05/08/08
<ブログは残らない気がするのでここに書いてみる>
たとえば、いろいろな生き方ができると思う。今は繰り返し、少し変化し、繰り返す。そんなに居心地が悪い訳でもなく、つまらない訳でもない。
繰り返すことは楽である。繰り返さず、毎度変わっていたら、大変効率が悪い。
繰り返し方が、他とちょっと違うところに、個人的な喜びを感じることができる。
何かに触れたり、何かを感じてみたり、また、何かを表現する機会を得て、何かを表現してみたり。
感じることも、個人的に楽しいものであれば、何か表現をしているという状況から特別に感じることもある。
これといって、何かを伝えたいことはさほどなく、ただ、もったいないから表現している風にもとれてしまう。
これが、表現をすることを常に要求されていたらどうなってしまうのだろう?
たまに、普段の生活時間や空間とは異なるところへ行くことに意味がある気がする。
いつも、同じように、いろいろあ場所へいっていたら、それは、繰り返しと同じかもしれない。
繰り返しからは、マヒを感じる。本当はすごいことになっているはずなのに、心が空虚になってしまう。
プログラムで言えば、ある関数ができあがってしまえば、それを、呼び出すだけで済んでしまう。その関数が不完全であれば、常に修正を加え続けなければならなくなる。
修正を加え続けるという行為が、繰り返しになってしまうとすれば、それ自体を関数にしてしまえるかもしれない。
コントロールのインターフェースをどこにつけるかも重要だったりする。それも含めて関数ができていれば、良い。
でも、オブジェクト的なものであれば、もっとルールは自由かもしれない。ある呼び出しに反応するかどうかは、そのオブジェクトの固有ルールで解決すればよいことで、
呼び出しはいくらあってもいい。相互に話し合う、言語のようなものがあって、それを返すかどうかは、そのオブジェクトの作り込みによる。
オブジェクトがなくたっていいのかも。 ただメッセージを送信し、だれが受け取るかわからない。けど、それで受け取れる人は、何かを感じると思う。
おもしろい、少し変わったことを提供することもできる。でも、それも繰り返しが多ければ、当たり前のことになっていく。
この行動はどの方向へ進化していくのだろうか?
進化をもとめず、安定を求めることもできる。
安定には反発もある。技術を深めるのは誰のため?自分のため?リスナーのため?それともよくわからない大きな想像できない存在のため?
それとも、なにか科学的なものなのだろうか?
これ以降はブログへ。
04/06/01
<映像と身体の関係性>
音と身体表現はよく行われるし、もちろん舞台もなければ踊れない。
でもそこに、映像を持ってくる意味は何か?
今の僕なりの回答を示すとするなら、
音を映像化するシステムという、
音に近い存在だからこそ、
ダンスと融合しやすいのかもしれない。
音も映像(シーン)を描くことができるし、
ダンスはシーンそのものを表す事が出来る。
ダンス自体も映像としてとらえる事が出来るから、
さらに映像で何を表現するか?
今やっていることの課題はそこにある気がする。
音から感じる映像、身体表現から感じる映像。イメージを持つこと。伝えること。
映像から身体、音から身体へ
映像から音、身体から音へ
音が時間を作り、身体が時間を作り、映像が時間を作る。
音が語り、身体が語り、映像が語る。
何かを伝え、何かを感じてもらうことができるだろうか?
機械的な映像、有機的な映像。
スープのように、鍋物のように、味わえるだろうか。五感で感じる。
おいしくいただけるといい。産地直送。生の素材。
04/05/27
<壊す アート>
知っていて壊すのと、知らないで壊すの。何が違うのだろうか?結局壊しているのには違いない。知っているか知らないかはそれほど重要なことなのだろうか?
自分には知らないことだらけ。
知っていれば(把握していれば)理解が早い。何の理解か?それは壊し方の方法論を知っているだけだったりする。
壊し方は、おそらく、千差万別、十人十色、やり方はいろいろあるだろう。それを分析し、パターンを導き理論化し、容易に扱えるように形を整えたものが専門領域。
結果として、意図的でなくても壊れてしまった。これは、結果にすぎない。でもその結果を導くような行動をしていたのは事実。
[結果の導き方はいろいろあっていいはず]と考えると、そこで、好きなように振る舞うことができる。
・時間をかけず、効率よく行うには、豊富な経験から学び、自分なりの方法をもみつけた人ができること。これは仕事になりうる。
・時間をじっくりかけて、他にない、味わいをだすことは、趣味の領域で可能。
豊富な経験から得た結果を利用して、さらに時間をじっくりかけることができるのが理想だったりする。
(豊富な経験=知っているに近づく)ということか。
知識を持って、何かをする。目的は何か?
何かをすること事態が目的になっている。
知識を持っていなけれなしえない、新たな領域へ行くことができるようになる。そうして、文化を作っていく必要があるはず。
誰かが、先陣をきってくれれば、価値あるものであれば、みんながついてくるはず。ついてこれないくらい先に行っていたとしても、
時間がたち、忘れられない限り、先へすすむ方向性をみせることはできる 。
文化を作らなくなったら、どうなってしまうのだろうか?
同じものを繰り返すことになる。これは安定していることなのだろう。不安定さがなく、流れもない。時間の止まった世界。流れの認識できない世界。
流れにもまれていたい。自分を変えていくのが近道なようだ。そして世界を変え続けているという気持ちになる。
自分のいる世界に影響を与える存在であるがゆえに、存在価値がでてくる。
影響を与えなくても、存在はしていられるし、なんらかの価値もあるのだろうけれど。
価値というのは、まわりが決めること。自分できめることではない。まわりに認められることで初めて、価値が生まれる。
認められると、良いことがおこる。派手な変化が生まれる。特別な出来事に遭遇する確率が高くなる。
特別なこと、非日常的なことを求められている。それに答えるべく、他の人とは違った事をし続ける意味が生まれてくる
。価値も変わるので常に変わり続ける必要がある場合もあるし、残り続ける必要がある場合もある。
こうして、何かに考えを集中することで、人は快楽を得る。
結果を導くための行動を正当化している。生きて、好き勝手にやることを許される、それがアートの世界。ファンタジー。平行世界。[ありえたかもしれない世界]
それを望む人は多くはないから、せめて望む人でも願いがかなうといいのだ。望めばかなう可能性が高くなる、この世界。
何が正しいかはわからないが、望む人がいた時に、それが不自由なくできることが、良い世界であり、文化を作り出す事ができる状態なのかもしれない。
<文化って?>
たぶん、新しい理論、方法かもしれない。簡単に知る事ができ、知った人は共通の財産として扱える。そのことに集中することで、おかしな方向へ世界がいかないようにしてくれるのかもしれない。
これにより、大多数の人が文化創造にたいして麻痺する。
でも、「一部の人たち」がその文化を壊していくことになる。そして、また、世界がおかしな方向へと動きだす。
その「一部の人たち」になりたいと望む人が、アーティストだったりする。
アーティストになるには、あまっていなければならないのではと、最近思う。
生きていくために、やることがそれほどなく、誰も望んでいないことができる状況。しかも、今の状況に不満で、何か変えたいと思っている。そんな人たちが多くいるはず。
人があまっているときは、新しいことができるチャンス。そのあまった力を次のステップへもっていくには、先陣が必要かな。
だれがやるのか? やるひとにはそれなりの責任がでてしまう。 それでもやるというなら、誰も止めない。止める理由がなくなる。自由になる。あとは結果次第。
04/05/20
<アートとは?>
はて、なんだろう。ふと、思うとこの言葉を安易に使っていないだろうか?
表現すること、日常世界に非日常的な空間を作り出すこと。考えさせること。何かを伝えること。
エンターテイメントとして、伝統芸能や文化の伝承として、続けられている行動。
何を伝えたいのか?面白さを伝えたい。なぜ?面白さを共有したい。いろんな人と気持ちを同じにして、楽しみたい。
さらにいえば、 好きなことを好きにやりたい。ほかでは見られない一風変わった面白さを表現したい。
見落としがちな、美しさを表現したい。いろいろなところに、美しいと感じるものがあるけれど、感じようとしていないと気がつかない。
感じ続けるために、表現活動をしたいのかもしれない。いろいろな人の頭の中にある想像を具体化し、外に出して、いろいろな人に影響を与えていく。
そうやって、影響し合いながら、世界を見つめる。生きているということを感じていたい。
<世界とは?>
はて、なんだろう。波のようなもの。力が集まったり、分散したり。とても不思議。なぜこうなっているのか分からない。分かろうとしても、理解できない。
理解できない中に、感動したりする。うれしかったり、不安になったり。常に揺れ動く世界を、少し遅れて認識したつもりでいたりする。
見えないところに、すごいものが隠れていたり、とても良いものがあったりする。ものでなく現象だったり、つながりだったりもする。
自分で影響を与えたり、受けられたりする範囲のすべてが世界。そしていろいろなものがなぜか隠されている。
04/04/19
<アートと仕事>
今は仕事とアートとの両立を目指しています。アートにはお金がかかる、仕事には時間がかかる。両方をうまくバランスをとってやっていけるようにしたい。
アートを仕事としてできないだろうか?時間もかけて、お金も儲けて仕事として行うことができれば、健全であり、社会に認められた活動家なのかもしれない。
今の仕事(プログラム)はある部分で社会に認められた領域。この領域を拡張して、アートよりな発想で仕事を進めたい。
アート作品を手がけるには、さまざまな要素が必要で、そのひとつにプログラム技術も含まれている。
プログラムの技術とアートを結びつけるものはなんだろう?
今の仕事にもアート性はもとめられている。ただし、評価、価値としてはあまり高くない。現実の作業を軽くする目的でのツールデザイン。それは、ツール操作の煩雑さをなくし、
作業をよりクリエイティブな方向へ向かせるためのはず。しかし、簡単にできるとわかると、それ以上のことは考えなくなってしまう、間に合ってしまう傾向がある。
クリエイターはもっと貪欲であってほしい。むずかしいけど。
もっともっと、いろいろな可能性、表現手段があるはずであり、型にとらわれたものばかりではつまらなくなってしまうと考えます。
もし、表現したいことがツールの制約でできないために、型にとらわれているのだとしたら、相談してください。その分野におけるエキスパートを目指したいと考えています。
04/03/05
<今までの経験とこれから>
今までの経験によって、導きだされたことは、今やりたいと思う事は、もっと勉強が必要かなという状況です。
仕事で必要とされていることは十分承知しているのですが、知識欲が押さえられなくなってきました。もっと面白い事に首をつっこんでみたい。浸かってみたい。
まわりの方々に少なからず迷惑をおかけすることをお許しいただきたい。しばし、わがままにおつきあいいただきたい。
とはいっても現実問題が大きな壁となり、それを超えるには時間が必要です。今は方向性を変えるところまで、一歩踏み出すには周りの方の理解と援助が必要です。
今の仕事は特殊な仕事内容だからで引き継ぎ相手がいません。これから逃げたいわけではなく誰もいないと無くなってしまう心配があります。
同じ考えをもつ方に引き継いでいってもらいたい。そう心から願うのです。
もしここを読まれている方で、「プログラミング、サウンドツール、Macintosh、インターフェース、設計」といったキーワードに関心のある方はお知らせ下さい。
04/02/16
<新しい技術と環境と表現>
これからは、どの方向に技術が発展していくのか?未知な領域が広がっている。今まで出来なかったことができてしまうようになり、まるで魔法のようだ。
でも、これが当たり前の世界。好きな事が出来る様になったにもかかわらず、何ができるのか分からないでいるのはもったいない。何でもいい、好きな事をすればいいのかもしれない。
僕も進んでみよう。もっと自由なんだ。影響を与え、考えを固定しない。いろんな考え方を受け入れ、伝える。そうして分かり合えること。そうして生きていく事が健全なのかもしれない。
そろそろ視点を変えよう。より良い方向からものを見よう。
04/01/13
<新しい技術と環境>
NativeInstrumentのクリスマスプレゼントのMetaphysical
Functionを動かしてみる。美しい。でも推奨が1000Mhzだって・・・う〜G5が欲しくなってしまうではないか。pluggoもosx対応!しかし、重い。os9版も不安定なかんじだったけど、不安定ではなくなったけど、すぐCPUパワーに限界が・・・。Soundtrackに続き、GarageBandが・・・しかもソフトシンセがついてくるなんて贅沢な。また、マシンパワーが・・・
とうとう、44.1khzのシグナルを当たり前の用に何トラックもリアルタイムで操作する時代になってしまったのですね。いや、トラックを鳴らすだけじゃなくて、モニターや解析、シグナル処理を直列にしたりと、以前まではマシンパワーがなかったから実現できなかった事を、とりあえずできるようになってしまった。
でも、今、思う事は、これからの事。今まで出来なかった事とは、既に考えられていた事。過去に出来なかっただけの事で、実は新しくもなんともないのかも知れない。でも、表現ができる人口が増えるだけで、何か偶然がおこる確率が高くなる気がする。改めてAppleの偉大さ、ソフトウェア開発者の偉大さ、そして、ユーザーの寛大さがすごいと思う今日この頃。
まだ、簡単に出来ない事はあるし、これだけではない現実のバリエーションの多さに、これから何をしていくのだろう?
03/11/11
<古い音を探して>
今日は久しぶりに昔作った曲を探してみた。なんと今やOSはPanther、フロッピーやMOってもうどうやって読むかまず悩む。CDに焼いておけば良かったかな。
データを取り出すのはすぐにやめて、音源を探す事に。MDがたくさん出てきたので、端から聴いていけば見つかると思い、2枚目くらいで、
昔つくった曲に出会う。目的の曲では無かったけど、これはこれで、記憶に残っている曲であった。
今聴くと、断片が連なった、不思議な感じがする曲。今でも、同じように作っているけど、環境の違いでこうも音が違うのかと。
昔できなかった事が、今出来るようになったけど、今では真似出来ない昔もある。
03/11/02
<全てを受け入れる>
多様性を大切にする。面倒にはなるが、それが現実。
数学や物理、理論というものは、説明を簡単にする為に、条件を決め、それにそぐわないものは例外とする。
例外は、よく起る事なのだが、その対処は、理論から導けない。
いろいろ、ある。それは、無意味では無い。良い悪いもない。
↑これも理論的だ。説明している為、例外がある。
人間は、面倒な事にも対処できるように、脳の容積が他の動物より多くできている。
理論として、簡略化するのは、さらに大きく複雑な問題を対処する為の方法のひとつ。
これだけで全ては解決しない。
問題があるときに、良い悪いを決めるのでは無く、自分の脳細胞を使って、考える事が大事。
<たとえば>
悪い事があったとしよう。それは、悪いから削除する。
目の前から悪い物が消える事で、問題が解決した。
問題は解決していない。悪い物を削除した後の事まで考えていない場合がある。
良い事があったとしよう。それは、良いからとっておく。
目の前に良い物がある事で、問題はない。
問題は無いのだろうか?良い物をとっといた後の事まで考えていない場合がある。
その場で判断することで、すぐ解決すると思い込んでいる場合がある。
良い悪いで、判断し、勝手に削除や、とっておくことに問題があると考えてみる。
自分のすべき事がわかるかも知れない。時間がかかるかもしれないが。
<何をするにも真剣に、脳を使う>
せっかく、自分が居るのだから、何かやるときは、
頭をよく使おう。
↑このよく使おうは、頻度が多いと言う意味。さぼらずに、頭を使う。
<良い悪いは誰が決める?>
決めるということは、何か意図がある。その意見には、責任が含まれる。無責任に、良い悪いは言えない。
一般的な事が良いとされ、一般的で無い事が悪いとされる傾向がある。
これは、一般的であれば、扱いやすいからと思われる。
一般的で無いものを否定してしまう。
否定することは簡単だが、すぐにゴミ箱に捨ててしまいかねない。
目の前から消えればそれで問題ないのか? と、脳を使うのである。
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