甘い罠(後編)
馬岱はそっと馬超の自室の扉を開けた。
趙雲は「眠っている」と言っていたが、やはり確かめずにいられなかったのだ。
あまりにも来たときと帰るときの趙雲の機嫌の変化が不審に思えて。
やはり趙雲に殴られて気絶してるのではないだろうか。
確かにそれでも眠っているといえなくもない。
たとえ趙雲に伸されていたのだとしても、ほぼ間違いなくその原因は馬超であろうから同情はしない。
けれど、そのまま放置しておくのは血族としては忍びなく、介抱くらいはしてあげるべきだと馬岱は思った。

開いた扉の隙間から、恐る恐る中を伺う様に顔を突き入れれば、馬超はこちらに背を向けて牀台に横たわっていた。
馬岱の耳には、何とも気持ち良さそうな寝息が耳に届いてくる。
とても趙雲に伸されて、気を失っている様子ではない。
どうやら二日酔いのせいで眠っているという趙雲の言葉は真実だったようだ。
ただ眠っているのならば、自分にできることはなにもない。

ならばあの趙雲の変化はどういうことなのだろうか。
馬超を起こさぬように、馬岱は顔を引き抜くとゆっくりと扉を閉め、小首を傾げる。
だがいくら考えてみたところで、答えはさっぱり分からなかった。
結局、二人の間で平和的な解決が試みられたと考えるしかないのか。
偶にはそういうことがあってもおかしくは無い。
そう納得して馬岱もまた自室へと戻っていった。





陽も傾きかけた頃、夕餉のこともあり、馬岱はそろそろ馬超を起こしに行こうと再び従兄の部屋へと向かう。
が、丁度馬超の部屋の前まで来たとき、中から扉が開けられた。
そうして大きな欠伸をしながら馬超が姿を見せた。
「おっ、岱か、丁度良かった。
少し城まで出掛けてくる」
馬超はまだ眠そうに目を瞬せながら、馬岱を見遣る。

「!!」
その瞬間馬岱の顔が硬直した。
目を見開いて、馬超の顔を凝視している。
「…どうした、岱?」
不審気に眉を顰める馬超に、馬岱は我に返った。

そうして―――

邸中に響き渡る声。
それは馬岱の爆笑する声だった。

「あはははは!」
腹を抱えて、馬岱はひたすらに笑い続けている。
いつもは物静かな馬岱が大声を上げて笑い転げる姿など、長い付き合いの馬超でさえあまり見たことはない。
「おい、岱……お前一体どうしたのだ?」
従弟が突如気でも狂れてしまったのではないかと、さしもの馬超も不安の色を隠せない。
戸惑いがちに投げかけられる馬超の問いに、馬岱は笑い過ぎて目元に浮かんだ涙を拭い、頭を振る。
「い……いえ、何でもありませんよ……従兄上」
「いやしかし……」
「本当に何でもありませんから……ご心配なさらず。
城に参られるのは、趙雲殿からのお呼び出しですか?」
「お前、良く分かったな」
馬超は目を瞠った。
馬岱の言う通り、馬超の牀台の傍らに趙雲からの書置きが残してあったのだ。

―――目が覚めたら、すぐに城まで来てください。
それで今日のことは許してあげます。

そう書かれていた。
だから目覚めた馬超は、急いで城へ向かおうとしているのだった。
確かに今日のことは自分が悪い。
反省もしている。
城に行くことくらいで許して貰えるのならば、安いものだと。
その手には昨夜張飛から分けてもらった絶品の酒の瓶が握られている。
遠乗りは出来なかったが、せめて城の中庭で趙雲と月見酒でも洒落込もうという魂胆だった。

「さぁ、早くお行き下さい」
馬超は馬岱に背を押し出されるようにして、邸を後にした。
馬岱は必死で笑いを堪えている様子だ。
それを怪訝に思いつつも、馬超は城へと足を進め始めたのだった。

馬岱はといえば、馬超が城へと見送った後……堪えきれず再度大声で笑い出す。
趙雲が何故帰る折には、ああもさっぱりとして、上機嫌だったのか良く分かった。
怒りの原因たる馬超にきっちりと趙雲は仕返しをしていたのだ。
きっと城へ向かう道すがら、そして城でも、多くの人間が馬岱と似たり寄ったりの反応を示すことだろう。
それは充分に予想できたが、あえて馬岱は馬超を止めなかったし、笑った理由も教えなかった。
偶にはあの従兄にそれくらいのお灸は必要だろうと―――そう思って。





馬超はただただ首を捻っていた。
何故こうも自分を見た人間が破顔するのだろうと。
ある者は必死に笑いを噛み殺そうとし、またある者は辺りを憚らず大声で笑う。
男には羨望の、女には熱を帯びた瞳で見られることは多々あっても、こうも笑われたことなどない。

訳の分からぬまま、馬超は趙雲の執務室を訪ねた。
だがそこに求める人物の姿はなかった。
中にいた趙雲の副官も、馬超を目の当たりにした瞬間、口元を押さえた。
懸命に湧き上がってくる笑いを収めようとしているようだ。

「子龍はどうした?」
何故こうも自分が笑われなければならないのか。
馬超の中の疑問は、次第に苛立ちへと取って代わっていた。
「趙将軍は今日は休日ですから、こちらには参られておりませんが……」
笑いを堪えながら答える副官を馬超は睨みつける。
「おい、一体何が可笑しいというのだ?」
たまらずそう問い掛けても、趙雲の副官は何でもないと首を振るばかりだ。

埒が明かぬと、馬超は忌々しい気持ちのまま、趙雲の執務室を出た。
城に来いと書置きにあったのだから、執務室にはおらずとも城には居るはずだ。
もしや諸葛亮の元にでも行っているのかもしれない。
趙雲は手が空けば、良く諸葛亮の仕事を手伝っているから。

そうして向かった諸葛亮の執務室の扉を開けると、まず目に入ったのは姜維だった。
姜維もまた例に漏れず、馬超を見た瞬間に盛大に笑い出す。
視線を巡らせば、趙雲はいなかったが、あの鉄面皮で知られる諸葛亮でさえも羽扇を口元にあて、くすくすと笑っている。
「おい…一体何なんだ?
先ほどから皆が俺を見て笑う。
全く訳が分からぬ!」
ここに至って、とうとう馬超の鬱積した怒りが爆発した。

「だって……ねぇ、丞相?」
姜維は相変らず笑いながらも、同意を求めるように諸葛亮へ視線を投げ掛ける。
すると諸葛亮がそっと銅鏡を差し出した。
「その様子だと、もう随分笑われたようですし、そろそろ告げてもかまわないでしょう。
さぁ、ご自分の顔をご覧なさい」
「何だ?俺の顔に何か付いているのか?」
それを受け取り、馬超は己の顔をそこに映す。

そして―――
「うわっ!!」
馬超の悲鳴が丞相府に響き渡る。
食い入るように鏡を見つめる馬超の手が、次第に怒りで震えてくる。

鏡に映った馬超の顔。
それは墨でもって至るところに落書きが施されていた。
鼻の下に髭が書かれていたり、瞼に睫を書き足されていたり―――様々な部分が落書きで埋まっている。
両頬には『馬鹿』と大きな字でくっきりと記されている。
そうてして額には『本人に告げるべからず』と書かれていた。
それは正しく趙雲の筆跡で……。

「くそっ!!
子龍め!!」
これが今日のことに対する趙雲の報復だったのだ。
寝入った馬超の顔に、ありとあらゆる落書きを施して、帰っていった。
城へ来いとの書置きを残したのも、こうして馬超を笑い者にする為。
やはり眠る前に感じていた通り、趙雲は馬超を簡単に許していた訳ではなかったのだ。

鏡を諸葛亮へと突き返し、馬超は肩を活からせ、踵を返す。
その背に向かって諸葛亮は声を掛けた。
「趙雲殿なら、自邸におられると思いますよ。
なにぶん昨日は随分と遅くまで仕事をされていましたから。
どなたかから急に強引な誘いがあったそうで、それでもその誘いを受けたいと仰られて。
愚痴を零されならがらも、それに反してとても嬉しそうな表情をされていましたよ」
「……」
それを聞いて、途端に馬超の肩が下がる。
そしてそのまま静かに、馬超は諸葛亮の執務室を出て行ったのだった。





井戸で顔を洗い、落書きを全て消して、次に馬超が向かった先はもちろん趙雲の邸だった。
主の自室の前で立ち止まり、馬超は扉を叩く。
だがいくら待てども扉が開けられることもなければ、声が返ってくるでもない。
恐らく気配で自分が来たことは、趙雲ならば分っている筈だ。
まだ口も利きたくないほど、怒っているのかもしれない。
それでも馬超はここで引く気はなく、
「入るぞ」
そう小さく声を掛け、中に入る。

今度こそ、ようやくそこに求める人の姿はあった。
牀台にそっと近付いてみると、趙雲は目を閉ざし……眠っていた。
馬超が入ってきたことも気付かないところをみると、相当にぐっすりと眠っているらしい。
応答がなかったのはそのせいだったのだ。

諸葛亮の言葉が甦る。
昨日随分と遅くまで仕事をしていたと。
自分が張飛と機嫌良く酒を呷っている一方で、趙雲は執務をこなしていた。
馬超と遠乗りに出掛ける為に。
強引な誘いに辟易した素振りを見せながらも、その実、それをとても楽しみにしてくれていたようだ。
それを自分は反故にしてしまった。
趙雲の怒りも最もだ。
しばらくは今日のことで良い笑い者になるのだろうが、致し方あるまい。
もう馬超に趙雲の仕返しに対する怒りは微塵もなかった。

「本当に悪かった…子龍」
馬超は枕元に腰掛け、手にした酒瓶を円卓の上に置く。
そうして趙雲がしてくれたように彼の髪を梳く。
穏やかな寝息を繰り返す趙雲を見下ろしながら、馬超は微笑んだ。

月よりも、子龍の寝顔を見ながら飲む酒の方が最高やもしれぬ―――と。





written by y.tatibana 2011.07.31
 


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