分析心理学は宗教か?

宗教に関して、ユングが1937年にアメリカで行った講演(演題「分析心理学は宗教 か?」)の記録が残っています。たいへん面白い講演なので、紹介します。
この記録は長い間、ユング自身が公開を禁止していたものだそうです。
『春秋』(1987年7月号 No.290, p.1-5)に渡辺学氏の訳で掲載されました。 現代のカルト問題に密接に関係するテーマですが、「信」の在り方にこそ、信仰の 本当の意味があるのだろうと思います。
「人は往々にして誤りを通じて真理に至るものだからです」というユングの言葉は 宗教的な真理(教義)を究極的な意味において否定しているところがあります。



 私は多くの人々にたずねられましたし、あなたがたも疑いなくたずねられたこと でしょう――分析心理学は本当に宗教ではないのですかと。
…心的エネルギーは、かつてないほど揺り動かされています。私たちはそのことに 目をつぶっているわけにはいきません。心のさまざまな階層のすべてが、はじめて 白日の下にさらされようとしています。だからこそ、多くの「主義」がはびこって いるのです。
 その結果として、人々は今日、心理を持っていることに気が付きはじめました。 過去の人間だったら、私たちが、頭の中で何かが起こっていると言ったとしても、 何を言っているのかわからなかったことでしょう。そんなことがその人自身に起こ ったためしがなかったからです。もしそんな気がしたら、自分の気がおかしくなっ たと思っていたことでしょう。人々はかつて言っていたものです。「何かが心(ハー ト)の中で動いている感じがする。[訳者コメント:ちなみに心という漢字はたし か心臓の形象でしたよね]。また、もっと前には、もっと下の腹の中に何かがある 感じがしたものです。昔の人々は、横隔膜や内臓を動かすような考えだけしか意識 していなかったのです。精神を意味するギリシア語のphrenという言葉はdiaphragm [横隔膜]という言葉の語源です。[訳者コメント:精神分裂病 schizophrenia 文字通り phrenが切り裂かれて分裂した病気というわけです]。ものが頭の中を動 いているときには、人々は恐れをなして医者に行きました。何かおかしなところが あるとわかっていたからです。この種の新たな心理がやってきたのは医者のもとか らでした。だからこそ、それはいくぶん病理的な心理なのです。[訳者コメント: 要するに、病気を扱うのが医者の仕事という連想ですね]。
…教会から命が失せてしまい、それはもはや決してそこに戻ることがないでしょう。 神々は、いったん後にした住処に復することはない…。かつてローマ帝国時代に異 教が死滅していったときに、同じことが起こったのです。伝説によれば、二つのギ リシアの島々を過ぎていっていた船の船長が大きな嘆きの声を聞いたのでした―― 偉大なパンが死んだという大きな叫び声を。この男がローマに着いたとき、その知 らせがあまりにも重大だったもので、皇帝を含めた聴衆を集めるよう要求したので す。もともとパンは、主として羊飼いたちを悩ますことに夢中な、取るに足らない 自然の精霊でした。しかし、ローマ人たちがギリシア文化に関わっていくにつれて、 パンは万物を意味するト・パーン to pan と混同されました。パンはデミウルゴス demiurgos[世界の構築者]となり、世界霊 anima mundi となったのです。こうし て、異教の多くの神々が一人の神に集中しました。それから、「パンが死んだ」と いうメッセージが届いたのです。唯一神たる偉大なパンが死んだ。人間だけが生き 残っている。その後、唯一神は一人の人間になり、それがほかならぬキリストでし た。すべての者のための一人の人だったのです。精神[霊]の物質への下降が完結 しました。
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。こうした言葉の悲劇を 完全に理解したいのであれば、そのことが何を意味しているのかがわからなければ なりません。キリストは、自らの最善の確信に基づく心理に貢献した自分の全生涯 が、ひどい幻想だったことに気づいたのです。彼は絶対的な誠実さを持ってフルに 生き、誠実な実験をしましたが、にもかかわらず、それは補償だったのです。十字 架の上で、自分の使命に見捨てられたのでした。しかし、彼は十全かつ献身的に生 きてきたので、困難を切り抜けて復活のからだを手にしたのです。
 私たちはみな、キリストがしたのとまったく同じことをしなければなりません。 間違いを犯さなければなりません。自分自身の人生のヴィジョンを生き抜かなけれ ばならないのです。間違いを避けたらあなたは生きないのです。ある意味で、だれ も真理を発見してはいないのですから、どの人の人生も誤りだと言えるかもしれま せん。間違いを恐れずに自分の人生のヴィジョンを生きるとき、私たちはキリスト が兄弟であることを知り、神は実際人となり給うのです。このことはたいへんな冒 涜のように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。というのは、そのと きにだけ、私たちは、キリストが自分のことを理解されたがっていたとおりに、つ まり、私たちの仲間 fellow man として理解することができるからです。そのとき にだけ、神は私たちのうちで人間になり給うからです。
 このことは宗教のように聞こえますが、そうではありません。私は哲学者として のみ語っているのです。人々はときとして私のことを宗教的指導者だと呼びました。 そうではありません。私にはメッセージがありませんし、使命もありません。私は 理解しようとしているだけです。もし、私たちが言葉の古い意味で哲学者だとした ら、宗教を提供するやからとの同座――それはときとして疑わしいものですが―― を避けることができます。
 そして、最後に諸君の一人一人に言っておきたいことは、たとえそれが誤りに基 づくものだとしても、可能な限り自分の人生を全うして下さいということです。人 生とは未完のものであるはずなのですし、人は往々にして誤りを通じて真理に至る ものだからです。そうすれば、キリストのように、自分の人生の実験を成し遂げる ことでしょう。だから、人間らしくありなさい、理解を求めなさい、自分の仮説を、 自分の人生の哲学を作りなさい。私たちがあらゆる個人の無意識のなかに生きてい る精神を認識するならば、そのとき私たちはキリストの兄弟となるのです。

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