
翌日、入院中の妻を見舞った詩人は、召集令状のことを話しませんでした。
いや、話せませんでした。
次の日も、やはり話せませんでした。
一年の後、生き延びて復員した詩人の中に、戦争への怒りや恨みはありません。
今年も初雪を見られたことに、ただ感謝をするのみです。
ところで、病の床にある新妻に召集のことを話せなかった詩人はその後どうしたのか、読者としては気になるところです。
その詩も同じ詩集の中にあります。
「落葉」
薄日のなかを
輝きながら いてふの葉が散る
こんな日だつた
何も知らないで妻が帰つてきたのは
妻はめづらしさうに
家具に触つたり
幾度も立つたり座つたりした
病ひにやつれて目ばかり大きかつた
こころさだめて私は告げた
別れを 征く朝を――
それから二年経つ
そして三度めの冬がくる
ものみな枯れて
薄日のなか
いてうの落葉を手にとれば
あの日の妻の目が浮ぶ
・・・詩集「初雪」より
詩中の「いてふ」は「いちょう」と読みます。
他にも文語体で書かれている箇所がありますが、すべてオリジナルのままとしました。
ただし、現在では存在しない漢字や読み方が違う漢字がいくつかあり、それらは今の漢字にあてはめて転載しました。
昔の詩を紹介する時にいつも悩ましく思うところです。
さて、大木実は2度の召集を受けています。
二度目の召集で、敗戦の日をサイゴンで迎えた詩人は、翌年の春にようやく日本に戻りました。
日本に戻り着いた詩人の目に飛び込んだのは満開の桜でした。
「日本のさくら」
もういちど はじめから
やり直そう
そう思った
さくらの花を仰ぎながら
ボロの復員服を着て
ボロの靴をはき
南方帰りのぼくに
日本の春は寒かった
さくらの花だけが鮮やかだった
家もなく
金もないが
いのちがある
もういちど そう思った
あのときぼくは三十だった
あの年のさくらのように
さくらはことしも美しい
ゆめのように
希望のように
梢に高く咲いている
・・・詩集「蝉」より
本などに著者が署名をする際に、数行の言葉をを添えることがあります。
「識語」と言って大概はその本の中から数行を選ぶのですが、詩人はそんなときにこの詩の最後の三行「ゆめのように 希望のように 梢に高く咲いている」という文言を書くことがしばしばでした。
よほど気に入った文言なのか、あるいは日本に戻り着いた時の思いをずっと忘れたくなかったのでしょう。
そう言えば、戦争が終わって復員した時の情景を綴った詩があります。
「思い出」という詩です。
こんなふうに終戦を語った詩を、私は他に知りません。
「思い出」
海田市という駅に
汽車が停ったとき
見知らぬ娘さん達が茶の接待をしてくれた
短かい停車の時間だった
うごきだした窓にむかって
頭をさげて娘さん達が言った
「御苦労さまでした」
―――
急におれの眼頭が熱くなった
故国に還って
郷里まで
一昼夜の汽車の旅
何十という大小の駅に 汽車は停ったが
こころのこもったあんな優しい挨拶を受けたのは
最初で最後だった
・・・詩集「路地の井戸」より
この時の「ごくろうさまでした」という声のイントネーションはどんなだったでしょうか?
いまどきの、マニュアル通りに声を揃えて大声で言う「ありがとうございました」とは明らかに異なる、本当に心のこもったものだったのでしょう。
詩人の目頭を熱くさせたのですから。
次に紹介する詩は最近買った詩集の中の一篇です。
最近買った、と言っても、その「夢の跡」という詩集が発行されたのは昭和22年です。
ずっと読みたいと思っていたけれど、選詩集に収められているのはその中の僅かな詩篇だけでした。
今回ようやく望みがかない、全ての詩に接することが出来ました。
ここに紹介する詩も、そうして埋もれていた詩の一つです。
「フライパン」
欲しがる妻に
フライパンを買ってやった
妻は子供のやうに喜び
幾度も幾度もありがたうを言った
寒い風が吹いていた 根津の通りで
四円二十銭で買ったフライパン
あのころのわたし達は
いまより貧しく いまより若かった
そのフライパンは
いまでも妻が使っている
そのフライパンでわたしの好きな
フィッシュフライをつくってくれる
・・・詩集「夢の跡」より
大木実が奥さまについて書かれた詩はどれも珠玉の作品です。
今、本屋で買える大木実の詩集は、思潮社の現代詩文庫1041「大木実詩集」か、童話屋から出ている「きみが好きだよ」くらいなものでしょう。
どちらも選詩集ですが、「きみが好きだよ」のほうは若い編者が大木実の「妻」という詩に感激をして出版を決めたそうで、奥さまをはじめとするご家族への深い愛情をつづった詩で構成されています。
次に紹介する詩は「きみが好きだよ」には収録されていませんが、長く連れ添った老夫婦の機微がとても愉快な詩です。
ちなみに、この詩を私の古女房に読ませたら「フフッ」と笑って、特に感想は述べませんでした。
「夫婦」
――動物園へ行ってみない
夕食のあと お茶を飲みながら
妻が言った
何を言いだすのかと思ったら――
夕刊を読みながら 私は
黙っていた
子どもが小さかった頃 子どもを連れて
動物園へは二度行った
二度とも妻は家に残っていた
どんな思い出を 動物園に
妻はもっているのだろう
私の知らない 私に言わない――
――行ってみようか
こんどは妻が返事をしなかった
黙っていた
・・・詩集「蝉」より
大木実は1913年(大正2年)の生まれですから「男は山へしば刈りに、女は川へ洗濯に」という男女分業の意識が強く、奥さまの買物の手伝いをすることも余り無かったようです。
それが年を経て時代も変わり、奥さまの体調が悪い時などは代わりに買い物にも行くようになりました。
こんな微笑ましい詩も残しています。
「買物」
原稿用紙を一包み
本を数冊
楽しい買物は
手にさげて
快よい重さだ
このごろは
足のわるい
家内にかわって
魚を買ったり トマトを
買いにいったりする
――僕は食パン一斤も買えます
と言ったら
――あたりまえです そんなこと
女友達に笑われた
・・・詩集「七十の夏」より
この「七十の夏」という詩集は大木実が72歳の時に地方出版社から105冊限定で発行された大変に希少な本です。
同じころに出版された「蝉」という限定158冊の詩集が比較的すんなりと手に入ったので「この本も自分が70歳になるまでには手に入るだろう」とタカをくくっていたのですが、それから10年以上も探し続けて私も70歳を超えて諦めかけた時にようやく入手できました。
この詩集の題名になっている「七十の夏」という詩の最終2節をご紹介します。
「七十の夏」より最終2節
人は死ぬ
いつか誰も死んでゆく
そのいつかは 僕はいつ?
父は七十の夏死んだ
七十の夏 ことしの夏を
僕は生きている
・・・詩集「七十の夏」より
大木実はこの詩集のあとさらに3冊の詩集を出し、1996年に82歳の生涯を終えました。
没後にも遺稿集としてもう一冊詩集が発行されていて、全部で16冊の詩集と10冊ほどの選詩集や子供向けの本などを遺しました。
大木実が70歳の時に「大木実全詩集」という750頁に及ぶ大部の自選詩集を出しました。
その後記として大木実は自伝風の詩を書いています。
「後記一」
大正のはじめ
東京本所の
場末の町で
生まれ
父は電気工夫
母は農家の娘
路地で遊び
貧しく育ち
学び
働き
文学へあこがれ
恋愛し
結婚し
戦争へゆき
生きて還って
埼玉に住み
市役所へ勤め
病気し
貧乏し
詩を書いて五十年
詩集十冊あまり
特記事項
無し
・・・「大木実全詩集」より
最後の「特記事項 無し」というところがいかにも大木実らしくって・・・。