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製作 | 1962年 ・ アメリカ映画(コロムビア映画製作) |
監督 | デビッド・リーン | |
出演 | ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、アンソニー・クイン、オマー・シャリフ | |
原題 | LAWRENCE OF ARABIA | |
栄誉 | アカデミー賞(受賞):作品賞、監督賞、撮影賞、編集賞、作曲賞、美術賞、音響賞 アカデミー賞(候補):主演男優賞(ピーター・オトゥール)、助演男優賞(オマー・シャリフ)、脚色賞 | |
上映時間 | 207分 | |
私の評価 | 10点 |
「アラビアのロレンス」は洋画・邦画を通して私のベスト・ムービーです。 途中の休憩をはさんで3時間半に及ぶ長い映画ですが、その長さをいささかも感じさせません。 製作されたのは今から60年も前の1962年ですが、当時はCGなどが存在しない時代、灼熱の砂漠のシーンもアカバを攻撃するモッブシーンもすべて実写で行なわれました。 それは大変に苦労の多い撮影だったと思われますが、もしも今この規模の映画を製作するとなれば相当部分をCGに頼ることになるでしょう。その結果、空疎で味気ない映画ができてしまうと思いますが、そうした意味でも、この映画はCGに頼らなかった時代のしかも大作主義が認められた時代の、つまりハリウッド映画の全盛期に作られたモニュメント的な作品だと言っても過言ではないと思います。 製作者のサム・スピーゲルと監督のデビッド・リーンのコンビはこの映画の前に作った「戦場にかける橋」で作品的にも興行的にも大成功を収めました。その黄金コンビが作り上げた映画は前作のジャングルとは対照的に砂漠の中で繰り広げられる男のドラマでした。 「アラビアのロレンス」は当時のハリウッド大作映画の中にあって異色の存在です。何故なら主演のピーター・オトゥールは当時は無名のシェークスピア役者だし、彼を含めて出演者は男性ばかり、なんと女優は一人も登場しないのです。当然ラブシーンも無く、さらには主人公のT.E.ロレンスは大して有名人でも英雄でもない。すなわちハリウッド的には興行的にヒットする要素が無かったのです。 当初、サム・スピーゲルとデビッド・リーンはインドの英雄マハトマ・ガンジーの生涯を映画化するつもりでインドでその準備をしていましたが、ロレンスの自伝「知恵の七柱」の映画化権を手に入れたスピーゲルが電撃的に次回作を「アラビアのロレンス」に決めたそうです。 ロレンスはイギリス人にありがちなプライドが高く、孤高で、一人よがりなところのある青年将校です。そしてこれもイギリス人らしく進取の精神と好奇心に満ちていて、誰もが敬遠するアラビアの地に挑戦するのです。 彼はアラブ民族が部族ごとに独立し対立していて、その結果トルコ帝国などの列強諸国の食い物になっていることに心を痛めており、これを何とかアラブ民族として結束させようと奮闘します。 そんな高い志を持ったイギリスの青年将校を、当のアラブ人たちはやや懐疑的にその言動を見守ります。 英雄的な働きをしたお礼にと部族の民族衣装をもらってアラブ人の一員になれたと喜ぶロレンスに対し、表面的にはロレンスを持ち上げても心の奥底への侵入を許さないしたたかなアラブ人たちとの間に徐々に隙間風が吹いてきます。 テロ行為として列車を爆破しても、戦利品を奪ったらさっさと故郷に帰ってしまうアラブ人たちや、せっかく町を占領してもその町をまともに運営しようとしないアラブ人たちの現実に、ロレンスの心は次第に崩れていきます。 最後はファイサル王子から「もうここに戦士の仕事は無い。残るは交渉だけ 我々老人の仕事だ」と引導を渡されてしまいます。 「ダマスカスの英雄」「アカバの解放者」などと称賛されたロレンスも、最後は愛するアラビア半島に居場所をなくしてしまうのでした。 私の評価としては、10点満点です。最高峰の映画です。 【ロレンスの心情が垣間見えるシーン】 新聞記者「ロレンス少佐、あなたを砂漠に引き付けているのは何ですか?」 ロレンス「清潔だから」 「It's Clean.」この言葉は当時のロレンスの心情をよく表しています。 クリーンなのは砂漠だけでなく、そこに住むアラブ人たちもさしていたに違いありません。 しかし現実はその砂漠にも裏切られ、したたかなアラブ人たちにも裏切られてしまうのです。 【難解な原作】 この映画の原作はロレンス自身による自伝「知恵の七柱」です。 この本は日本語にも翻訳されていたため私も読んでみましたが、あまりにも難解な内容のため途中で放棄。 「よくこんな本からあの傑作映画の脚本が書けるな」と感心していたら、参考図書として他の人が書いたロレンスの伝記本が20冊くらい列挙されていました。 ちなみに、脚本を書いたのはデビッド・リーン監督とのコンビで、本作と「ドクトル・ジバゴ」と「ライアンの娘」を手掛けたロバート・ボルト。 彼は他に「わが命つきるとも」と「ミッション」の脚本を書いていますが両作品とも退屈な映画です。 してみるとやはりデビッド・リーン監督の演出力がすごいということなのでしょうね。 【主演男優】 この複雑な性格を持ったイギリス人将校を演じたのは映画界では当時無名だったピーター・オトゥールでした。 しかし映画界では無名でも演劇の世界ではすでにメジャーで、シェイクスピアの生まれ故郷であるストラッドフォード・アポン・エイボンにあるシェイクスピア劇場でいくつものシェイクスピア劇の主役を演じていたのです。 この当時のハリウッド超大作は主演俳優に大スターを起用することが常態化していて、エリザベス・テイラーのクレオパトラなど相当に無理なキャスティングもありました。チャールトン・ヘストンにいたってはベン・ハーは名演としても、モーゼ(十戎)やら洗礼者ヨハネ(偉大な生涯の物語)やらミケランジェロ(華麗なる激情)など手当たり次第にあらゆる役をこなしていました。 そうした風潮の中にあってハリウッドでは全く無名のシェイクスピア役者が起用されたわけですから本人も大変なプレッシャーだったと思います。しかし、ピーター・オトゥールは見事にその期待に応えてこの複雑な人物像を演じ切りました。 世界中の映画ファンがその演技力を絶賛し、アカデミー主演男優賞の大本命と言われていましたが、受賞したのはグレゴリー・ペックでした。 グレゴリー・ペックが出演した「アラバマ物語」は良い映画ですが、グレゴリー・ペックの演技は凡庸でした。おそらく彼の受賞は過去に何度もノミネートされては受賞を逃してきたことへの同情票だったのでしょう。アカデミー賞ってそんなところがあります。 新人であるがゆえに割を食ってしまったピーター・オトゥールには気の毒な話ですが、それでケチが付いたのか、ピーター・オトゥール自身もその後の映画出演で何度もアカデミー賞にノミネートされますが受賞に至らず、2002年にそれこそ同情票というべきアカデミー名誉賞を贈られています。 【音楽監督】 この映画で大変に勇壮で印象深い音楽を作曲したのは後に映画音楽界の巨匠と謳われるモーリス・ジャールです。 この時まだ30代だった新進気鋭の作曲家は、既に舞台音楽やオペラの作曲家としていくつもの賞を受賞していましたが、映画音楽の世界でも本作と同じ年に「史上最大の作戦」と「シベールの日曜日」の作曲を担当しており、まさに映画音楽界への本格的なデビューの年だったのです。 しかし、そもそもこの映画の音楽監督として起用されていたのは「サウンド・オブ・ミュージック」や「王様と私」などのミュージカルで有名なリチャード・ロジャースでした。 ところが彼が書いてきた楽曲はアイルランド民謡風の曲で映画の雰囲気とは全く合わず降板、急遽交代したのが前作「戦場にかける橋」でアカデミー作曲賞を受賞したマルコム・アーノルドでしたが、彼はてっきりアラビアを舞台とした観光映画だと勘違いしていたことが分かり、これも降板。その他にもクラシック界のハチャトリアンやベンジャミン・ブリテン、ウィリアム・ウォルトンなどにも依頼がありましたが、いずれも事情があって実現せず、最終的にお鉢が回ってきたのがモーリス・ジャールだったのです。 そんな事情があって時間的な余裕が無くなり、僅か6週間で大部分の曲を作曲したそうですから、モーリス・ジャール自身の言葉を借りれば「5時間仕事しては20分寝て、5時間仕事しては20分寝てという生活だった」という状態だったようです。 それでもこうして完成した作品で彼はアカデミー作曲賞を受賞するのですから、まさにこの映画との出会いは彼にとって宿命だったのでしょうね。 その後のモーリス・ジャールの活躍は皆さんご存知の通りです。 【映画のパンフレット】 当時の一般的な映画パンフレットはA4サイズのものが多く、内容的には映画フィルムから切り出した画像や配給会社が提供した制作ノートのエピソードなどが適当に配置されていました。 ところが「アラビアのロレンス」のパンフレットはそれらとは一線を画す立派なものでした。 通常よりも2回りほど大きいそのパンフレットは、プロが装幀したらしく文字や写真の配置がバランス良く、デザイン的に美しいもので、使用されている画像も文章も大変に格調が高く、必要にして十分な内容でした。 画像の内の2枚は別個に印刷したものをパンフレットに貼り付けるという凝りようですし、さらに四角い穴が開いているページが2か所あり、その一つからは次のページのロレンスの目の部分が見えます。そしてもう一つのページの穴からは夕陽と3頭のラクダが見えますが、ページをめくるとそれが雄大な砂漠の一場面であることが分かる、という仕掛けになっているのです。 私はこの映画を見た有楽座からの帰り道、電車の中でこの美しいパンフレットを汚さないようにとしっかりと胸に抱えていたことを今でも覚えています。 その当時私は12歳の多感な少年でした。 【完全版】 1962年にプレミアム公開された時の上映時間は222分でしたが、一般公開された時は劇場での上映効率を考えて207分にカットされていました。 それから四半世紀経った1988年にそれを元の長さに戻す計画が起こり、未だ存命だったデビッド・リーン監督や編集者のアン・コーツらが呼ばれて大々的な修復作業が行われました。 復活したシーンで音声が残っていない部分はピーター・オトゥールらのオリジナル出演者を呼んで再度録音し、声の質が変わってしまったところはコンピューターで補正して違和感がないようにしたそうです。 その他細かい部分の修正が入り、最終的に227分の完全版が出来上がりました。 また、それに合わせて音楽の方も修正が入り、モーリス・ジャールが新しい曲を書いたり録音をし直した個所も多くあったそうです。 この修復作業はスティーブン・スピルバーグやマーチン・スコセッシ監督らのバックアップで行なわれたそうです。 (2021.07記) |