甘い罠(前編)
不機嫌さを露にした表情を隠そうともせず、趙雲は馬超の邸を訪ねた。
迎えてくれたのは主ではなく、その従弟である馬岱だった。
そのことが、益々趙雲の眉間の皺を深くした。
「ど……どうなさいました?」
趙雲のその険悪さに馬岱は気圧されるように尋ねる。
いつもは至極穏やかで、このような表情をする人ではないと知っているから。

「馬超殿はいらっしゃいますか?」
その声も低く、趙雲が何やら怒っていることは疑いようもなかった。
けれどそれが自分に向けられたものではないことは分かる。
そこで馬岱は深く溜息を吐く。
また従兄が何かしでかしたのだと悟って。
温和な趙雲をこんな風に怒らせることが出来るのは、馬超くらいなものだ。

「従兄上でしたら、自室におられる筈ですが……」
「やはりここにいたのですね……。
申し訳ありませんが、お邪魔しますよ」
馬岱の答えを待つこともなく、趙雲は馬岱の身体を脇へ押しのけるようにして、邸の中へ入る。
そのまま脇目も振らず趙雲は一直線に馬超の部屋へと向かう。

趙雲を止める気は、馬岱には更々なかった。
その背を馬岱は再度深い溜息でもって見送るだけだ。
―――血の雨が降らなければ良いけれど。
そんな風に心中で呟いて。
二人の喧嘩は珍しいものではないが、その原因は十中八九従兄の側にある。
だがその度に巻き込まれ、間に立つ自分の苦労を少しは分かって貰いたいものだと思わずにはいられない馬岱であった。





「孟起!」
扉を叩くことも、許可を得ることもなく、趙雲は勢い良く扉を開いた。
求める人物は確かにそこにいた。
但し、牀台の上に身を横たえ、規則正しい寝息を漏らして。
足を踏み鳴らし、荒々しくその枕元へと趙雲は歩みを進める。

馬超が気持ちよさそうに眠っていることを認め、趙雲は眉を吊り上げると、再び怒鳴りつけた。
「孟起!起きなさい!」
趙雲の声に反応したのか微かに馬超の身体が僅かに身じろいだ。
だが―――それだけだった。
起きる気配はない。

「孟起!!」
とても優しいとは言い難い強さで、趙雲は馬超の肩を揺さぶる。
「う……ん?」
するとようやく馬超が薄っすらと目を開く。
牀台の横に仁王立ちする趙雲の姿が目に入って、馬超は寝転がった姿のまま首を傾げる。
「なんだ、子龍か」
その呑気な言葉に趙雲の眉は更に釣り上がった。
「なんだとは随分なご挨拶ですね!」
趙雲の声に馬超はううっ…と辛そうに呻き、頭を押さえる。
「あまり怒鳴るな……。
二日酔いで頭が痛いんだ。
昨日張飛殿に付き合って散々飲まされたからな。
戻ってきたのも明け方だったし」
そうしてそのまま再び眠りに落ちようとする。

すると今度は趙雲の拳が、容赦なく馬超の頭に炸裂した。
―――っ!」
声にならない叫びを上げて、馬超は跳ね起きた。
痛みに端正な顔を歪めて。
「痛ぇな!
いきなりなにをするんだよ、子龍!」
思わず怒鳴り返した己の大声すらも、二日酔いの頭には響く。
だがそれをやり過ごし趙雲を睨みつければ、趙雲も負けじと睨み返す。
「今日は久しぶりの休みだから、遠乗りにでも行こうと言ったのはどこの誰ですか!
城門で待っていてくれとも昨日誰かさんは言いましたよね!?
私は溜まっている仕事を片付けたいと散々申したにも関わらず、強引にことを決めた人は何方ですか!」

趙雲の言葉に馬超は記憶を辿るように視線を泳がせていたが、やがてぽんと手を打った。
ようやく意識がはっきりしてきたらしい。
「ああ、そうだったな……」
「やはり忘れていたのですね……貴方という人は……」
先ほどまでとは一変した静かな趙雲の声は、しかし険悪な冷たさを帯びている。
怒りを露にして怒鳴られるよりも、この方が恐ろしい。

「いや、決して忘れていた訳では……」
さすがにばつが悪い馬超の口調は弱々しい。
「下手な言い訳など結構です。
貴方の言うことなど無視して、やはり仕事をしていれば良かった。
馬鹿正直に城門で延々貴方を待っていた私が愚かでした」
ぴしゃりと趙雲は、馬超の言を跳ね除ける。
「いや、その……悪かった……」
いかな馬超も自分の非を認めて頭を下げるが、趙雲の表情は一向に和らがない。
相当に怒りは根深いようだ。

「本当に悪かったって。
張飛殿が良い酒が手に入って、俺にも分けてやるから帰りに寄れと言うもんだから―――お前との遠乗りに持っていって、月見酒にするのに丁度良いと思ってな。
で、張飛殿の邸に寄ったんだが……話しているうちにその酒を少し味見しようということになって……」
「それで結局は徹夜で飲んだくれていた訳ですか」
馬超の言葉を受けて、趙雲は相変わらず冷めた声で続ける。
真実なだけに返す台詞もなく、馬超は気まずそうに視線を彷徨わせる。

だが更に事態を悪化させるが如く、馬超の口から欠伸が漏れる。
まずい……と思いはしたが、それを上手く噛み殺せなかった。
頭とは裏腹にどうやら身体はまだまだ休息を欲しているようだ。

恐る恐る再び趙雲へと眼差しを移せば、案の定、怜悧にすっと瞳が細められている。
まさに戦場で敵を前にしたときのそれと相違ない。
「まだ眠り足りないようですね。
何ならお手伝いして差し上げましょうか?
永久に目覚めぬように手を貸してあげても良いのですよ」


だが―――
そこで何を思ったのか、趙雲はふいに表情を和らげた。
そうして先ほどまでの態度が嘘のように、にっこりと微笑んで見せたのだ。
―――なんて、冗談ですよ。
随分お疲れのご様子ですし、もう少しお休みになられては?
残念ですが、孟起との約束はまた後日ということに致しましょう。
無理をして、もし体調を崩してしまったら、大変ですから……」
その急激な変化に馬超は戸惑うが、趙雲に優しく促されるがまま、再度寝台に身を横たえた。

趙雲はその馬超の身体に掛布をかけ、自らは馬超の枕元に腰掛けるとゆっくりと馬超の髪を梳く。
「お前一体どうしたんだ?
いきなり優しくなったりして……。
怒っているのではないのか?」
馬超が怪訝そうな瞳を向けてくるのに、趙雲はやはり柔和な笑みを崩さない。
「怒っていましたよ。
ですがそれよりも貴方の身体のことが心配なんです。
さぁ、もう良いですから、何も考えずに今は早くお休みください」

明らかにおかしい。
顔はいくら笑っていても、その瞳は全く笑っていないように馬超には見えた。
けれど、あやすように触れられるの手の心地良さに、瞼はゆっくりと降りてくる。
そしてそのまま意識が吸い込まれるように、馬超は再び眠りへと落ちていくのだった。





馬超が規則正しい寝息を繰り返し出したのを確認して、趙雲はそっと馬超から身を離す。
そのまま趙雲は部屋の片隅に寄り、そこに目当てのものがあることを確認すると、にやりと唇の端を吊り上げた。
それは寝入る前に馬超へ見せた優しいものではなく、何か良からぬ企みを抱いているような人の悪い笑みだった―――





「突然にお邪魔いたしました、馬岱殿」
見送りに立った馬岱へ、趙雲は深々と頭を下げる。
来たときと異なり、随分と機嫌が良いのが明らかで、馬岱は不思議そうに趙雲を見る。
顔を上げた趙雲の表情にはやはり穏やかなものだった。
今にも歌いだしそうな程に。

嫌な予感が馬岱の胸を過ぎる。
「趙雲殿……従兄上は?」
恐る恐る馬岱が尋ねれば、趙雲はさっぱりとした笑顔で
「眠っておりますよ」
と答える。
「眠ってる!?」
馬岱が趙雲の言葉を反芻するように上ずった声を上げる。

本当に血の雨が降ったのだと思ったのだ。
原因は分からないが、訪ねて来た時に趙雲が激怒していたのは事実なのだ。
それが今はこんなにも機嫌が良い。
馬超が眠っているというのは恐らく趙雲に伸されて、気を失ってしまったのだろうと。
それで気の済んだ趙雲がこうもさっぱりしているのだと……。

馬岱の狼狽した様子に、趙雲は彼の心の内を見透かしたのか、首を振る。
「誤解なさらないで下さいね、馬岱殿。
二日酔いで、随分まだ辛い様子でしたので、どうぞ眠って下さいと申したのですよ。
それでぐっすりと眠っているのです」
「はぁ……」
予想外の趙雲の言葉に、馬岱はそんな気の抜けた声を漏らす。
どことなく不安感を拭いきれぬまま。
「それでは私は帰らせて頂きますね」
けれどそんな馬岱を尻目に、趙雲は上機嫌のまま帰って行ったのだった―――



(後編に続く)



written by y.tatibana 2011.05.14
 


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