【月と胡桃】


 出版社:梓書房
 発行日:昭和4年6月


 「月と胡桃」

 月のひかりが窓に来て、
 町のひびきをつたへます。
 
 僕は胡桃(くるみ)をコツコツと、
 小さい木槌でたたきます。
 
 胡桃の花は青いんだ、
 ね、さうですね、お母さん。
 
 僕知ってるよ。函館の
 図書館の前にあったでしょ。
 
 石川啄木って、父さんが
 お友だちだといひました。
 
 え、死んだって、小母さんも、
 家(うち)にお写真ありますか。
 
 あ、お母さん、煙突に
 月の光が照ってます。


 白秋の数ある童謡集の中で、最も品格の高い童謡集をご紹介しましょう。
 「詩としての香気と品位とを以てした高級童謡を主として集めた」と白秋自身が記しているように、他の童謡集のような挿し絵もなく、本の体裁も堂々としています。
 まあ、たかが童謡なのだからそれほどに肩を張らなくても良いような気もするのですが。
 最初にご紹介をした「月と胡桃」は本の表題にもなった作品ですが、何よりも昭和のはじめにはこんなピュアな子供たちがいたのかと感心をしてしまいます。
 勉強やいじめでクタクタの現代の子供たちとは瞳の澄み具合が違うように思えてなりません。


 「この道」

 この道はいつか来た道、
    ああ、さうだよ、
 あかしやの花が咲いてる。
 
 あの丘はいつか見た丘、
    ああ、さうだよ、
 ほら、白い時計台だよ。
 
 この道はいつか来た道、
    ああ、さうだよ、
 お母さまと馬車で行ったよ。
 
 あの雲はいつか見た雲、
    ああ、さうだよ、
 山査子(さんざし)の枝も垂れてる。


 懐かしい童謡ですね。
 子供のころにさんざん歌って、私の体の中にすっかり溶け込んでいる童謡です。
 なぜ白秋を、と問われたら、私はためらうことなくこの歌や「からたちの花」や「ペチカ」などを歌うことでしょう。
 これらの童謡が幼年時代の私の物の見方に大きな影響を与えたことは間違いありません。


 「海の向う」

 さんごじゅの花が咲いたら、
 咲いたらといつか思った、
 さんごじゅの花が咲いたよ。
 
 あの島へ漕いで行(ゆ)けたら、
 行けたらといつか思った、
 その島にけふは来てるよ。
 
 あの白帆どこへ行くだろ、
 あの小鳥どこへゆくだろ、
 あの空はどこになるだろ。
 
 行きたいな、あんな遠くへ、
 あの海の空の向うへ、
 今度こそ遠く行こうよ。
 

 そうですよね、子供のころは、空の向こう、海の向こう、山の向こうに何があるのだろうかと真剣に憧れていたものでした。
 長じて海外旅行が好きになったのは、その頃の憧れが尾を引いているのかも知れません。
 白秋はこうした心の奥底にある揺らぎを表現するのが上手ですね。
 次にご紹介する童謡は、白秋の詩人としての感性が存分に現れています。
 こうした繊細な表現こそ白秋の真骨頂です。


 「白いもの」

 月の中から飛んでくる
 白い小鳥を見ましたか。
 
 花の中から咲いてくる
 白いにほひを見ましたか。
 
 水の中から湧いてくる
 白い狭霧(さきり)を見ましたか。
 
 歌の中から澄んでくる
 白いひびきを見ましたか。
 
 夢の中からさめてくる
 白い光を見ましたか。
 
 かはいい嬢さん、泣いたとき
 白い小鳥を見ましたか。
 

 あなたはどうですか? こうした白いものを見たことがありますか?
 私はそうですね、残念ながら見なかった気がします。
 どうして白秋には見えて、私には見えなかったのでしょう?
 あるいは、もっと年をとったら見えてくるのでしょうか?


 「月の中から来る人」

 月の中から来る人は
 びいどろ帽子 氷ぐつ。
 
 白いつめたいマントには
 雪がいっぱい、こなの雪。
 
 月の中から来る人は
 白鷺(しらさぎ)のよに寒いひと。
 
 さうら、来た来た、お窓から。
 夜なかにピアノがぽんと鳴る。
 

 確かに夜中にポンと鳴るんだよね、ピアノって。
 そうか、そうだったのか、あれはそうだったのか。
 月の中から来る人のことなど信じなくても良いけれど、何でも科学的に解明できるなどと思わない方が良いのですね。
 (・・・どうしてそんなことがこの年になってようやく理解できるのだろう?)
(2011/2/22記)