シンボル的な生
12/27にアップしたユングの「分析心理学は宗教か?」という講演記録に密
接に関係するもう一つの講演記録があります。前回の講演から二年後の1939年
にロンドンの司牧心理学協会で行われた「シンボル的な生」という講演です。
邦訳は『ユング研究6』(名著刊行会)上で、葛西賢太氏によって発表されま
した。
かつて私はプエブロ・インディアンのある種族の祭司長と話したことがあ
るのですが、そのとき彼は非常に面白いことを言いました。彼が言うには
「たしかに私たちは小さな種族です。そのせいでこのアメリカ人たちは私た
ちの宗教を妨げようとするのですが、そんなことをすべきではありません。
われわれは父なる太陽の息子たちだからです。あそこを行く、あの方です」
(太陽を指さして)――「あれが私たちの父なのです。私たちは、あの方が
水平線から昇り、天を歩むのを、毎日助けなければなりません。私たちはそ
れを自分たちだけのためにしているのではなく、アメリカのためにも、全世
界のためにもしているのです。ですからもしあのアメリカ人たちが、私たち
の宗教を、彼らの伝道によって妨げるなら、いつか目にもの見せられること
になるでしょう。一〇年のうちに父はもはや昇らなくなります。われわれが
もはや彼を手助けすることができなくなるからです」。
これは一種の狂気にすぎないとおっしゃるかもしれません。とんでもない
間違いです! この人たちは何らの問題も抱えていないのですから。彼らは
自分たちなりの日常生活を、シンボル的な生を、送っているのですから。彼
らは重大で神聖な責任を負っているという思いを抱いて朝目覚めるのです。
彼らは父なる太陽の息子たちであり、彼らの日々の義務は父が水平線から昇
るのを助けることです。それは自分たちのためだけではなく、全世界のため
なのです。これらの人々が自然で満たされた尊厳を持っていることがお分か
りでしょう。私は彼が以下のように言ったときも、よく分かりました。「あ
のアメリカ人たちを見て下さい、彼らはいつも何かを探しています。彼らは
いつも落ち着かない気持ちでいっぱいで、いつも何かを探し求めています。
彼らは何を探しているのでしょう? 実は探すべきものなんて何もありはし
ないのです!」。このことは本当に当たっています。こうした旅行者たちが、
つねに何かを探し求め、つねに何かを見つけられるという無駄な希望を抱い
ていることがわかるでしょう。私もたくさん旅をしましたが、そこで世界一
周の旅の三回目を、間もあけずに、しているという人たちに遭ったことがあ
ります。旅してさらに旅するだけ、探してさらに探すだけなのです。ケープ
タウンからカイロヘ行こうと、中央アフリカを車で一人旅している女性にも
通いました。「何のためなのですか」私は聞きました。「あなたがそうする
のは何のためですか」と。私は彼女の瞳を覗き込んではっとしました。その
目は駆り立てられ、追いつめられ、つねに何かを発見できると期待しつつ探
し求め続ける動物の目をしていたからです。私は言いました。「いったいあ
なたは何を探しているのですか? あなたは何を待っているのですか? あ
なたは何を捕らえようとしているのですか?」。彼女は取り愚かれていると
言っていい状態でした。彼女を追い回すたくさんの悪魔たちに取り愚かれて
いたのです。しかしなぜ取り愚かれたのでしょうか。彼女が意味のない生活
を送っているからです。彼女の生は、まったく気味が悪いほど平凡で、まっ
たく貧弱で、無意味で、そういう生でありました、もしも彼女が今日殺され
てしまったとしても、何も起こらないし何も滅びない――彼女は何ものでも
なかったからです!
しかし彼女が「私は月の娘です。毎晩私は母なる月が水平線の上に昇るの
を助けます」と言うことができたとしたら、彼女の人生はいくらか違ったも
のになったでしょう。それなら彼女は生きており、彼女の生は意味を持ち、
それもすべての時と、そして人類全体のための意味をもったことでしょう。
人間は、シンボル的な生を生き、自身も神的なドラマを演じていると感じる
とき、内面的な平和を与えられます。それは人間の生の中で唯一意味を与え
てくれるものです。それ以外のものはすべてつまらないもので、きれいさっ
ぱり忘れてしまってよいでしょう。仕事とか、子供を作ることとかいったこ
とは、この意味ある生を送るということと比べると、すべて幻(マーラー)
にすぎないのです。
これがカトリック教会の秘密なのです。教会によって今なお意味ある生活
を送ることがある程度可能になっているのです。たとえば、日々犠牲となっ
たお方を眺めたり、そのお方の実体を分かちいただくと、人は神に満たされ、
キリストという永遠の犠牲を繰り返します。もちろん私の言ったことは言葉
にすぎませんが、儀式を真に生きた人々にとっては、それま世界全体をも意
味するものなのです。全世界以上のものでしょう。それが彼に意味を与えて
くれるからです。それは魂の願望を表現してくれます。それは私たちの無意
識的な生の事実を表現しているのです。賢者が「自然は死を求めているの
だ」というとき、彼はまさしくそういういうことを考えているのです。
(『ユング研究6』p.162-163)
もとよりこうしたことを完全に述べ尽くすことなどできません。私にでき
るのはそれについて触れるくらいのことだけです。私が観察結果から学んだ
ところによると、現代の無意識は、たとえば中世の神秘主義に見いだすこと
ができるような心理的な状態をつくりだす傾向を持っているようです。ある
ものはマイスター・エックハルトの中に見いだされます。グノーシス主義の
中に見いだされるものもたくさんあるでしょう。これらは一種の秘教的キリ
スト教です。誰の中にもカドモスのアダムの、つまり私たちの内なるキリス
トの観念を見いだすこともできるでしょう。キリストは第二のアダムであり、
異国の宗教でいえば、アートマンあるいは完全なる人間、原人、そして円あ
るいは円をモチーフとした絵でシンポライズされるような、プラトンのいう
「完全に丸い」人間です。こうした観念はすべて中世の神秘主義の中に見い
だされ、またキリスト以後の最初の一世紀に現われ始める錬金術文献の中に
も一貫して見いだされます。グノーシス主義の中にも、新約聖書の中にも、
もちろんパウロにも見いだされるのです。これらはキリストの内在というみ
ごとに一貫した観念の展開です。歴史上の人物である、外在するキリストで
はなく、私たちの内なるキリストなのです。それを踏まえて次のような議論
がなされます。キリストを私たちのために苦しませておくのは人道的ではな
い、彼は十分苦痛を受けたのだから、今度は私たちが自らの罪を一度自らで
背負ってみるべきであり、それをキリストこ転嫁するべきではない、という
ことです。私たちがすべてを背負うべきだというのです。キリストが「私は
あなたがたのもっとも小さい者に現われる」と言う時、彼も同じ考えを表明
していたのです。そして皆さん、もしもあなたがたのもっとも小さい者とい
うのが目分自身であるとしたら、いったいどうなるでしょう。次のことが実
感をもって感じられるでしょう。キリストが自分の生活の中でもっとも小さ
な者などではないということ、私たちの中に本当にもっとも小さな者、自分
が食を恵んでやった哀れな乞食よりもまだ悲惨な状態にある兄弟が自分自身
の中にいることが。それはつまり、私たちが自分のうちに影をもっていると
いうことなのです。人間のうちには大変な悪人や、どうしようもなく貧しい
人がいるのですが、それを受け入れなければならないのです。まったく卑俗
に考えて、キリストをまったく人間的な被造物であると見たとき、彼のした
ことは何なのでしょうか。キリストは自分の母親に対して忠実ではありませ
んでしたし、当時の伝統に対してもそうでした。キリストは自分自身をも欺
き、そしてつらい結末をもたらすように演じました。彼自身の信じるところ
にのっとって、彼にとってつらい結末へといたらしめたのです。キリストは
どのようにして生まれたでしょうか? 大変な貧困のうちにでした。彼の父
親は誰でしょうか。彼は私生児であり、それは人間的に見れぱもっとも悲惨
な状況でした。哀れな娘がみどり児をもうけたのです。これが私たちのシン
ボルであり、私たち自身なのです。私たちはみなこのような状況にあるので
す。目分自身の信じるところにたち、つらい結末への生を生きる者があると
すれば(それはおそらく死をもって代えることとなるでしょうが)、彼はキ
リストが自分の兄弟であると知ることになるのです。
これが現代心理学であり、これがわれわれの未来の姿です。これは私が知
った限りでの本当の未来ですが、しかしもちろん歴史上の未来はまったく異
なることでしょう。……私が関心をもっているのは一人一人の個人の中に生
きている意志を充足させることのみです。私が歴史というとき、それは信じ
るところを満たそうとしているこのような個人の歴史なのです。これこそが
問題のすべてであり、本物のプエブロ・インディアンの問題でもあります。
父が水平線を昇るために必要なすべてのことを私が今日為すという問題なの
です。これが私の立場です。さて、これだけ話せば十分でありましょう。
(『ユング研究6』p.168-170)
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