心理学の未来 ――その没落――
    Die Zukunft der Psychologie : ihr Untergang.

                 Wolfgang Giegerich*  河合俊雄**訳

* ユング派分析家(Wdrtsee),Jungscher Analytiker(Wortsee).
**京都大学教育学研究科、Toshio Kawai:Kyoto University,department of
Education.

 心理学の領域において、Freud、Adler、Jungの深層心理学によるパイオニア
的な仕事で希望に満ちてはじまった今世紀の終わつにおいて、(治療的な)心
理学の現在における状況を見てみれば、嘆かわしい状態にある。
 第一に、今は混乱した状況にある。幾百というさまざまな学派、理論、実践
的な手法が、互いに関係なく並んでいて、「学問的」な責任感を有している人
間には耐えられない状態にある。
 第二に、近年において、少なくとも西洋においては、深層心理学の信憑性に
対して全般的に異議が唱えられている。精神医学と心理学における専門家の意
見は、ますます生物学的(遺伝学的で生化学的)な見方と治療法に傾いている、
生物学的な精神医学の評判が高まれば高まるほど、Freudは非難され、非常に
わくわくさせるフィクションをねつ造したことによって、科学的な心理学とい
うよりは芸術や通俗文学の領域に属しているとみなされている。
 深層心理学、とくにJung的な方向に忍び寄る第三の危険性は、通俗化であり、
その結果として生じてくる内容の希薄化である。これは最後には専門的な心理
療法と心理学的な理論にもはねかえってくることになるので、非常に危険であ
る。根源的な変化が起こっている不確かな時代のまっただ中において、個人的
な世界観を求める気持ちを満足させようとして、通俗化(ポップ心理学)の進
行とともに、迷信、秘教、あるいは少なくとも心理学を非合理的に濫用するこ
とへの境界は曖昧になる。
 第四に、深層心理学は「国家」というまったく異なる側から圧力を受け、脅
かされている。予算が少なくなっていく時代において、一方では社会保証のお
金は節約されねばならない。しかしながら他方で、国民が十分に治療を受けら
れることは保証されねばならないのである。このことは、これまでいわば「無
法に」行われてきた心理療法を法的に裏づけて、国家としてコントロールし監
視しようとする圧力が強まるのと相まって、一方では政治的な必然性、他方で
は心理療法家の生活不安のせいで、お金が中心的なテーマとなって、それにあ
らゆる専門的なテーマは従属せざるをえなくなって、さまざまな心理療法の方
向の間で「分け前を巡っての戦い」が行われるというのに至っている。この結
果として心理学にとって害になるような官僚主義が生まれるだけではなくて、
心理療法の諸学派は好ましくない、外的な正当化の圧力にさらされることにも
なる。つまり心理療法は純粋に技術的な考え方の精神に則って、統計的な研究
と「成功」に関する外的(非心理学的)な定義に従って、自分の有効性を証明
せねばならないのである。それは心理療法の領域で影響力を及ぼしている人々
の精神的態度に害を与える結果になる。つまりそのような人々はますます心理
学の学問化と技術化の傾向に巻き込まれていってしまうのである。しかしなが
らそのような傾向と、心理学と心理療法の本来の課題とは正反対のもので、そ
れはまさにテクノロジーと資本主義が絶対的に支配する時代においても、この
まったく別のもの、魂の面倒をみるということなのである。
 確かに暗い見通しである。これだけで十分に「21世紀の心理療法」を絶望的
気分で予見し、その没落を予言できるであろう。1927年にFreudが宗教に関し
て「幻想の未来」ということを語らねばならないと思ったのは、気づかなかっ
たけれども、実のところそれは精神分析と心理療法自身の未来についてのこと
だったのかもしれない。深層心理学的で治療的な心理学の試みはすべて、一つ
の虚構であったことがわかるかもしれない。しかしながら筆者は予言者などで
はない。驚くような転換というのが繰り返し生じるものなのだ。心理学の本当
の運命はわからないであろう。
 それゆえにここで未来についての予言をあえて行うつもりはない。それでも
眼差しは前へ投げかけたい。けれどもそれは文字通りの、事実的なレベルとし
ての時間の前へではなくて、未来という概念自身を心理学化しつつ、心理学の
内的なテロス(引用者注1)、本質的な規定へと前に投げかけられるのである。
テロスは外的−時間的なものではなくて、本質的(論理的)に理解された未来
なのである。世界における心理学の実際の現実状況によって惑わせられること
なしに、そのような思考の方向があリそうにないと惑わせられることなしに、
治療的な心理学が筆者の確信しているところによれば未来に向かって進んでい
くはずの軌道を描いてみたい。表現を変えれば、心理学の本質から生じてきて、
それと向かい合わないといけないような未来の課題を言葉にしたいのである。
心理学が実際にこの道を進むかどうか、この課題と取リ組むかどうかはわから
ないのである。
 この道はどこに至るのであろうか。治療的な心理学が21世紀に直面せねばな
らないテロス、課題とは何であろう。先に、心理療法の現在の状態は、次の世
紀における没落を予言する理由となりうると述べた。ここで、自分の没落への
道を進むことが、まさに心理学の課題であろうというテーゼを掲げたい。この
「没落」が、先に言われたものとは異なるのは自明のことであろう。先には没
落ということで、治療的な心理学はまったくもう終わりで、過ぎ去ってしまっ
たことを意味していた。今はまさに正反対のことが主張されていて、この没落
に心理学の真の未来があるというのである。以下の議論において、心理学が成
就し、自分のテロスを達成するような没落とは何かを論じることが課題となる。
 このテーマと取リ組む前に、このテーマに接近するための自分の立場と出発
点を説明せねばならない。研究に関して今日一般的に支配的な見解は、学際的
なものでなければならないというものである。学問やビジネスの実践において、
チームでの作業がなされるように、重要な問題はすべて、分野をまたがって取
り扱われねばならないというのである。それどころかわれわれの時代は、閉じ
られたシステムに対して、根本から断固として反対する態度をとり、多様性、
複数性、基本的に開かれた理論を擁護するのである。ある中心を信じることは
いかなる場合であってもタブーである。それに対して「ディセミナシオン(引
用者注2)」や「差異」が今日の合い言葉である。
 心理学の学派が多いことからして、まさにこのような意味でなるべく多くの
理論的方向や実践的手がかりを考慮して、それぞれから役に立つことや確かで
あるとわかったことを合わせて、それぞれの方向の偏りを修正するのが当然の
ことであると思われるかもしれない。実際のところ、まだ何十年か前にはさま
ざまな心理学的学派の間では区別し合うこと、それどころか敵対や競争がいそ
しまれていたのに対して、今日の深層心理学ではむしろ学派の境界を超えての
相互理解が求められている。
 このようにオープンでコミュニケーションに開かれた姿勢は人間的に美しい
けれども、深層心理学での折衷的な試みには本能的に、そして理論的な確信か
らして賛同するわけにはいかない。むしろ筆者ははっきりと一面的であること
を自認したい。左右で言われたり、為されたりしていることに惑わされず、自
分の属している理論や学派を本当に真剣に受けとめて、自分の立っている一点
で、ますます深くに入っていきたいのである。生け垣の向こうに眼差しを投げ
かけること、未知の分野へ拡大していくこと、自分自身のディスクールをまわ
りの多くのディスクールと比較し、媒介することは、深層心理学の本質的な動
き方ではありえない。心理学的思考の動きは、自分自身(根底にある発端)の
内へとさらに否定的に内面化するという意味での想起(Er-Innerung)でしか
ありえないのである。その際に自分自身の発端に隠れていて、またそれと現実
的に行うこととの間に潜む矛盾は、いわば深みへ導いてくれる梯子の段なので
ある。
 筆者の立っていて、それゆえにそこから(その内で)ここでの議論の対象と
なるテーマを扱う土台というのは、Jung心理学である。これは筆者の「ここが
ロドスだ、ここに飛べ」である。したがって筆者はまったく内在的に議論をす
すめることにする。
 実際の深層心理学の動いていく方向を述べることで、心理学のテロスである
没落のまずおおよそのではあるけれども、決定的な規定を思わずしてしまった
ことになる。それは心理学固有の内面、その内的な根拠、概念、その本質への
心理学の没落、あの否定的な内面化という意味での想起(Er-Innerung)なの
である。まさに自分自身の内的根拠、あるいは深淵への動きということに、心
理学の特徴があり、心理学をはじめて心理学たらしめ(るかもしれず)、そし
て常に外の対象、他者に向かっている学問の世界や人間のいわゆる日常的な生
活世界から根本的に区別する(かもしれない)ものがある。その限りにおいて
左右を見渡すことなく、自分の属する心理学の方向に添って落ちていくという
筆者の決断は、私の没落であり、没落の第一歩なのである。
 没落なくしては心理学はありえず、心理学は行動主義以上のものなのである。
なぜならば一体どこに内面性、「魂」があリえようか。われわれはある物とし
ての「魂」、背景での秘密に満ちた現実性としての「無意識」、文字通リにあ
る人間の中にある(頭に?皮膚で覆われた身体に?)「内面」を信じることが
できた意識の段階を超えているのである。内面、深み、あるいは魂は、心理学
自身が自分固有の内的根拠に没落するときにのみ存在し、つまり目の前にある
場所や目の前にある物ではなくて、(論理的な)動きとしてのみ存在するので
ある。魂とはあらゆる現実の内面であり、しかも「内から生じたもの」という
意味での内的なものである。しかしながら心理学は、自分固有の内的根拠へと
没落して「内的なもの」に至り、内面性を自分の原理にしたときにだけ、内か
ら見ることができるのである。内面性は否定的にだけ達することができ、自分
自身の内的根拠へと没落し、墜落することによってだけ達成することができる。
それに対して外から実体的に入っていく(あるいは見入ったり、感情移入した
りする)のはすべて、外的にとどまるのである。
 内的な根拠への本当の墜落は、C.G.Jungの心理学の最初にある。Jungの心理
学的な態度はすべて、彼が自分の没落に引き続いて経験したことに基づいてい
る。Freudとの別離の後、Jungは方向喪失の時期を迎え、凄まじい内的圧力と
ファンタジーの嵐に見舞われた。Jungの状態は「創造的な病い」(Ellenberger)
とも、「比較的長く続いた精神病的な反応」とも解釈できるのである。『自伝』
ではJungの没落は次のように記されている。

 「私を冥界で動かせているファンタジーを捉えるために、私はいわばそこに
 落ちていかねばならなかった。それに対して抵抗を感じたのみならず、紛れ
 もない不安を感じた。私は自己コントロールを失い、無意識の餌食になるの
 ではないかと恐れた。それが何を意味するかは、精神科医である私にはあま
 りにも明らかなことであった。それでも私は、このイメージを我がものとす
 るように敢えて身を賭けねばならなかった……
  決定的な一歩を踏み出すことを決意したのは、1913年の降臨節の頃であっ
 た(12月12日)。私は自分の書き物机に向かっていて、もう一度自分の危倶
 について考えてみて、それから自分が落ちていくのに任せた。それは、足下
 の大地が、文字通りの意味でなくなって、自分が暗い深みに音を立てて落ち
 ていくかのようであった。私は恐怖感を抑えることができなかった。」

 しかしながら深みへの墜落は、恐れていた文字通りの破滅には至らなかった。
「けれどもとてもほっとしたことに、突然、そしてあまり深く落ちないうちに、
柔らかくむっとするような塊のところで立つことができた。」あるヴィジョン
がはじまって、後にそれに多くのものが続いて、その経過のうちにファンタジ
ーの中のフィレモンというある特定の像にJungは自分の「グルー」、自分を心
理学へとイニシエートした師匠のようなものを認めるようになった。つまり彼
がイメージの現実性、心的現実の概念を教えてくれたからである。また没落は
1回きリのものではなかった。むしろJungは繰り返し、没落という表象を、内
的深みへ参入するための方法論的な助けとして用いているのである。

 「ファンタジーを捉えるために、私はよく下降をイメージした。一度などは、
 深みに至るために何回も試みねばならないことさえあった。1回目に300メ
 ートルの深みに到達し、2回目にはもう宇宙的な深さだった。それは月への
 飛行のようでも、虚無への下降のようでもあった。まずクラテル(瓶)のイ
 メージが現れ、自分は死者の国にいるという感じがした。」

 下降は、冥界への下降であることがわかったのである。
 それにもかかわらず、Jungの体験したことは、そこに心理学の未来がかかっ
ていると言われた意味での没落なのかどうかを問わねばならない。間違いなく
そうではない。心理学的に重大な欠陥がいくつか見てとれるのだけれども、そ
れらはある一つの根源的錯誤のさまざまな局面であるにすぎないのである。
 Jungは墜落の必然性を個人的に受け取り、この課題と同一化した。しかしな
がらそれによって、墜落とそれに続いて生じたことは彼の私的で個人的な次元
に押し込められ、本来求められていたもの、つまり真の、論理的な没落、心理
学の自分の根拠への没落は、避けられてしまったのである。Jungは没落を体験
レベルで行動化してしまった。Jungは没落を自分に引きつけてしまい、自分の
ものにしてしまって、イマジネーション(ヴィジョン)の中で文字通りの情動
的体験として行ってしまい、そのために心理学が没落を自分で経験することを
妨げたのである。したがってJungの没落は彼の個人的な伝記にだけ属すること
で、彼自身にとってだけ意味のあることだけれども、心理学とわれわれにとっ
ては、今日において「情報」と呼ばれるような、単なる興味深いニュースに過
ぎないのである。後にJungが他の連関で再三再四かかげた、自分を元型的な観
念(ここでは冥界への下降という観念)から区別せねばならないという要求は、
自分自身からして遵守されていないのである。「にもかかわらず私はこのイメ
ージを敢えて我がものにするように努めねばならなかった」とJungが回顧し、
「無意識の餌食となること」を恐れたと述べていることからすると、いかに
Jungにとって無意識が戦うべき怪物として想定されているかがわかる。それは
冥界に直面してのヘラクレスのような態度とJungが同一化していることから明
らかである。
 確かにこの時期の深い経験を、シャーマンの巫病と類似した「創造的な病」
と呼んでもいいかもしれない。しかしながら、そうするとすでに厄介なことに
かかわっていることになる。本当にそのような「病気」が問題になっているの
ならば、Jungは芝居をしてみせたことになる。(自分自身も「無意識との実
験」と言っている。)個人的に体験されるイニシエーションは、まだ人格それ
自体が象徴的であって、もっぱら出来事の中にとけ込んでいて、出来事に対し
て向かい合っているのではないような心的な段階においてのみ、正当と認めら
れるのである。つまり人がまだ純然たる仮面の担い手で、現れの単なる場所で
あるようなときである。人間が自我人格になってしまって、あらゆる出来事に
直面して確固として続く固有の同一性を要求するならば、つまり自分自身の人
格を文字通りのものとしてみなすならば、「イニシエーション」を体験せねば
ならない主体であるとみなすのが不可能な意識レベルに達してしまっているの
である。(異教の時代のように、太陽、月、あるいは他の自然物に本物の神々
や霊を認め、祈ることが、今日において心理学的にもはや適切でないのとまっ
たく同じである。)イニシエーションをまだ個人的に体験したいと思うことは、
今や退行的なのである(それが精神的な娯楽に役立つシミュレーションでない
限りにおいてである)。
 かつてイニシエーションの過程であったものの場所と主体は、今やロゴスで
ある。つまり心理学が(それとともに意識が)その内的根拠、その概念へと没
落することが重要なのであって、Jung、つまり心理学者や患者(被分析者)が
自分の個人的無意識へと没落することが問題なのではないのである。心理学が
没落の真の主体なのである。これが第一の論点である。二つめのことは、論理
的な形式にかかわっている。つまり没落は時間の中における特別な行為、出来
事、体験ではなくて、心理学の論理的な「構造」、意識の論理的な形式、つま
り統語論的でなくてはならないのである。まだ情動的に体験され、イメージの
過程として表象され、内的な冒険として行為される限りは、まだ意味論的、内
容的、対象化されたままで、つまるところ外在化されて、心理学的でないので
ある。三つめのことはどこに没落するかに関係している。Jungはまだ外的な、
空間的な深さに基づいている(「月への旅行のようであった」)。つまりJung
はまったく内面性に基づいているのではなくて、まさにそこから外へ落ちてい
るので、最初のヴィジョンにおいてある、土台に降り立ったのである。その土
台はJungにとって他者であり、未知のものであって、それを自分の外的な基礎
として文字通りに(自分の足で)立つようになったのである。したがって没落
は心理学的で、自分自身の内的なものにまだまったくなっていないのである。
心理学的な土台とは、文字通りの基礎、足のための土台ではなくて、止揚され
た土台であろう。つまり概念であり、内的な本質であり、自分を満たし、活き
活きとさせ、導き、そのような意味においてだけ「支えて」もくれる精神なの
である。
 墜落のヴィジョン自体の内在的な論理を超えて、こういう形での冥界への下
降の理由と必然性について考えてみるのは意味のあることである。Jungの視点
からすると、彼の当時の状況は、自分が危険なほど無意識的な情動に襲われて
いたので、その中に潜んでいるファンタジーの内容を捉え、精神病になること
を免れるためには、あえて没落をせねばならなかったというものである。しか
しながら筆者には、この解釈を頭から信じてはいけないように思われるのであ
る。つまりこの解釈は、この危機自体の精神に由来していて、この精神の単純
な自己分節化として、危機を正当化しているだけなのである、しかしながら
Jung自身も知っていたように、心的な危機自身から生まれた「判読」(今日な
らおそらくイデオロギーと言われるであろう)にだまされてはいけなくて、そ
れを見抜いていかねばならないのである。ここでは、Jungが示している連関を、
まさにひっくり返すことが重要である。つまりJungが人格主義的な偏見にかた
まっていて、個人としての自分が心理学的なものの真の主体と同一視している
ことによって、そもそも精神病の危険が生じたのである。自我人格が心的な過
程の真の主体と同一化することによってはじめて、Jungはそれほどもの情動と
イメージに陥ったのだと言えるかもしれない。イメージを支配するためにあえ
て没落を試みることによって、Jungは人格主義的な偏見だけを正当化して、こ
れに相応して同じ土台の上を動き続けることになった。Jungをむさぼり食いた
い猛獣のような「無意識」によって最高の個人的な危険にさらされたのではな
くて、危険にさらされた理由は、人格が真の主体であって、魂の関心を自らの
うちに包摂せねばならない枠であるとしてみなす非反省的なドグマのせいなの
である。表現を変えるならば、魂の生活を現代の、すでに文字通りに受け取る
人格という狭い器に心理学的に押し込めることによって、逆に心的な内容を、
その結果として人格を打ち壊しそうになる「無意識」という形になるように強
いるのである。
 Jungの視点からすると(また「比較的長く続いた精神病的な反応」という診
断をした臨床的な観点からしても)、危機は自然の現象、単に事実として与え
られたもの、運命的な出来事であって、そうするとこの危機に耐えられるかど
うか、いかにして耐えられるかだけが問題になる。それに対して筆者は、情動
やイメージによって悩まされること、つまり危機の登場は、簡単に所与の事実
として受け取られてはならず、それ自体心理学的に理解せねばならないと考え
ている。つまり「自然の必然性」ではなくて、魂によってその必然性だけから、
いわば「人工的」に定立され、演出されたものなのである。そのように目的の
ために作られたもの、文字通り「虚構の」障害、つまりある決まった目的のた
めに引き起こされたものとしてみなされるならば、当時のJungの危機は、真に
心理学的な危機であって、非心理学的で経験的な、彼個人に存する条件によっ
てではなくて(たとえば体質的な要因、早期幼児期における運命、ある特別な
家族的布置による特徴)、純粋に心的で、論理的な目的によって引き起こされ
たものになる。
 そうすると何が問題であったのであろう。神話を研究しているうちに、Jung
はある認識に到達して、それはとくに彼の著書『リビドーの変容と象徴』の
「犠牲」という章で用いられ、それでFreudとの友情を失うであろうことが
Jungにはわかっていた。Freudとの断絶によって、Jungは精神的に孤立し、自
分自身に投げ返されただけではなかった。自ら告白しているのによると、理論
が「生活様式」であって、「食べ物や飲み物のように必要な」Jungにとって、
Freudとの個人的な仲違いよりももっと甚大だったのは、その認識のために自
分もまた根本的な理論的葛藤に陥ったことであった。Jungの認識を今になって
記述してみるならば、自分自身における心的なものが、a)精神的で、b)歴史
的で、c)「神学的」で(神という表現を用いる)、d)無限であることをJung
は認識したのである。この発見は心理学の自然科学的な把握にとって壊滅的な
ことであった。けれども、自分の新しい見解のために個人的なレベルでFreud
との友情を犠牲にする覚悟があったのにもかかわらず、理論的なレベルでは、
Freudやその時代と共有していた自然科学的な信仰告白を断念することは完全
に除外されていたのである。この理論的犠牲をJungは払おうとしなかった。同
じようにして、心的なものの本質についての確信もまた犠牲にすることができ
なかったのである。
 理論が「自分の生活に属している存在形式」である人間にとって、精神的な
ジレンマはあまりにも恐ろしいものであったので、意識的に明らかにさえなっ
てはならなかったのである。筆者の考えるところによれば、このためにJungの
当時の「方向喪失感」が生じたのである。そうすると葛藤は、覚醒した悟性と
精神的な責任感なしに、意識下で抱えられねばならず、あるいはむしろ抱えら
れず、片づけられ、害のないものにされねばならなかったのである。ではそれ
はどのようにしてか?
 まさにあの危機、「創造的病」、「比較的長く続いた精神病的な反応」であ
る。この危機は儀式として理解されるべきなのである。儀式とは、意識的思考
にならないところでの、現実の本当の論理的(技術的、実際的などでない)変
容のための方法である。ここでの儀式の課題は、精神的で「神学的」なものと
して本質的に無限で把握できず、実体化できない(論理的に否定的)ものとし
てJungが発見した心的なものの性質を、人格の中へ、いわゆる「内的なもの」
へと入れてしまい、そこでこの人格のいわゆる無意識として閉じこめ、このよ
うにして論理的に固定してしまうことなのである。Freudの無意識は元から生
物学的なものであった。それに対してJungは、心的なものを「宇宙的な」スケ
ールを持った精神的な「世界」として経験していた。それが彼の真理であった
のである。だからこそJungにとってこの心的なものは、後から論理的に、「人
格」に支配され、その中で監禁されねばならなかったのである。そのために
「精神病的反応」が必要だったのである。精神病によって経験的なレベルで、
個人的にきわめて危機に瀕することは、無限な心的なものを「内的なもの」と
「無意識」へと本当に論理的に弱めることに役立ったのである。自分の人格が
爆発するという危険にさらされることによって、心的なものは論理的に人格に
閉じ込められ、人格によって取り囲まれ、人格を内からだけ脅かすということ
を、Jungは自分自身にも他人にも、まったく確信をもって証明できたのである。
 このようにしてJungは自分のジレンマを解決することができた。今や「無意
識」は自然の力として定立され、人間の内面から作用している自然のものとし
て、それは経験の対象となり、実体化でき、純粋に「客観的」になる(Jungに
よる「自律的な無意識」、「客観的な魂」)。経験の対象や自然の力としての
無意識は個々人の意識を経験的に危険にさらすけれども、心理学の自然科学的
なあり方、知識の形式全般を論理的に脅かすことはできない。心理学は「無意
識」に対して、論理的に感染されないことになる。これが一面、つまり「統語
論」や「論理的形式」の側面である。しかしながら同時にこの無意識は「意味
論的」で内容的に、つまり論理的に制御された後で、客観化によってなされた
境界の内側において、無限のスケールを持ち、欠けることのない神的な意味を
持ったあの精神的な世界となりうるのである。それに従って論理的に感染しな
いようにされた意識は、無意識のこの内容的な側面から非常に深く経験的−体
験的レベルで感動し、揺さぶられることができる(それどころがある意味では
そうせねばならない)のである。
 したがってジレンマは、(攻撃者との同一視という防衛機制と同じように)
論理的な分裂として理論の中に組み込まれ、心理学(自然科学)と魂(精神、
意味、神)、意識と無意識、論理的なものと経験的なもの、統語論(形式)と
意味論(内容)というように解離されたことによって解決されたのである。そ
のために人格という観念が必要とされ、どちらにもふさわしいものとして、論
理的に分裂した両方の側を必ずしも現実にではなくても原理的に、個人におけ
る結合として再び結びつけるのである。
 Jungが没落の必然性をなぜ個人的に自分に引きつけねばならなかったかが今
や理解できるであろう。つまり人格を心的なものの舞台と確固とした枠組みと
して確立することが本質的に重要だったからである。心的なものを精神の世界
の広がりから、完全に取り囲まれた人格へと事実論理的に移すためには、彼の
個人的な危機が必要だったのである。精神病に近いような状態に陥り、自分の
内的ヴィジョンにおいて没落に自ら個人的にかかわることによって、精神の広
い世界から内へと眼差しは向けられ、心的なもの、精神的なものは内的なもの、
無意識的なものとして定立されたのである。
 そうすると創造的な病でもなければ、C.G.Jungという個人のイニシエーショ
ンの過程でもない。これらすべてのことはJung自身とは何も直接的に関係ない
のである。そうではなくて個人的に巻き込むことによって、「無意識の心理
学」(Jungが自分の創設した心理学をよくそう呼ぶように)としての心理学の
(非個人的な)設立の儀式がなされたのである。無意識の心理学とは背信的な
タイトルである。なぜならば「無意識の心理学」という名前が本当のところ
(たとえ意図していないにしろ)心理学が無意識になってしまっているとか、
無意識のままにとどまっているということを表現しているのは明らかだからで
ある。「無意識」というものがいつもすでに存在していて、19、20世紀になっ
てはじめて発見されたというものではないであろう(たとえばアメリカという
ものがすでに存在していたけれども、コロンブスによってはじめてヨーロッパ
の人々に知らされたように)。そうではなくていわゆる無意識の発見というの
は、19世紀に神話、儀式、宗教、形而上学が拘束力を持つ知識の外へ体系的に
排除されたことへの反応であり、症状なのである。「無意識」は零落した文化
財、「宗教的−形而上学的な最終貯蔵庫」であって、それゆえに未来のないも
のなのである。
 「無意識の心理学」としてはJung心理学は最終貯蔵庫の心理学であり、それ
にとどまってしまう。なぜならば無意識の心理学として、一方で(経験的で意
味論的に)意識にもたらすことを、他方で(論理的、統語論的に)無意識に委
ねてしまう(これは拘束力のある知識としないということを意味するにほかな
らない)ことを目的にしているからである。Jungにおいて、無意識の内容を意
識化し、掘り起こす際に常に、知識の論理的無邪気さと触れられなさ自体には
かかわらないことが大切になっていた。体験し、眺め、解釈する人格だけが、
無意識によって触れられることができて、それはわれわれの時代の拘束力を持
つ知識や心理学ではなかった。「無意識」とは理論的に生み出された人工的な
ものであり、絶対に「心的なもの」を論理的に自分から遠ざけ、自ら内的に、
心理学的になろうとせず、したがって自分自身から疎外されたままでいようと
する自然科学に凝り固まった心理学の生みだした結果なのである。無意識の内
容は、どのようなことがあっても対象性という形式、したがって外面性を保た
ねばならず、純粋に意識内容であるけれども、決して定立された境界を超えて、
知識の論理的形式へと非衛生的に侵入してはならないのである。なぜならば、
そうすると知識は対象に対しての自然科学的な孤立化を失って、思弁的な知識
(注1)になってしまうからである。そうすると心理学はその対象、対象の精
神性、歴史性、無限性、対象によって媒介された意味の次元と神の経験によっ
て感染され、あるいは同じことであるけれども、知識として対象の中へと没落
していくのである。それによってはじめて、心理学は自律的で内的になり、は
じめて本当に心理学的になるのである。
 こうしてJungの没落は、真の没落を避ける方法であり、それの代償であった
ことがわかる。したがって真の没落はまだ起こっていないのである。それは未
来の課題であり、同時にまた心理学の未来がかかっているものなのである。心
理学は、個人の無意識における治療的なシシュポス(引用者注3)の仕事に打
ち込むだけでは十分ではない。それがシシュポスの仕事であるのは、心理学の
構造、「無意識」に関する理論で体系的に示されている無意識性、その思弁的
本質に没落することを自分が拒んでいることが、「無意識」(それとともに神
経症的な意識の分裂)を自ら論理的に繰り返しつくり出しているからである。
そしてまさにその無意識を、心理学は経験的に努力することで意識に結びつけ
ようとしているのである。また患者のためにも心理学の没落は避けることがで
きないのである。

注1)Jungがまさに知識の現代的な論理形式(自然科学)に絶対的にこだわっ
 ていたために、他方で内容的には自分の心理学に神話、無意識の神話という
 すでに過去のものになっていた形式を与えることができたのは興味深い。


■著者の紹介……………………………………………………………………………
 1942年生まれ、ユング派の分析家。ドイツ文学専攻。
 アメり力で独文の教授をしていた後に、シュトゥットガルトのユング研究所
で、分析家の訓練を受ける。現在はミュンヘン近郊(Wortsee)で、分析家、
心理療法家として開業している。
 ヒルマンによる元型的心理学の流れを受け、個人の心を超えた次元への関心
を示す。以前はヒルマンとハイデッガーの影響が強く、存在論な立場であり、
そのころの考え方は多くのエラノスでの講演で知ることができる。最近はへー
ゲルの影響が色濃く見られ、ヒルマンよりも現実性と現代性を問題にしようと
して、それとともに神経症についての本に見られるように、理論的なことがそ
のまま実践につながってきている。
主要著書:
Toetungen, Gewalt aus der Seele: Versuch ueber Ursprung und Geschichte
des Bewusstseins.(1994、殺害、魂からの暴力:意識の起源と歴史について
の試み)
Animus-Psychologie(1994、アニムス心理学)
The soul's logical life: Towards a rigorous notion of psychology.
(1998、魂の論理的生命:心理学の厳密な概念にむけて)
Der Jungsche Begriff der Neurose(1999、神経症のユング的概念)


引用者注1)テロス…究極の目的のこと。
引用者注2)ディセミナシオン…ジャック・デリダの『散種』(dissemination)
 のことか?
引用者注3)シシュポス…Sisyphus。ギリシア神話。地獄で罰として、いくら
 上げても落ちてくる大石を山上に押し上げる仕事を課されたコリント王。


『精神療法 VOL.26 No.1』(金剛出版、2000年2月)より


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