Analytical Psychology

ユングのAnalytical Psychology (1925), Princeton, Princeton U.P., 1989), p.96-98からの拙訳です。
ユングが自身の体験を語っている数少ない著作のひとつです。
邦訳のない著作なので、重要な箇所を訳出してみました。
ユングネット会員のWさんとYさんによる訳文を参考にさせていただきました。(_ _)



すでに私は老人(エリヤ)と興味深い会話をしていた。期待にそぐわず、老人は私の考えにはいくらか批判的な態度をとっていた。私が思考を私自身が生み出したかのように扱っていると彼は述べた。
しかし、彼の視点によれば、思考というものは森の中の動物たち、部屋の中の人々、あるいは空中の鳥たちのようなものであった。「もしも、あなたが部屋の中の人々を見たら、あなたは自分がこの人々を作ったとか、自分がこの人々(の存在)に対して責任を持っているとは言ったりしないであろう」と彼は言った。
このとき本当に私は心理学的な客観性とは何かを学んだ。このときから、私は患者に「静かにしなさい、何かが起きている」と言えるようになった。家の中にネズミがいるのと同じである。
自らに思考があることを間違っているということはできない。
無意識を理解するために、私たちは自らの思考を出来事として、現象として、眺めなければならない。私たちは完全な客観性を持たなければならないのである。

二、三日後の夜、、私はこのことには続きがあるに違いないと感じた。そして、再び同じ手順を繰り返したが、下降は生じなかった。私は表層にとどまったままであった。
そのとき、私は自らの中に下降に対する葛藤があることに気づいた。それが何であるのかは理解できないが、二つの暗黒の原理、二匹のヘビが互いに争っているのを感じた。ナイフの刃のようなうねをもつ山があり、その山の片方の麓には日の照る砂漠が広がり、もう一方は暗闇だった。日の照る側に白いヘビが見え、闇の側に黒いヘビが見えた。二匹のヘビは山のうねのところで戦いはじめ、恐ろしい争いが起こった。最後には、黒いヘビの頭が白く変わり、敗北し去っていった。
私は「これで先に進める」と感じた。すると、老人が岩山のうねの高いところに現れた。私たちが岩山を登っていくと、岩が大きな円形に積まれている、巨大な壁にたどり着いた。私は「ああ、これはドルイド教の聖地だな」と思った。私たちは入口から入り、石で積まれたドルイド教の祭壇がある、広い場所に出た。老人は祭壇の上に登った。彼が小さくなりはじめるとともに、祭壇もまた小さくなっていき、その間、周囲の壁はどんどん高くなっていった。そのとき、私は壁の近くに小さな家があり、人形のようにとても小さな女性がいるのを見た。この女性がサロメなのがわかった。そしてまたヘビを見たが、そのヘビもとても小さかった。
壁はどんどん高くなり続けた。私は自分が地下世界におり、壁は火口の外壁であり、これはサロメとエリヤの家であることがわかった。わたしは大きくならず、自分自身の大きさを保っていた。
壁が高くなっていくとともに、サロメとエリヤも少しだけ大きくなった。私は世界の底にいることがわかった。エリヤは微笑みながら「そう、上であろうが下であろうが同じことだ」と言った。

そして、最も不愉快なことが起こった。サロメは私にたいへん興味を抱き、私が彼女の盲しいを癒すことができると考えた。サロメは私を拝み始めた。「あなたはなぜ私を拝むのか」と私は言った。
「あなたはキリストです」と彼女は答えた。私の反論にも関わらず、彼女は主張を変えなかった。私は「気違い沙汰だ」と言い、猜疑心と反感がつのってきた。そして、ヘビが私に近づいてくるのに気づいた。
ヘビはどんどん近づき、私をとぐろで巻き締めつけた。とぐろは心臓に達した。もがいているとき、自らが十字架の刑の姿を取っていることに気がついた。私は苦悶の中で、体中からあふれだすほどの汗をかいた。
そして、サロメは起き上がり、目が見えるようになった。ヘビが私を締め上げているとき、私は自分の顔がライオンや虎のような肉食獣の顔をしているように感じた。

これらの夢の解釈は以下のとおりである。まず最初に、二匹のヘビの争いは、道徳的な側面をともなったものであるが、白いヘビが昼への動きを意味し、黒いヘビが暗闇の王国への動きを意味している。実質的な争いは私の内部にあり、それは下降することに対する抵抗だったのである。私にはより強く上昇しようとする傾向があった。私が以前に見た場所の冷酷さに強い印象を受けていたので、山に登ったように、私には上昇による意識への道を探し求める傾向があったのだ。
山は太陽の王国で、円環状の壁は容器であり、その中で人々は太陽の光を集めるのである。

エリヤは上昇も下降も同じだと言っていた。これはダンテの『地獄編』に比較することができる。グノーシスはこれと同じ考えを逆さの円錐で表現する。
このように、山と火口は似ている。これらの幻視の中に意識的な構成は何もない、これらはただ単に生じた出来事なのである。ダンテは同じ元型から着想を得たのであろうと私は考えている。
私は患者たちの中にこれらの考え――上向きと下向きの円錐、上のものと下のもの――があらわれるのをしばしば見てきた。

サロメの私へのはたらきかけと私への崇拝は、明らかに悪のオーラにとりまかれた劣等機能の一面である。私はサロメがほのめかしたことはもっとも邪悪な呪文であると感じた。人は、これがおそらく狂気だという恐怖に襲われることがある。狂気はこのようにして始まる。これこそが狂気なのである。

(中略)

このような無意識における事実を意識するためには、無意識に対してあなた自身を捧げなければならない。無意識に対する恐れを克服し、自らを下に向かわせることができるならば、これらの無意識における事実はそれら自身の生命を持つことを知るだろう。これらのイメージに支配されて、本当に狂ってしまうか、ほとんど狂ってしまうこともありうる。これらのイメージはたいへん強い現実感を持ち、自らを強く自己主張し、その並はずれて強い意味によって人を捕らえるのである。これらのイメージは太古の秘儀の一部を形作っている。実際にこれらの像こそが秘儀をつくるのである。アプレイウスが語るイシスの秘儀を、イニシエーションと神との一体化の秘儀と比較するとよい。

秘儀、特に神との一体化の秘儀は畏怖に取り巻かれている。このことは秘儀の最も重要な点の一つである。それは人に不滅の価値――不滅についての確信を与えてくれる。こうしたイニシエーションを経ることにより、人は独特の自覚を得る。

神との一体化を導いた最も重要な部分は、ヘビが私を締め付けたという点である。サロメの経験は神との一体化であったのだ。私の自分自身の顔が変形したと感じた動物の顔は、ミトラ教の有名な像、神(ゼウス)レオントセファルスであった。これは体にヘビが巻き付いた男の像で、ヘビの頭は男の頭の上に置かれており、男の顔はライオンである。
この彫像は秘教の洞窟寺院(地下教会、つまり地下礼拝所の遺跡)のみから見つかっている。
地下礼拝所は、もともとは隠された場所ではなかったが、地下世界への下降の象徴として考えられていた。
殉教者と一緒に埋められた聖者が大地の中へと降りていき再び復活することは、古代の観念の一部でもある。
ディオニソス教の秘儀にもこれと同じ考えがある。


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