自己というユングの思想
― その根底にある経験に照らして
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[演題] 自己というユングの思想 ― その根底にある経験に照らして
[講演者] Wolfgang Giegerich(京都大学客員教授、ユング派分析家)
[通訳] 河合俊雄(京都大学助教授)
[司会] 樋口和彦(京都文教大学学長、ユングクラブ会長)
[場所] 京都文教大学 同唱館
[時間] 1999年6月6日(日) 講演 PM1:30〜4:00 質疑応答 PM4:10〜4:45
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【講演内容】
『自己というユングの思想 ― その根底にある経験に照らして』
ヴォルフガング・ギーゲリッヒ
ここではユングの自己という概念について解説するのではなくて、自己につ
いてのユングの考えを、根底にある経験から再構成してみたい。「根底にあ
る」とは1.自己という観念の経験(経験から生じた理論ではなくて)、2.
この経験の背景にあって、それに先立つ経験の二つを意味している。
1.先立つ経験
これは二つの経験から成り立っていて、一つは神話が過ぎ去ってしまったと
いう経験からユングの思想が出発していることである。もう一つは、東アフリ
カにおいてユングが動物の大群を見たときの経験である。意識は世界の第2の
創造主で、神によって未完のままになっている世界をはじめて完成させるので
ある。これに対してユングは、この洞察によって、ついに自分自身の神話を見
出したと語っている。
これにもかかわらず、神話の喪失というもともとの経験は解消されていず、
むしろ続いていっている。なぜならば二つめの経験を厳密に分析してみると、
それが神話的でないことがわかるからである。ユングは現象を内的で神的なイ
メージとして見ているのではなくて、現象から離れて自分自身、主観、意識ヘ
と反省(reflect)している。経験はイメージ的でなくて反省(reflection)、
考えである。そして経験ははっきりとした抽象によって得られている。神話的
な世界は「この世界が存在するという知識」ヘと抽象化されている。ユングの
経験には意識という革命的なものが認められるのである。
この革命のせいで、ユングは自分の経験において「最初の人間」となる。最
初の人間とはアダムという意味でもあって、神の被造物である。意識を持つも
のとしてユングが世界の第2の創造主であると同時に第1の人間であるのなら
ば、意識という革命によって神と人間、創造主と被造物の関係がいかに逆転し
て、弁証法的になるのかがわかる。こうして人間の概念も変化して、有機体と
して存在するだけでは本当の人間ではなくなる。人間になるとは、自然に反す
る作業として一つの課題であって、「これが世界なのだ」という世界を創造す
る「知識」によってはじめて成就されるのである。
2.自己という理論の根底にある経験
1900年間に渡って自己がキリストに投影されてきて、それによって自己
というのが実際の人間から奪われてきたとユングは批判している。こうして自
己という経験、つまり対立物の結合ができなかったという。自己の経験が対立
物の結合だとすると、ユングが反省という抽象的なレベルにいることがわかる。
統一性や対立は反省された概念であって、たまたま対立している具体的なもの
についての概念でない。もはや感覚的やイメージ的なものの領域にはいないの
である。
「自己としてのキリスト」は投影ではない。さもないと「愛としてのアフロ
ディテ―」も投影になろう。「自己としてのキリスト」とは、神話的思考によ
れば人格化である。他の現象には認められることを自己に関しては禁じている
というのは、自己というのが特別なものだからである。自己とは「・・自身」
であって、対象化したり、イメージしたりできない。なぜならばそうするとも
はや「・・自身」ではなくて、他者になってしまうからである。私はそれ自身
でなくてはならない。私は自分自身を対立物の結合として把握せねばならない。
つまり1.私は自分自身と同一ではなくて、自分自身の対立、矛盾であって、
2.この対立あるいは他者がまた私自身であり、3.私は1と2の統一である。
だから自己とは本質的にイメージできないものである。イメージ的で神話的な
次元は過去のものになっている。自己という考えによって、ユングは論理的な
次元に本来いることになる。
自己の実現は自我の死を前提とする。錬金術におけるそれに対応するイメー
ジが「浴槽への浸礼」である。浴槽につかり、沈んで消滅せねばならないのは、
人格としての私ではなく、かくかくしかじかの本質を持った、存在する実体と
して定義された自我なのである。自然な見方からすると第一のものである実体
や存在するものが、それの概念や本質(第二のもの)へと、論理的生命の流動性
へと消失せねばならないのである。
そうすると、ユングは自己という考えの経験に忠実でなかったことがわかる。
彼の抵抗は、様々な領域で見られる。方法論的には彼の経験主義に、理論的に
は心理学の基底としての人格へのこだわり、内容的には三位一体との戦い、思
考の形としては本来の思考にかかわり合うことの拒否にである。だからユング
は、自己の心理学をイメージのレベルでまだ扱おうとした。それは自己という
のは対立物の結合という古くからの経験をイメージのレベルから論理的な動き
のレベルへと移そうという要請にほかならず、論理的な動きとしてしか「・・
自身」という形をもてないにもかかわらずにである。
(訳:河合俊雄)
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Wolfgang Giegerich, "Jung's Thought of the Self in the Light of Its
Underlying Experience" 199/6/6
資料
"But in what myth does man live now adays?" -- "In the Christian
myth," the answer might be. -- "Do you live in it?" something in me
asked. -- "To be honest, the answer is no! It is not the myth I live
in " -- "Then do we no longer have any myth?" -- 'No, evidently we
no longer have any myth." -- "But then what is your myth? The myth
in which you do live?" At this point the dialogue with myself became
uncomfortable, and I stopped thinking. I had reached a dead end.From
C.G. Jung, Memories, Dreams, Reflections, close to the beginning
ofCh. VI,p. 171 Vintage Books edition(transl. slightly altered
according to the German original)
「でも今日の人間はどのような神話に生きているのであろうか。」―「キリス
ト教神話の中で」というのが答えかもしれない。―「おまえはその神話の中で
生きているのか。」私の中の何かが尋ねる。―「正直なところ、答えは否!だ。
それは私の生きている神話でない。」―「そしたら我々はもはや神話を持たな
いのであろうか。」―「そうだ、確かに我々は何の神話も持っていない。」―
「ではおまえの神話は何か。おまえがその中で生きている神話は。」ここまで
至ると、自分との対話は心地悪いものになり、私は考えるのをやめてしまう。
私は袋小路に至ったのである。
To the very brink of the horizon we saw gigantic herds of animals:
gazelle, antelope, gnu, zebra,warthog, and so on. Slowly moving,
grazing, heads nodding, the herds proceeded in an incessantstream.
There was scarcely any sound save the melancholy cry of a bird of
prey. This was the stillnessof the eternal beginning, the world as
it had always been, in the state of non-being; for until then noone
had been present to know that it was "this world". I walked away
from my companions until I hadput them out of sight, and savored the
feeling of being entirely alone. In this moment I was the firstman
[Mensch] who recognized that this was the world and who had created
it in this moment throughhis knowing.
There the cosmic meaning of consciousness became overwhelmingly
clear to me. ... It was onlyman, I, who in an invisible act of
creation gave to the world what made it complete, objectiveexistence
[das objektive Sein]. .....My old Pueblo friend came to my mind. He
thought that the raisondtetre of his pueblo had been to help their
father, the sun, to cross the sky each day. I had envied himfor the
fullness of meaning that his existence had and had been looking
without hope for our ownmyth. Now I knew it, and knew even
more: man is indispensable for the completion of creation; infact,
he himself is the second creator of the world, who alone gives to
the world its objective existence,without which it would, unheard,
unseen, silently eating, giving birth, dying, heads nodding,
havegone on through hundreds of millions of years in the profoundest
night of non-being to its unknown end.
From C.G. Jung, Memories, Dreams, Reflections, Ch.IX
p.255f. Vintage Books edition
(transl. altered according to the German original)
(Bold print not in the original)
地平線の遥か彼方まで、動物の大群が見えた。ガゼル、玲羊、、ウシカモシカ、
シマウマ、イボイノシシなどである。ゆっくりと流れるように、草をはみ、頭
を上下にふりながら、群は動いていって、ある猛禽のメランコリックな叫びし
か聞こえないくらいであった。それは永遠のはじまりの静けさで、いつも既に
そうであったような非−存在の状態での世界であった。なぜならばほんの少し
前までは、「この世界」があることを知っているのは誰も存在しなかったから
である。私は同行者が見えなくなるところまで離れていって、そこで独りぼっ
ちの感じを味わった。そのとき私は、これが世界であることを認識し、自分が
知ることによってこの瞬間にはじめて世界を現実的に造り出した最初の人間で
あったのである。
ここで私には意識の宇宙的意味が圧倒するように明らかになった…人間、つ
まり私が見えざる創造行為によってはじめて、世界を完成させ、世界に客観的
な存在を与える…年老いた、あのプエブロ−インディアンのことが私には思い
出された。プエブロ族の存在理由は、彼らの父である太陽の運行を日毎に助け
るという課題であった。私にはプエブロ族がこのように意味に満たされている
ことがうらやましくて、我々自身の神話を捜してみても絶望的であった。今や
私は自分自身の神話を知っており、しかもそれだけではなくて、人間は創造の
完成に欠くことができず、それどころか世界にはじめて客観的な存在を与える
第二の創造主自身であることを知っている。客観的存在なくして、世界は聞こ
えず、見られず、音もなく食べて、生みだし、死に、頭を上下に振りながら幾
億年も非−存在という深い夜の状態で果てしない終局ヘと向かうであろう。
During 1900 years one has admonished and taught us to project the
Self on Christ, and thus it was simply removed from empirical man --
to his great relief, for in this way he was spared the experience of
the Self, that is, the unio oppositorum [union of opposites].
From a letter by Jung to H. E. Bowman, 18. VI. 1958
(my translation into English from Briefe III, p. 196)
千九百年間の間、我々は自己をキリストに投影するよう勧められ、教えられて
きたので、自己は経験的な人間から全く取り除かれてきた。それは大いに助か
ることでもあって、こうして自己という経験、つまり対立物の結合をせずにす
んだからである。 (邦訳:河合俊雄、ドイツ語版から)
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「第3回国際ユングシンポジウム」のギーゲリッヒ講演会で配布されたレジメより
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