禅と精神分析

禅で著名な久松真一氏とユングの対談を参考文献として紹介します。
この対談では、双方の主張が正しく相手に伝わらず、議論が深まる前に終了しています。 しかし、ユングの分析心理学と禅との共通性は後世に多くの人々によって指摘されています。
もちろん、禅と分析心理学はイコールのものではありませんが、それらが共通して持つ「統合」というテーマは、 エゴイズムと分別知を克服したときに現れる本来的な生を意味するものです。
これは「一なる世界 unus mundus」というユング晩年の思想の根幹にたいへん深く関わってくるものだと私は理解しています。

この対談は『禅の世界』(上田閑照編、理想社、1981年)に収録されている「禅と精神分析」という章からの引用です。 初出は、昭和34年7月の『FAS』誌第39号で、原題は「無意識と無心」、訳は辻村公一氏となっています。
対談の行われた場所と時間が不明でしたが、『季刊 仏教No.48』(法蔵館)のジェフ・ショアの論文「禅における自己のあり方」に、1958年にスイスのチューリッヒ郊外にあるユング邸で両者の対談が行われたと記されていました。
ジェフ・ショアの論文と併せて読まれることをお勧めします。



 禅と精神分析  ――無意識と無心――

久松真一  C.G.ユング  


久松 私はアメリカにおりましたが、そこでは精神分析が大変広まっており、多くの精神分析学者の方々と会談致しました。今日、その学問の創建者でいられる先生にお目にかかり、お話し出来ますのは、大変欣ばしいことであります。つきまして、精神分析の現在の立場に関してユング先生のお考えを、承りたく思います。

ユング まず初めに、先生の御見解をお聞かせ下さいませんか。と言いますのは、それによって、私が何についてお答えしたらいいか、見当をつけるためです。東洋の言葉は、私たち西洋の思想的言語とは非常に異なっております。インドで私は多くのインド人哲学者たちと会談致したことがありますが、その際、相手の人が何を考えているかを知るためには、何時でも私はまず最初に、何についてお答えすべきかと、問わねぱなりませんでした。そういうことをしないで、相手の人は多分こう考えているのだろうと、考え、その考えを頼りにして 話を進めて行きますと、何時でも、とんでもないことになってしまいました。

久松 私は精神分析の専門家ではございません。それで最初に、先生から精神分析の立場の最後のギリギリの点をお聞き致し、次にその点を禅と比較してみたいと思います。

ユング それは結構です。しかし、禅は一種の哲学でしょうが、私は心理学者です。そのことをご考慮に入れて下さらないと困ります。

久松 ある意味では、禅は哲学であるといえます。しかし、禅は、通常の哲学すなわち人間の知性活動に依存している哲学とは、非常に異なっております。それゆえ、禅は哲学に非ずと言うことも出来ます。禅は哲学であって同時に宗教であります。しかし、通常の宗教ではなく、「宗教にして哲学」たるものであります。

ユング 先生が何をお考えになっているかをお聞きし、それに私の答えを合わせ得るようにするために、私は次のような問いを立てねばなりません。すなわち、先生が知りたいと思っておられるのは、禅が私たちに向かって提出している課題について、私が心理学的にどう考えているか、ということではありませんか。問題は、両方の場合において、すなわち禅の場合でも心理学の場合でも、同じものであります。禅がやっている事柄は、如何にして人間は「無心」と関わるかというその関わり方ではありませんか。

久松 「無心」については、これまでいろいろと多くの解釈がなされて来ました。(秘書アニェラ・ヤフェ夫人註、ユング教授は「無心」を「無意識」と解しているらしい。)……それゆえ、「無心」に関して一つの正真正銘の、厳格に禅的な定義を見いだすことが、是非とも必要であります。これは非常に大切なことであります。ユング先生は「無心」をどうお考えでしょうか。

ユング それは「知られざるもの」(das Unbekannte)です。しかし、それは私を心的に触発したり、阻害したりするものであり、つまり私に何らかの影響を――積極的なあるいはまた消極的な影響を――及ぼす「知られざるもの」であります。それがあるということは、私は気がっいておりますが、それが何であるかは、私は知りません。

久松 その「知られざるもの」は、「無意識」つまり「集合的無意識」と同じですか、それとも異なっておりますか。

ユング 「知られざるもの」は、一定の仕方で私を阻害したり、私に影響を及ぼしたりします。そうでなければ、それについて私が語り得るはずがありません。たとえば、私は時折、個人的な或る記憶が私を阻害したり、私に影響を及ぼしたりすることを感じます。あるいはまた、私は、個人的な経験から由来しているのではないいろいろな夢や心像や幻想をもっており、それらは、主観的な事柄から出て来ているのではなく、ある普遍的な性格をもっております。たとえば、私が私の父についてもっている心像、それは個人的な心像です。しかし、この心像が宗教的な性格をもっておりますならば、その時にはそれはもはや個人的な事柄とは関わりのないことになります。

久松 その非個人的な無意識は根源的な無意識でしょうか。言い換えれば、その非個人的な無意識は、先生が「集合的無意識」という言葉で特色づけておられる事柄でしょうか。それは最も根源的なものでしょうか。あるいは何かもっと根源的なものが……。

ユング 「個人的無意識」は人生の途上において、たとえば、いろいろな経験――それらの記憶を私は通常は駆逐し抑圧しているのですが――そういう経験を通じて発生するものです。それに対して、もう一つの無意識すなわち「集合的無意識」は、本能的に〔人間と〕共に生まれたものであり普遍人間的なものであります。貴方は日本に生まれられ、私はヨーロッパに生まれましたが、それにもかかわらず、私の「集合的無意識」は貴方のそれと同じものであります。

久松 「集合的無意識」は、普遍性とか超個人性を意味しておりますか。

ユング 集合的無意識について言えることは、それがすべての本能的な心的反作用の共通性である、ということだけであります。そういう共通性は何処にでも見いだされます。たとえば、私が貴方とこうして知的な談話をなし得るということ、そのことの可能性は、〔心的〕土台の共通性に基づいております。そうでなければ、貴方は〔私とは〕全く異なったものということになり、私どもはお互いに理解し合うことがないということになってしまうでしょう。

久松 お伽噺の中にはいろいろな悩みや喜びが出て来ますが、それらはすべて「集合的無意識」の内から現われて来たものでしょうか。

ユング たとえば、今貴方がある子供を研究されるとしてみましょう。子供でなくても、ある非常に未開な人間、確かに意識はもっているが非常な未開人でもいいし、未だ「私」ということが出来ない子供でもいい。この子供は、すべての子供に共通したある普遍的な心的状態、それはまた意識を獲得する以前におけるすべての人間に共通したある普遍的な心的状態でもありますが、そういう状態にまだ留まっております。意識は経歴と歴史との過程の中で生じて来ます。それは経験です。個体発生史の内における発展は、精神発生史の発展を反復致します。子供においては、ある集合的に無意識な状態の内から意識が発展して来ます。激情としての生命、つまり、いろいろな気遣い、喜び、苦しみ、憎しみ、愛等、これらはすべて、本来の意味での意識が発展して来る以前に、すでに存在しております。それらは実際、すでに動物において認められる事柄であり、「無意識」の本質と結びついております。それらは、貴方がすでに動物において観察されることが出来る本能的な活動です。多分、煩悩といわれる事柄についても、次のようにいわれ得るでしょう。すなわち、煩悩として問題にされている事柄は、「無意識」の諸性質であり、諸症候であると。

久松 私共の観方からいえば、煩悩は意識の圏域に属しております。

ユング 勿論、意識は必要です。意識がなければ、私どもは、一般にさきにいわれたごとき事柄があるということを、確かめることが出来ないでしょう。しかし、今問題になっていることは、煩悩を作り出すのは、意識であるか否かということです。否です。〔煩悩を作り出すのは意識ではなく、〕意識は煩悩の犠牲です。意識が現存する以前に、すでにもろもろの激情はチャンと現存しています。怒っている動物に向かって、お前は怒っているのか、と問うことは出来ません。動物は〔この場合〕彼の怒りの犠牲者です。怒りがこの動物を掴んだのであって、動物が怒りを掴んだのではありません。

久松 普通の観方では、煩悩は意識に属している、と観られております。しかし、一体如何なる仕方で意識の圏域は「無意識」と聯関しているのでしょうか。

ユング 「無意識」が意識とどのように聯関しているのか、というお質ねですか。それについては私は確答は出来ません。私どもにとっては事態は次のようになっているだけです。すなわち、私どもは経験にもとづいて、意識が「無意識」の内から発生することを認めます。そのことは、子供や未開やその他の場合において観察されることが出来ます。それからまた私は医師として、「無意識」に囚えられた人間を治療する場合、そのことを認めます。「無意識」はいわば土地であり、そこには山や湖や森がありますが、夜であるため、何も見えません。ところが或る一箇所で火が起こったとします。その時突如として、そこにあるすべてのものが、すなわち、山や湖や森やその他のものが、現われます。その火が意識です。

久松 それではいずれが私どもの本来の自己でしょうか。「無意識」ですか、それとも意識でしょうか。私どもの本来の自己とか我とか言われるものは。

ユング 意識は自分自身について「我」(Ich)といいます。しかし「自己」(Selbst)は決して「我」ではありません。「自己」は全体であります。何故ならば、人格――すなわち全体としての貴方は――意識と「無意識」とから成り立っております。それが全体であり、いい換えれば「自己」であります。しかし、私が知っているのは意識だけであって、「無意識」は私には知られずに、知られざるままに留まっております。

久松 先生のお考えでは、「自己」は全体ということになります。それについて次のような問いが出て来ますが、すなわち「自我意識」(Ich-Bewuβtstein)は「自己意識」(Selbstbewuβtstein)とは異なっておりましょうか、それとも、違わないでしょうか。

ユング 普通の言葉遣いの内では「自己意識」ということがいわれております。しかし、それは(心理学からいえば)「自我意識」に過ぎません。「自己」は、全体というのですから、知られずにあり、それは意識にして無意識であります。意識された人間とは、貴方がそれであり、かつ貴方が知っている人間です。意識されない人間すなわち「無意識としての人間」は、貴方がそれであり、かつ貴方が知ってはいない人間であります。人間の「自己」は記述不可能です。何故ならば、わずかにそれの三分の一とかあるいは三分の二くらいしか経験の内に入って来ず、その入って来る部分が「我」に属しているのでありますから。知られているものは、決して「自己」を全部的に包括してはおりません。要するに、普通の言葉遣いの内での「自己意識」は、心理学的には「我という意識」のことであり、「自己」は「我」以上のものであります。

久松 ええっ!「自己」は知られないんですって。

ユング 多分ただその半分くらいが知られていて、それが「我」です。それは「自己」の半分です。

久松 その「知られないもの」〔つまり「自己」〕の知られないという有り方は、「無意識」の知られないという有り方と、同じ有り方でしょうか。

ユング それは実際上は同じです。そこに何があるか、私は知らない。それについては私は無意識です。

久松 私どもが日常の生活の内で「我」といっているもの、それは果たして、多くのさまざまな感情をもっている「我」でありましょうか。通常の「我」は意識の圏域に属しております。この通常の「我」は、一体如何なる仕方で、根源的な知られざる「自己」と聯関しているのでありましょうか。「我」は人格全体の内で如何なる地位を占めているのでしょうか。

ユング 我はいわば夜の闇の中に輝く灯光のようなものです。

久松 精神病の場合、患者は多くの深い悩みを嘗めねばならず、悩んでいる患者をその悩みから解放することが、多分治療だと思われます。それによって患者は悩みのない状態に導かれます。ところで、今申しましたような解放が治療の本質だとしますと、治療ということは、一体どのようにして、根源的「無意識」と繋がっているのでありましょうか。

ユング 病気が、私どもに意識されていない事柄を原因として、それによって、惹き起こされて来ている場合には、この原因を意識せしめることによって病気を治癒するという可能性が存しております。しかし、原因が常に「無意識」の内に存するとは限りません。しかしまた、心的な原因が存在することを、いろいろな症候が示している場合もかなりあります。一例を申し上げましょう。一人の男の人でしたが、彼はいわゆる常人の意識を失ってしまい、朦朧たる精神状態になっておりました。半意識の状態と言いますか、思慮分別を失った場合のような状態になっておりました。その原因は、彼の子供つまり彼の妻が産んだ子供が本当は彼自身の子供ではなかった、ということに存していたのですが、彼はそのことを知らずにおりました。このことが彼の意識を昏濁させ、病人にしていたのです。それからまた、彼はある年寄りの女の後を追い駆けまわすということをしましたが、それは、彼がすでに思慮分別を失った状態に常に陥っていたということから来ていたことで、原因ではありません。彼ば目分の悩みを惹き起こした原因である事実を、意識してはいなかったのです。この場合には、治療法は、彼に「お前の妻は姦通したのだ」と言うことでした。

久松 その人が、この子は自分の子でないと、判然と知った場合、その人はどうでしょう。そのことを知った後、また知ったがため、その人はまたもう一つ別の悩みを得てくるということも、実際あり得ることと思われます。治療法は、悩みの諸原因を曝露するということに存するのでしょうか。

ユング この場合に限ってはそうでした。しかし、何時でもそう行くとは限りません。たとえば、次の場合のように、その原因がもともと知られている例もあります。すなわち、父親とか母親とかと自分との不和が悩みの原因であることを、患者はすでにずっと以前から知っており、患者ばかりではなく、周囲の人たちもみな知っております。ただ彼らが知らないことは、こうした不和な関係から如何なる諸結果が患者の性格に対して生じてきたかということであり、さらにまた、それではこうした事柄に対して患者は如何なる態度をとり、如何に対処しなければならないか、ということであります。「私の病気は父親や母親のせいだ」と、大多数の患者は繰り返して言います。しかし、問題はこの場合、次の点にあります。すなわち、患者自ら態度決定をなし得るようになるためには、その患者を私は〔医師として〕どのように取り扱い得るか、という点であります。父親や母親に責任があるということ、それは原因に関する問題です。しかし、治療において肝要なことは、目的に関する問題であり、その問題は究極において、次の問いに帰着します。すなわち、私の人生は如何なる意味をもっているか。

久松 私どもの通常の人生には多くの悩みがあります。治療の本質は、悩みからの解放という点に存します。それでは一体、「無意識」の圏域内における如何なる諸変化が、この解放に対応しておりますか。

ユング 意識の態度〔気の持ち方〕に関する問いです。心的な悩みの状態に際しては、この状態に私が如何に対処するか、如何なる態度を私がとるか、ということが重大なことであります。たとえば、かくかくの事が生じたがゆえに、私はふさぎこんでおり、悲しんでいる、とします。その際、私が「アア参ってしまう、こんなことになってしまって。とてもやり切れない」と思うならば、悩みは非常にひどくなります。しかし、またある人が「然り、良いこともあれば悪いこともある。日々是禍事有りだ。お天道様が何日でも照っているわけにはゆかぬ。雨の日もあれば雪の日もある」と言うことが出来るならば、彼の悩みは軽減します。すなわち、もし彼が悩みに対してある客観的な態度をとりますならば、つまり悩みに対しても「然り」と肯定することが出来ますならば、その時には彼はまた、彼の神経症的な病的な悩みから自分を解放し得る態度を、見いだすことが出来ます。もし彼が悩みを受け容れることが出来ますならば、その時はすでにその悩みはもはやそれほど苦痛ではありません。

久松 誰でももっている一つの普遍的な悩みとして死に対する恐れということがあります。この悩みば精神療法においてはどのように取り扱われることが出来ましょうか。

ユング 普遍的な規則とか方法はありません。ただ個別的ないろいろな場合があるだけです。人々は実にさまざまな理由にもとづいて死を恐れます。何故に彼は死に対する不安を抱いているのかというその理由、それによって治療の仕方が決まります。たとえば、私が死に対する不安を抱いているとすれば、それは、ある若い人が、しかも多分健康な若い人が死に対する不安を抱くのとは、全く異なった事柄です。何故に彼は死を恐れるのでしょうか。理由などはいささかもありません。しかしそれにもかかわらず、彼は死を恐れています。そういうふうに状況は個々の場合において千差万別です。それゆえ、あらゆる場合に通ずる普遍的な治療法はありません。私どもは常に個々の場合を考慮して治療して行く他はありません、何故にこの老人は死に対して不安を抱いているのか、何故にかの青年は死に対する不安を抱いているのか、というように。この二つの場合は全然異なった仕方で取り扱われねばなりません。

久松 死に対する恐れということは一つの例として挙げたまでです。それは、誰にとっても死は避け難いことだからであります。それにしても、人間には実に多くの悩みがあり、私どもはほとんど常に悩みの中に生きてゆかねばなりません。そこで、お尋ねしたいことは、人間がこれらのありとあらゆる悩みを一挙に自分自身から捨離してしまうこと、そのことが精神療法の内で出来るか出来ないか、ということであります。

ユング 一体そんな方法がありますか。それによって悩みそのものを治してしまうというような……。

久松 悩みに対する普遍妥当的な治療手段は無いのでしょうか。

ユング 果たしてそんな方法がありますか、それによれば、人間をして悩みそのものを免れしめることが出来るというような。

久松 精神療法は人間を悩みそのものから一挙に解放しますか、しませんか。

ユング 人間を悩みそのものから解放することですって。私どもの試みていることは、人間のために悩みを軽減することですが、何時になっても実際何らかの悩みは存しております。美しいもの、素晴らしい事柄、もしそれらが醜いものとか悩みとかから際立って現われるのでないとしたら、それらの美しいものも素晴らしい事柄もなくなってしまうことでしょう。ドイツの哲人ショーペンハウアーは或る時いいました。「幸福とは悩みが止むことである」と。私ども〔人間〕は悩みを必要とします。悩みがなくなれば、人生はもはや面白くなくなるでしょう。ですから精神療法といえども、人間における苦悩の〔意味如何という哲学的〕問題の邪魔立てをし、余計なおせっかいをする権限はありません。そんなことをすれば、人々はまた不満を感じることでありましょう。

久松 悩みはある意味では人生に必要です。それはその通りです。しかしそれにもかかわらず、人間の内には、悩みそのものから解放されたいという心からの願いがあります。

ユング 勿論です、過度な悩みがある場合には。それを軽減することが医者の務めです。しかし、悩みをなくしてしまうことは、医者の仕事ではありません。

久松 しかし、身体の病気の場合には、医師は人間を病気から解放し、人間の世界から病気をなくそうと致しております。精神の病気の場合でも同じではありませんか。

ユング 勿論、同じです。

久松 宗教的真理の偉大な宣教者たち、たとえばキリストにしましても、仏陀にしましても、人間は普遍的な悩みを、つまり死の悩みとか罪の悩みというようなものをもっていると言っております。これらの宗教の開創者たちの意図は、人間を根源的な悩みから解放することでありました。ところで、このような大きな解放が精神療法によって実際に遂行されるということは、考えられることでしょうか。

ユング それは、考えられないことではありません。もし貴方が悩みの問題を個人的な病気として見なすのでなく、禍とか悪とかの非人格的現われとして見なされるならば。たとえば、精神療法の場合においても、患者たちに、悩みがそういう非人格的な事柄であることを判然とさせたり、知見によって彼らに縁起の連鎖の理を意識せしめたりして、彼らを、情欲(煩悩)によって生じて来る不必要な悩みから解放することは、多くの場合、精神療法の関心事であります。煩悩が彼らを絡め取っているのであり、知見によって彼らはそれから解放されます。〔精神療法の〕目的とする事柄は、仏教の場合と全く同じであります。

久松 この解放において一番肝腎なことは、如何にして根源的な自己に覚めるかということであります。その根源的な自己は、もはや千万の事物によっても繋縛されない自己です。そういう自己に到達するということが、問題の要点です。それには、「集合的無意識」からも、あるいは「集合的無意識」に由来する繋縛からも自己自身を解放することが必要である、と思います。

ユング もし或る人が千万の事物に捉えられ、それらの内に縛されておりますならば、それは、彼が同時にまた「集合的無意識」の内に捕えられているからであります。人がその両方から解放される場合にのみ、彼は解放されることが出来ます。或る人は「無意織」によって一層多く引きずられ、他の人は事物によって一層多く引きまわされる、ということはあります。しかし要するに、解放によって人は次のようなところにまで到達せしめられねばなりません。すなわち、彼は「せざるを得ない」(muβ)ということ、すなわち事物の後を追い駆けまわらざるを得ないとか、あるいはまた、「無意識」によって不自由に規定されざるを得ないということから解放されるところにまで。両方とも根本においては同じであり、涅槃であります。

久松 ユング先生が今「集合的無意識」について言われたことは、「集合的無意識」は、それから我々が我々自身を解放することが出来るごとき性格のものである、ということでしょうか。

ユング 然り(Ja)。

久松 私どもが通常自己といっておりますものは、先生が自己(Selbst)として特色づけられたものに該当致します。しかし、その自己からの解放において初めて、禅でいう「本来の自己」が現われて来ます。それが「独脱無依」の真の自己です。

ユング 貴方のいわれる「自己」は、たとえば、『瑜伽経』における煩悩でしょう。それに反して、私が考える「自己」は、「アートマン」(我)とか、もしくは「プルシャ」(神我)に相当しています。人格的な「アートマン」は「自己」に相当します。すなわちこの人格的な「アートマン」は同時に超人的な「アートマン」です。いい換えれば、「私の自己」ば同時に「自己それ自身」です。私の言葉づかいでは、「自己」は「我」に反対して働く「相手役」であります。貴方が「自己」と言っておられるものは、私にとっては「我」です。私が「自己」と言っているものは、全体であり、「アートマン」です。

久松 「本来の自己」は語義からいうと「アートマン」に該当します。しかし、通常「アートマン」といわれているものは、何らかの実体をもったものであって、それは私のいう真実の自己ではありません。真実の自己は如何なる実体をももっておりません。真実の自己は如何なる形相も如何なる実体ももっておりません。

ユング 私がこのように、「自己」と「アートマン」とを比較によって同等視するとしましても、勿論それは不正確な比較に過ぎません。東洋の思惟が私の思惟と異なっております以上、両者は通約不可能です。「自己」は、存在し且つ存在しない、と私は言うことが出来ます。何故と言えば、私はそれについて何も判然とは陳述出来たいからです。「自己」は私より大きい、それは私にはそう思われる、と私は言えるだけです。「アートマン」は実体をもっているとか、あるいはまた如何なる実体をももたない、と言われるならば、その場合、私はただ次のように言えるだけです。すなわち、「君はそう言う。しかし、本当のアートマンが実際何であるか、私は知らない。私が知っているのはただ、人々がアートマンについて言っていることだけです」と。私が言えることはただ次のことだけです。すなわち、そればかくかくで有る、と同時に、それはかくかくで無い。

久松 通常の「アートマン」とは異なって、禅で言われる「真実の自己」には如何なる形相も如何なる実体もありません――如何なる精神的な形も如何なる身体的な形もありません。

ユング 〔そう言われても、〕私は実際、自分で知らないことを、知ることは出来ません。「自己」がもろもろの状態をもっているか、いないか、私は知ることが出来ません。何故と言えば、まさしくその点に関しては私は無意識なのですから。人間の全体は意識と無意識とから成り立っております。私が知っているのはただ、この全体がかくかくあるいはしかじかの状態をもっということは、あり得ることだ、ということに過ぎません。このことはあり得ることです。しかし私はそのことを知りません。勿論私は或ることを主張することはいくらでも出来ますし、もろもろの形而上学的な事柄を、意識を失ってしまうほど烈しく述べ立てることも出来ます。しかし、そうすることによってまさしくそのことを私は根本において知らない、ということになります。

久松 「真実の自己」は無相、無体です。それゆえ、「真実の自己」は千万の事物によっても繋縛されるということは決してありません。まさしくこの点に、解放つまり宗教的解放の本質が存しております。禅の宗教たる性格もこの点に存しており、要するに、無相の自己になるということが禅の本質であります。最初に申し上げました、禅が「宗教にして同時に哲学」であるということも、ここに由来しております。


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