【ハリー・ベラフォンテ物語】


 ハリー・ベラフォンテは本名をハロルド・ジョージ・ベラフォンテJrと言い、1927年3月1日にニューヨーク市ハーレム地区で誕生しました。
 両親は共に西インド諸島の出身で、母親のメルヴィン・ラヴがイギリス領ジャマイカ、父親のハロルド・ジョージSrはフランス領マルチニーク島の出身です。
 一家はハリーが8才になるとジャマイカに移り住み、彼が13才になるまでそこで暮らしました。
 ハリーが後にカリプソ音楽で一世を風靡したことを考えると、この5年間のジャマイカ時代がその後の彼の生涯に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。
 一家は、やがてニューヨークに戻り、ハリーはハーレムの教会付属学校から、ジョージ・ワシントン・ハイスクールに進学します。
 子どもの頃のハリーはとても負けず嫌いで、しばしば白人の子とけんかをしたそうです。
 『路上での格闘の傷跡は今でも残っていますよ。だけど心に受けた傷の方がずっと深いものでした』と彼はその頃のことを述懐しています。
 人種偏見に対する怒りは、ハリーの心に深く刻みつけられました。
 彼自身の問題としても、白っぽい肌の弟を溺愛する父に対する怒りと、弟への嫉妬という心の葛藤もあったのです。

[ 1944, Age 17 ]
 さて、せっかく入ったハイスクールですが、彼は2年で中退し、海兵隊に志願しました。
 軍隊の中なら人種間のいざこざも少ないだろうというのが、主な動機だったようです。
 第2次世界大戦中のこと、ハリーが17歳の時でした。

[ 1946, Age 19 ]
 結局ハリーは米国内での訓練を繰り返しただけで、前線には出陣しないまま太平洋岸で終戦を迎え、入隊してから2年足らずで軍隊を除隊して再びニューヨークに帰ってきました。
 そのころはまだ生涯の進路をきめておらず、スポーツ選手になろうかという気持もあったようです。
 そんなある時、ホテルのメンテナンス・マン(修理屋)として働いていたハリーは、チップとして二枚の切符をもらいました。
 それはアメリカン・ニグロ・シアターの『狩人の家』というお芝居の切符でしたが、それがきっかけで、ハリーは演劇に関心を抱くようになりました。
 さっそく除隊の時にもらったお金でアメリカン・ニグロ・シアターの研究生となり、かたわらErwin Piscatorが主宰する『ドラマティック・ワークショップ(Dramatic Workshop)』へレッスンに通いました。
 やがてリー・ストラスバークが主宰する有名な『アクターズ・スタジオ』に通うようになりましたが、ここでの仲間に、マーロン・ブランド、トニー・カーティス、シドニー・ポワチエなどがおりました。
 ハリーは演劇修行に熱中するとともに知識欲も旺盛になり、子供のときは勉強ぎらいだった彼が、手当り次第に本を読みあさるようになりました。
 そのころのハリーは歌にはほとんど興味をもっていませんでした。
 ところが、たまたまある芝居の中で歌をうたう役を振りあてられ『リーン・オン・ミー』という歌をうたったことがありました。
 その芝居の観客の中に偶然、モンティ・ケイという男がいたのです。
 モンティ・ケイは後にジャズ界有数の名マネージャーになった男で、日本にアート・ブレイキーやMJQを送り込んだのもこの人です。
 当時はショウの演出家を志望する一青年にすぎなかったモンティ・ケイですが、さすがに芝居の中でのハリーの歌を聞いただけで、彼の歌の才能を見抜いたのでした。

[ 1948, Age 21 ]
 ハリーは1948年6月18日に最初の妻である、小児精神医のマルガリート(Marguerite Boyd)と結婚しました。
 この時、ハリーはまだ21才の若さでした。

[ 1949, Age 22 ]
 モンティ・ケイがハリーの歌に関心を持ってから2〜3年経った1949年の1月のことです。
 ハリーは相かわらず演劇に精進していましたが、なかなか芽が出ず、食って行くのに苦労していました。
 実はまもなく子供が生まれる予定だったのです。(やがて5月に長女のAdrienneが誕生)
 前途の見込みもつかず、さすがのハリーも少々参っていました。
 当時のハリーは週給48ドルで、倉庫でカートを押す仕事についていたのです。
 そんなある日、モンティ・ケイから手紙が来ました。
 モンティ・ケイは今度『ロイヤル・ルースト』というブロードウェイのナイト・クラブのマネージャーになったので、かねてから目をつけていたハリーに歌手になるよう勧誘する手紙を寄こしたのでした。
 ワラをもつかむような気持ちでハリーは『ロイヤル・ルースト』に行き、テストをうけました。
 結果は見事に合格。そして2週間の出演契約が結ばれたのです。
 歌手としてのデビューは大成功で、契約は更に1週、さらに4週と延び、とうとう20週という長いものになりました。
 報酬も当初の週給70ドルから、その年の内に週給350ドルをもらう人気歌手になったのです。
 モンティ・ケイはハリーのマネージャーとなり、キャピトル・レコードやジュビリー・レコードと契約をしてレコードの吹込みも実現、あっという間にポピュラー・ソングのニュー・スター、ハリー・ベラフォンテが誕生したのでした。
 1949年といえばテレビが誕生してまだ間がない頃ですが、ハリーは「Sugarhill Times」という黒人ばかりのミュージカル・バラエティ・ショウ番組にレギュラー出演していました。
 この番組は1949年9月13日から10月20日までCBSで放送されていました。
 最初は「Uptown Jubilee」というタイトルで、次には「Harlem Jubilee」というタイトルで、そして最後には「Sugarhill Times」というタイトルに変更されて続いていました。
 この時、ハリーの名前はBelafonteではなく、Lがひとつ多いBellafonteと名乗っていたようです。

[ 1950, Age 23 ]
 モンティ・ケイによってポピュラー・シンガーに仕立てあげられたベラフォンテは、自分でも思いがけないほどトントン拍子に成功して行きましたが、彼はポピュラー・ソングで人気を得る自分に疑問を抱き、1950年のクリスマスの日を最後に、歌手をやめてしまいました。

[ 1951, Age 24 ]
 歌手をやめたベラフォンテは、まもなくジャマイカ出身の旧友であるウィリアム・アッタウェイなど二人の友人と共にと共に、グリニッジ・ヴィレッジで共同経営のハンバーガー・ショップ『ザ・セイジ』(賢人という意味)を開店しました。
 このレストランは当時、民謡愛好者の集まる巣のようになり、夜中の2時に閉店したあと、店に集まった民謡好きの連中が夜明け近くまで歌って過ごすこともしばしばだったそうです。
 そんなことも原因になったのか、結局この店は8カ月でつぶれてしまうのですが、ハリーはこの店に集まった民謡好きの客たちによって民謡への眼を開くことが出来たのでした。
 ベラフォンテは『ザ・セイジ』で知り合ったギタリストのミラード・トーマスや、クラリネット奏者のトニー・スコットなどのミュージシャンに励まされ、本格的な歌手としての道を歩き始めました。
 やはり『ザ・セイジ』の友人の一人であるジャック・ロリンズがマネージメントとコーチをひきうけ、みっちりと練習を積んだのち、1951年11月、グリニッジ・ヴィレッジの有名なクラブ『ヴィレッジ・ヴァンガード』に登場したのです。
 ベラフォンテのカムバックは大成功をおさめ、『ヴィレッジ・ヴァンガード』や『ブルー・エンジェル』といった、ニューヨーク市内外の一流クラブに次々と出演するようになりました。
 ハリーはこの年、RCAの専属となり、レコードの吹き込みも開始し、前とは違った新しい歌手ハリー・ベラフォンテが、栄光の座への道を着実に歩みはじめたのでした。

[ 1952, Age 25 ]
 歌手になったベラフォンテですが、最初の志望だった演劇の道をけっして捨ててしまったわけではありません。
 1952年には、MGM映画『ブライト・ロード(Bright Road)』で映画にデビューをしました。
 黒人差別の非をついたこの映画はさして評判にはなりませんでしたが、この映画での演技が認められて、スクリーンにも次々と登場することになります。

[ 1953, Age 26 ]
 1953年の暮れ、ハリーはブロードウェイ・レビュー『ジョン・マレイ・アンダースン・アルマナック・1953』に登場して自作の『マーク・トゥエイン』(第1部、第8幕)と『ホーレン・ジョー』(第2部、第9幕)それに『アコーン・イン・ザ・メドウ』(第2部、第5幕)を歌い、これで彼はアントアネット・ペリイ賞とビルボード誌のドナルドスン賞を獲得しました。
 この成功によって、各種のショウやナイトクラブへの出演の道が開けました。
 ニューヨークの有名なクラブ『ヴィレッジ・ヴァンガード』では、なんと、22週間ぶっ続けの出演契約まで獲得しました。

[ 1954, Age 27 ]
 こうしてベラフォンテの名声が高まった頃、ニューヨークのRCAスタジオで、ベラフォンテにとってRCAでの最初のアルバムとなる『ベラフォンテ登場!』のレコーディングが行われました。
 1954年4月から5月にかけての事です。
 また、「スリー・フォー・ザ・ロード」というレビューで全米公演を行いました。
 一方、映画の方ではこの年、ミュージカル大作『カルメン(Carmen Jones)』の主役の座を射止めました。
 ただし、この映画はオペラティックな歌い方が要求されるため、本格的なオペラ歌手によって歌の吹替えがされました。
 ハリーは純粋に役者として出演したのです。
 さらにハリーは、自分で映画プロダクション『ハーベル・プロ』を設立し、第1回作品として『世界と肉体の悪魔』(1954年4月封切り、日本では未公開)を製作しました。
 『ベラフォンテ/愛を歌う』に収録されている『十五の頃』はこの映画の主題歌です。
 私生活では、9月に次女のShariが誕生しました。

[ 1955, Age 28 ]
 ハリーはユーゴー・ウィンターハルター楽団の伴奏で『アイム・ジャスト・ア・カントリー・ボーイ』をシングル盤に吹き込みました(日本では未発売)。
 またこの年、ハリーはMarge & Gower Championとの共演で、ブロードウェイ・ミュージカル『今宵の3人(THREE FOR TONIGHT)』に出演し、14曲を歌いました。
このミュージカルは11月にNBCからテレビ放映されました。

[ 1956, Age 29 ]
 1956年・・・この年はハリー・ベラフォンテがショウ・ビジネスで大きな地位を築きあげた記念すべき年です。
 『デイ・オー』(バナナ・ボート)の大ヒットによりカリプソ・ブームをまき起し、ステージでもひっぱりだこになったのです。
 それからは『マチルダ』『さらばジャマイカ』『美しのきみ』『カム・バック・ライザ』などを立て続けにヒットさせて、彼の地位は不動のものになりました。
 この年、ハリーは2枚のアルバム『民謡の王者』と『カリプソ』を発売しました。
 どちらもレコーディングは前年の8月から11月にかけてのものですが、このうち『カリプソ』の方は世界初のミリオンセラーアルバムになりました。
 『カリプソ』からシングル・カットされた『デイ・オー』は、翌57年2月に全米ヒット・チャートの第5位にランクされました。
 また『さらばジャマイカ』のシングルは翌57年1月に全米ヒット・チャートの第14位にランクされています。
 コンサートの方では、ニューヨークの有名な野外音楽堂「Lewishon Stadium」(約7千名収容)で、39年ぶりに観客動員数の記録を塗り替えるという快挙を成し遂げました。

[ 1957, Age 30 ]
 2月28日、ハリーは前妻のマーガリートと離婚をして、3月8日に現在の妻ジュリー(Julie Robinson)と結婚しました。そして、9月には長男のDavidが誕生しています。
 ちなみに彼は前妻との間に2人、ジュリーとの間に2人の子どもをもうけています。
 ハリーが30才の誕生日を迎える頃、『ベラフォンテを聴く夜』のアルバムを発表しました。
 またこの年ハリーはロバート・ロッセン監督の映画『日の当たる島(Island in the Sun)』に主演しました。
 カリブ海に浮かぶ架空の島を舞台にして、人種問題や、経済的な闘争や、恋愛などを描いた映画です。
 ハリーはこの映画の中で『日の当たる島』と『リード・マン・ハラー』の2曲を歌っています。
 この2曲はこの年に発売されたアルバム『カリブ民謡を唄う』の中に収録されています。
 『日の当たる島』のシングルは7月に全米第30位にランクされています。

[ 1958, Age 31 ]
 この年の前半はレコーディングに明け暮れていました。
 まず、1月から8月にかけて、バラードを集めたアルバム『愛を歌う』のレコーディングをしました。
 そして、6月5日と7日の二日間はハリウッドのスタジオで『ブルースを歌う』のレコーディングをしました。
 さらに、5月27日から6月8日にかけては『ベラフォンテとクリスマスを』のレコーディングをしました。
 またこの年には初めてのヨーロッパ遠征を行い、8月からロンドン、パリ、ベルリン、ローマ、ミラノ、ストックホルム、コペンハーゲン、ブリュッセルの各都市でコンサートを開きました。
 その皮切りとなったロンドンのKilburn State Theaterでは、1週間の公演の間、4000の座席を満員にしたそうです。

[ 1959, Age 32 ]
 1959年は、ハリーがスーパースターとしてその地位を築き上げた、記念すべき年となりました。
 アメリカのNBCテレビがお正月番組に放送したショウ『音楽の冒険』でハリーは『ゴッタ・トラベル・オン』を歌って好評をはくし、同時に発売されたレコードは2月頃までベストセラーになりました。
 このシングル盤は『望郷』という題で日本でも発売されました。
 そして4月に、あの偉大なカーネギー・ホール・コンサートが行われました。
 ダイナミックでスリリングな彼のステージは、その後の様々な歌手のコンサートの原点となったほどです。
 ハリーはこの後でも何度かカーネギーのステージを踏みますが、このときのコンサートがこの音楽の殿堂への2度目の登場でした。
 コンサートは2日間ともチャリティ公演として行われました。
 2日目の4月20日のコンサートは、精薄児収容施設であるウィルトウィック・スクールに利益を寄付したのですが、その日のラストナンバー『マティルダ』が終わってハリーがステージをおりてきたとき、ウィルトウィックの理事であるエリノア・ルーズベルト夫人が舞台の袖に待っていて、感激のあまりハリーを抱きかかえ、祝福のキスを贈る光景も見られたということです。
 それまでポピュラー歌手は大ホールでコンサートをおこなうことはほとんどありませんでした。
 コンサートでは舞台の中央に立って愛敬をふりまきながらカッコよく唄うのがせいぜいだったのです。
 ところがハリーは一つ一つの歌を歌うだけでなく、表情や演技や動きなどによって、それをドラマティックに表現したのでした。
 こうしてハリーはただの歌手ではなく、エンターテイナーとして世界に認められるようになりました。
 このときのコンサートの模様は2枚組のアルバムになりベストセラーを続けましたが、そのアルバムには副題として『完璧なコンサート』と書かれています。
 また、この年から2年間をかけて全米各地を巡るコンサート・ツアーが「Tonight with Belafonte」というタイトルで開始されました。
 映画の方では、この1959年に、日本でも公開された『拳銃の報酬(Odds Against Tomorrow)』を自主製作しています。
 「The World, The Fresh, and the Devil」という映画に出演したのもこの年です。

[ 1960, Age 33 ]
 ハリーは再びカーネギー・ホールでコンサートを行い、5月2日の公演の模様を収録した2枚組のアルバム『ベラフォンテ・カーネギー・ホールに帰る』を出しました。

 また、オデッタなどのゲストとともに楽しいショウをくりひろげたテレビ番組『今宵ベラフォンテと共に(TONIGHT WITH BELAFONTE)』(1時間番組)でテレビのアカデミー賞といわれるエミー賞を獲得しました。
 黒人でエミー賞をとったのはハリーが初めてのことです。
 この番組は、日本でも1961年12月31日にTBSで放映されました。
 「女囚の歌」「シルビー」「ジョン・ヘンリー」「ジャンプ・ダウン・スピン・アラウンド」などの曲が歌われました。

 7月、ハリーは突然のように来日してコンサートをひらき、日本のファンを熱狂させました。
 初日の公演を観た作家の三島由起夫が毎日新聞に寄せた文章の中でハリーを『褐色のアポロ』と讃えたエピソードは有名です。
 その冒頭の部分をご紹介しましょう。
 三島由紀夫「偉大な官能の詩」
 「ベラフォンテがどんなに素晴らしいかは、舞台を見なければ、本当のところはわからない。ここには熱帯の太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台上のベラフォンテは、まさしく太陽のようにかがやいている。彼はかっ色のアポロであって、大ていの白人女性が彼の前に拝跪するのも、むべなるかなと思わせる。(以下略)」(7月15日毎日新聞夕刊)
 ハリーは後に『世界民謡の旅』というアルバムを出したとき、日本公演のことを次のように語っています。
 『このアルバムのもとになる着想の出発点はいささか劇的なもので、それは極東で起こったことだった。米国の大統領の日本訪問の計画が、学生達の激しい反米デモのため中止を余儀なくされた事件のすぐあとに、私はその日本を訪れた。コンサートに臨むに当たって幾らかの危ぐの念を抱かずにいられなかったが、何しろ言葉は全然通じないと来ているし、私達に対し日本の人々がどのような感情を持っているかを知るすべもなかった。私達は外国を訪問する場合いつもその国の歌を、その国の言葉で歌うことにしているのだが、日本では「サクラ」をやることにした。さて、コンサートの蓋をあけてみると、私達の不安をはねのけるような圧倒的な成功だった。「サクラ」を歌いはじめると、人間的な暖かいものが、巨大な波となって客席から押し寄せてきた。聴衆の全員が私と一緒に「サクラ」を歌っていたのだ。・・・静かな飾り気のない歌い方で。私は音楽が人の心と心をどのように結びつけるかについての感動的な体験をしたのである。こうした体験はほかの国々でも持つことができた。その体験が「世界民謡の旅・・私の歩いた道」というアルバムを生みだした。』
 この年の暮れにカナダのオキーフ・センターでコンサートを開いていますが、ゲストにミリアム・マケバが登場しています。
 このコンサート・ツアーはハワイから始まり、日本、フィリピン、オーストラリア、イスラエルそれにギリシャを巡る大がかりなものでした。
 また、この年の9月、ハリーはナナ・ムスクーリと出会っています。
 ナナ・ムスクーリは1936年10月アテネ生まれのギリシャの人気歌手で、『アテネの白いバラ』という世界的なヒット曲を持っています。
 ハリーとの出会いは、1960年9月、ハリーがアテネに行ったとき、ナナがある小さなクラブに出演しているのを聞いたのが始まりでした。
 当時、彼女はギリシャ国外では今のように有名ではありませんでしたが、ハリーはナナの歌をいつかきっとアメリカの聴衆に聞かせようと心に決めたのでした。
 その決心はやがて1964年に実現することになります。

[ 1961, Age 34 ]
 後に「フォークソングの神様」と呼ばれるようになったボブ・ディランが、なんとベラフォンテのアルバムの中でレコードデビューしています。
 「ベラフォンテ・夜の唄」というアルバムでハーモニカの演奏者として参加したのです。
 レコーディングは4月24日に行われ、この時のギャラは50ドルだったそうです。
 9月に三女で末っ子のGinaが誕生しました。

[ 1963, Age 36 ]
 ハリーは1963年8月、ロサンゼルスのグリーク・シアターで1カ月間の連続コンサートを開きました。
 そして4407の席を持つこの野外劇場を連日超満員にし、延べ10数万人の観衆を動員するという快挙を成し遂げたのです。
 このうち、8月23日のコンサートの様子がライブ・アルバムとなってリリースされています。

[ 1964, Age 37 ]
 6月にアルバム『心の歌』のレコーディングをしました。
 秋には、ナナ・ムスクーリがハリーと共演するためにアメリカにやってきました。
 バーモント州のバーリントンでのコンサートがハリーとナナの初の共演であり、またナナのアメリカのステージへのデビューとなりました。
 このコンサートはハリーにとっても、初のカレッジ・コンサート・ツアーのスタートでもありました。

[ 1965, Age 38 ]
 5月にカナダのモントリオールに滞在中にギリシャの著名な作曲家、マノス・ハジタキスに出会ったことをきっかけとして、ハリーとナナ・ムスクーリは『ベラフォンテ/ギリシャの歌』をレコーディングしました。
 短編人形アニメ「手」に声優として出演したのもこの年です。

[ 1966, Age 39 ]
 1966年3月、ハリーはパリとストックホルムで、ヨーロッパでは初めてになる、「Dr. Martin Luther King Civii Rights Movement」の慈善コンサートを行いました。
 このうち、3月31日にストックホルムのRoyal Operahouseで行われたコンサートの模様は、Philipsレコードからライブ盤として発売されていますが、恐らくスウェーデン国内だけでしか発売されなかったのではないかと思われます。
 4月にはテレビ番組「ダニー・ケイ・ショウ」にゲスト出演しています。

[ 1969, Age 42 ]
 1969年11月9日にTVスペシャル「An Evening with Julie Andrews and Harry Belafonte」が放映されました。

[ 1970, Age 43 ]
 この年に「The Angel Levine」という映画に出演しています。
   1970年、ハリーはリナ・ホーンと共にTVスペシャル『ハリーとリナ』に出演しました。
 このときの様子はアルバムとしても発売されています。
 この時共演したリナ・ホーンについて少し触れておきましょう。
 彼女は、1917年、白人の父と黒人の母との間に生まれました。ハリーよりも7才年上です。
 17才の時、ハーレムの『コットン・クラブ』でダンサー兼コーラス・ガールとしてショウ・ビジネスのスタートをきり、その後、ジャズ歌手として腕を磨いてきました。
 1957年にはブロードウェイ・ミュージカル『ジャマイカ』で大好評を博し、ニューヨーク、ラスベガスなどの一流ホテルやナイトクラブで美貌の女王の名をほしいままにしてきました。

[ 1971, Age 44 ]
 1971年、シドニー・ポワチエと共演で映画『ブラック・ライダー』に出演しています。

[ 1972, Age 45 ]
 6月、カナダのトロントでコンサートを行い、『トロント・コンサート』というタイトルで2枚組のアルバムを出しました。
 ハリーにとっては4枚目のライブ盤ですが、構成をがらりと変えてカリプソをカーニバルメドレーとして1曲にまとめて場内を盛り上げています。
 この年はまた、映画「12月の熱い涙(Buck and the Preacher)」に出演しています。

[ 1974, Age 47 ]
 3月、ハリーは実に14年ぶりに来日しました。
 彼はこのコンサートを成功させるために、トロント・コンサートと同じスケールの公演グループを結集し、日本公演に先立って2月にテキサス州ヒューストンと、ハワイの『ハワイアン・ヴィレッジ』で公演を行い、完璧を期して来日しました。
 公演は期待に違わず素晴らしい出来で、ベラフォンテの健在ぶりを示して日本のファンを大いに沸かせました。
 ハリーは、帰国を1日延ばして宮城まり子の『ねむの木学園』のためにチャリティ・コンサートを開き、これも超満員。
 純益400万円は『ハリー・ベラフォンテとの友情だけで十分です』というまり子さんの意志で、日本肢体不自由児協会にそっくり寄付されて大拍手を浴びたという感動的なエピソードが語り草になっています。
 このチャリティ・コンサートの模様は4月になってテレビでも放映されました。
 また、その前日、3月18日のコンサートは、後に『コンサート・イン・ジャパン』というタイトルで2枚組のアルバムとして発売されています。
 映画の方では、シドニー・ポワチエとの共同制作で「Uptown Saturday Night」というコメディ映画を製作しています。

[ 1977, Age 50 ]
 この年はハリーにとって大きな転機の年でした。長年住み馴れたRCAを離れ、CBSに移籍したのです。
 その第1弾のアルバム「Turn the World Around」は、これまでのソフト路線から離れ、アフリカン・ミュージックを取り入れた精力的なアルバムでした。
 そしてこれを機会に、ベラフォンテは新しい魅力のコンサート活動を開始するのです。

[ 1979, Age 52 ]
 7月にハリーは4度目の来日公演をしました。
 この公演は1年間をかけて世界中を回るワールドツアーの一環として行われたもので、ハリーの新しい魅力を満喫させてくれるすばらしい公演でした。

[ 1981, Age 54 ]
 この年に「Grambling's White Tiger」という映画に出演しています。

[ 1985, Age 58 ]
 ところで、ハリーの活動は芸能界だけにとどまらず、公民権運動を初めとする平和運動に積極的に参加し、ケネディ大統領当時は〈平和軍〉の文化アドバイザーになり、そのほかにも、アメリカ・ユダヤ人会議,NAACP、米黒人救済委員会、アルバート・アインシュタイン賞、米ボーイ・スカウトなどからたくさんの名誉賞を与えられています。
 それらの中でも特に有名なのが、1985年の『USAフォー・アフリカ』の結成です。
 『ウィー・アー・ザ・ワールド』の大ヒットで知られるこのプロジェクトを支えたのがハリー・ベラフォンテでした。
 『ウィー・アー・ザ・ワールド』のビデオ版には、曲を唄い終わった後でハリーの功績を称えて、誰からともなく『デイ・オー』を歌い始め、やがて出演者全員での大合唱になるシーンが収録されています。

[ 1986, Age 59 ]
 3月に東京の日本武道館で行われた「東京音楽祭」で、ハリーはスペシャルゲストで登場し、コンテストの審議の間にミニ・コンサートを行いテレビ放映されました。
 ベラフォンテの登場に、何より音楽祭の参加者達が熱狂していたのが印象的でした。
 
[ 1987, Age 60 ]
 この年にハリーはユニセフの親善大使(UNICEF Goodwill Ambassador)に就任しました。

[ 1988, Age 61 ]
 ハリーは本当に久しぶりにアルバム『PARADISE IN GAZANKULU』を出し、ファンに健在ぶりを示しました。

[ 1989, Age 62 ]
 ハリーはこれも久しぶりのライブアルバム『BELAFONTE 89』をリリースしました。
 これは前年に出した『PARADISE IN GAZANKULU』をベースにした新しい構成によるコンサートで、ファンにまた新しい楽しみを提供してくれました。

[ 1991, Age 64 ]
12月に来日し、東京、大阪、名古屋などで合計6回の公演を行いました。
 この公演は『クリスマス・コンサート』と名付けられていましたが、クリスマス・ソングは歌わず、『PARADISE IN GAZANKULU』のアルバムからの曲を中心にし、西ドイツでのライブアルバム『BELAFONTE 89』に似た構成の公演でした。

[ 1992, Age 65 ]
 ロバート・アルトマン監督の映画「ザ・プレイヤー」に本人役でゲスト出演しました。

[ 1993, Age 66 ]
この年は1年をかけてワールドツアーを行いました。
 カナダ、スウェーデン、オランダ、フィンランドなど北欧を回り、フランスを経て年末には日本にもやってきました。
 日本では各地で計7回のコンサートを行い、相変わらずのバイタリティで2時間のコンサートを休憩なしに歌いきりました。
 ただ、心なしか声に艶がなくなり、息切れ気味だったのはやはり66才という年齢のせいなのでしょう。
 コンサートでは盛んにユニセフのことを話していました。
 今やハリーは一人の歌手と言うよりも、歌手という姿をかりて世界に平和を広める伝導師のようにも見えました。

[ 1995, Age 68 ]
 ロバート・アルトマン監督の映画「プレタポルテ」に本人役でゲスト出演しました。
 また、ジョン・トラボルタとの共演で「White Man's Burden」という映画にも出演しました。この映画は、白人と黒人の地位が入れ替わっている世界での話です。

[ 1996, Age 69 ]
 ロバート・アルトマン監督の映画「カンザス・シティ」に暗黒街の首領セルダムシーン役で出演しました。
 この映画は96年のカンヌ映画祭正式出品作になり、ハリーは第62回ニューヨーク批評家協会賞の助演男優賞を獲得しました。
 12月には3年ぶりに来日し、東京、大阪、仙台などで合計6回の公演を行いました。

[ 1997, Age 70 ]
 久しぶりにライブ盤が発売されました。しかも、VTRも一緒にです。
 出演者の顔ぶれや曲目の構成などは、昨年のクリスマス・コンサートとほぼ同じですから、一連のコンサート・ツアーで録画・録音されたものでしょう。

[ 2023, Age 96 ]
 2023年4月25日、うっ血性心不全のためニューヨーク市内の自宅で死去しました。96歳でした。

[ プロフィール ]
 身長 : 6フィート2インチ
 体重 : 175ポンド
 髪の色: 黒
 眼の色: ブラウン