幼子
日も落ち、執務を終えた馬超は、いつものように趙雲の邸に立ち寄った。
今日は趙雲の方が先に城を出たからだ。
勝手知ったるなんとやらで、家令に声だけをかけ、主の自室へと向かう。
その家令が何か言いたげだったことには気付かず、廊下を進み、
「子龍、入るぞ」
突き当たりの扉の前でそう断ると、中からの返答も待たずに、馬超は扉を開けた。

だが室に入った所で、馬超は足を止めた。
否、身体が固まったといった方が正しい。
椅子に腰掛けて座ってた趙雲の姿を見た瞬間に。

断りもなく入って来た馬超に、趙雲の方は驚くでも咎めるでもなかった。
「ん?どうした、孟起?」
自分の方をぽかんと見つめたまま、動こうとも話そうともしない馬超に、趙雲は怪訝そうに首を傾げる。
「ど、どうしたって……お前……」
ようやく口を開いた馬超は、目を見開いたまま、趙雲の胸元を指差した。

馬超が驚くのも無理はない。
趙雲が赤ん坊をその胸に抱いていたからだ。
白い布に包まれた赤子は、趙雲の腕の中ですやすやと眠りについていた。

「どうやら、私の子らしい」
趙雲が平然と言うのに、馬超は衝撃のあまり再度言葉を失ってしまう。
すぐにその意味も理解できなかった。

(子龍の子……?)
どうして妻のいない趙雲に子供がいるのだ。
趙雲とはもう長い間、肌を重ねあう関係だ。
男同士ではあるが、馬超は遊びのつもりは全くなく、趙雲への想いは真剣なものだった。
趙雲も同じ気持ちでいてくれているのだとばかり思っていた。
けれど、それは大きな誤りだったというのか。
趙雲にとって馬超とのことは別段本気ではなく、別に女を作り、子までもうけていたのか……。
馬超自身、どんな美しい女に誘われようとも、趙雲と関係を持ってからは、心が動くこともなかったというのに。

激しい憤りと失望が、自分の中で生まれてきて、馬超はぐっと拳を握り締める。
見る見る間に険しい表情になっていく馬超を前にして、どうしたことか趙雲は面白そうに笑った。
それがさらに馬超の怒りを煽る―――何が可笑しいのだと。
「孟起、勝手に勘違いしないでくれないか。
冷静になれ。
この子をよく見てみろ」
睨み付けてくる馬超に、趙雲は呆れたように言う。

促され、しぶしぶ赤ん坊へと再度視線を移した馬超は、やがて「んん……?」と眉根を寄せた。
「おかしいではないか」
険しい表情から一転、困惑した様子で首を捻った馬超に、
「そう、おかしいのだ」
と、趙雲も同じような言葉で答える。

その赤ん坊は、大きさから察するに生後半年といったところだろうか。
多少の誤差を含めて考えるにしても、その子が宿ったと思われる時期は、北方での戦の最中だった。
思いのほか長引いたその戦には趙雲も馬超も、共に出陣していたのだ。
当然その場に女っ気など微塵もなく、挙句に周囲には村落のひとつもなかった。
つまり女と関係を持つようなことが出来た筈もない。

とすれば、この赤子は―――
「俺とお前の子か?
そうなら俺には思い当たる節がたくさんあるぞ」
当時のことを回想しながら、馬超はまじまじと赤子を観察する。
「どことなく目元は俺、口元はお前に似ている気がするな」
などと、言い出す馬超に、今度は趙雲が容赦なく冷たい視線を浴びせかける。
それを受けて、馬超は肩を竦めた。
「なんだその馬鹿にしたような眼差しは。
冗談に決まっているだろう」
いくら馬超でも、まさか本気で趙雲が子供を生んだと思うはずはない。

「しかし、お前の子っていうのはどういうことだ?」
先程、馬超が趙雲にその赤子のことを訊ねた時、確かに「自分の子」だと趙雲は答えたのだ。
けれどそれはあり得ない。
では一体どういうことなのだと、馬超が困惑するのも無理はない。

「私は別に断定してなどいないぞ。
私の子……『らしい』と言っただけだ。
私が出仕した後、家人が外に出たところで、若い女に『この邸のご主人の子です』とこの子を渡されたそうだ。
家人は突然のことに驚いて、そのまま走り去った女から話を聞くことも、追うこともできなかったらしい」
趙雲の言葉に、馬超はそういうことかとようやく合点がいった。

生まれた子供を何らかの事情で育てることが出来ず、捨てたのだ。
ただ、その親にも良心が残っていたのか、人知れぬ場所に捨てるのは憚られ、偶々出くわした趙雲の邸の人間に押し付けたのだろう。
ここが趙子龍の邸だと女が知っていたかどうかは分からないが、これほどの邸を構えることができるほどの人物ならば、女絡みで後ろ暗いことの一つや二つあるのではと考えたのではないだろうか。
しかし、趙雲に至っては全く身に覚えのないことだった。
その為、「自分の子」だと言われても、平然としているのだろう。

「で、どうするんだ、この子は?」
馬超の問いかけに、趙雲は迷うことなく口を開く。
赤子に優しい眼差しを見つめながら。
「しばらく預かって様子をみようと思う。
今頃後悔していて、迎えにくるかもしれぬからな」
趙雲の腕の中で眠る子は、自分が親に捨てられたなど知りもせず、すやすやと眠っている。
あまりに不憫で、馬超の胸は締め付けられる。
自分も親であったことがあったのだ―――失ってしまったけれど。

「迎えにくるといいな……」
馬超がぽつりと呟く。
そこに何を感じ取ったのか、趙雲も神妙な表情で頷いた。





その日から、趙雲の生活は赤ん坊が中心になった。
さすがに城には連れて行けないが、邸に戻ると、自ら世話を買ってでていた。
馬超もそれを最初は微笑ましく見守っていた。

だが、何をするのも子供が優先。
以前ならば休日はよく遠乗りや城下に出掛けたりしたものだが、今では子供と過ごしたいからと断られる。
日常は日常で、お互いの邸を行き来することが多かったが、子供がいるからと趙雲が馬超の邸を訪れることがなくなった。
仕方なしに馬超が趙雲の邸に足を運ぶ日々が続いているが、食事を摂り、夜も更けてきて、牀台に趙雲を組み敷けば、何故だかそれを見透かしたかのように赤子が泣く。
当然それまでの甘い雰囲気は一気に霧散するし、趙雲も泣いてる子供をあやす事に専念してしまう。
ずっとそんな調子が続いているのだ。

(面白くない……)
馬超は不機嫌さを隠そうともせず、ため息を深々と吐き出すが、趙雲がそれを気に留める様子はない。
今もまた、寝台に縺れ込んだところで、隣の部屋で眠っていた赤ん坊が泣き始め、お預け状態になってしまった。
趙雲は隣の部屋から連れてきた赤ん坊を、抱いてあやしている。
馬超があぐらをかいて不貞腐れていても、どこ吹く風である。

「おい、子龍!」
馬超が思わず声を荒げると、趙雲にぎろりとぎろりと睨み付けられる。
「大きな声を出すな。
この子がびっくりするだろう」
「子供、子供って……最近、お前は俺を蔑ろにし過ぎだ」
なんとか声の音量は落としつつも、馬超は負けじと趙雲を睨み返す。

すると趙雲は大仰に息を吐き出した。
「なんだ、孟起……もしかして、子供相手に妬いているのか?」
呆れたと言外に含ませる趙雲に、馬超はむっと口を曲げる。
「妬いて悪いか」
「大人げのない……」
「大人げなくて結構だ。
何と言われようが、俺はお前の一番でありたいんだ」

自分でも赤ん坊相手に、馬鹿みたいだと分かっている。
みっともないと思う。
親から捨てられた子供のことを考えると、本当に胸が痛むし、どうにかしてやりたいとも思う。
けれど、そういった感情とは別の所で、趙雲が自分以外の人間に心を砕いていることに苛立ちを覚えてしまうこともまた事実だった。
一度全てを失ってしまったから、少しでも長く一緒に居たい。
またいつ失ってしまうかもしれないのだ―――この戦乱の世で、互いに武人であれば尚更、その可能性は否定できないだろう。

するとそんな馬超の内心を読み取ったかのように、ふと趙雲は表情を和らげた。
「孟起、何も私はお前を軽んじているのでも、邪険にしているのでもないよ。
お前とゆっくり過ごす時間を取れないことに関しては申し訳ないと思っている。
けれど、もう少しだけ我慢してくれないか。
この子の親が迎えに来るか……迎えに来ずとも、しっかりとした環境を与えてやれるまで。
私は、幼い頃に両親を亡くしてしまったから、その悲しさがよく分かる。
こうして出会ったのも何かの縁。
だからこの子には出来るだけ、そんな寂しい思いをさせたくないのだ。
この子に自分の幼き頃の姿を重ねているだけの、ただの自己満足だと言われるかもしれないが……どうか、私の我侭を許して欲しい」
そう告げられた趙雲の言葉に、馬超は何も言えなくなってしまう。

もやもやする感情が全て晴れる分けではなかったが、自分本位に趙雲を責めるのようなことをして反省した。
趙雲のことが大切ならば、彼の気持ちを酌むべきではないかと。
寧ろ、自分の実の子でなくても、そういった優しさや慈しみを与えることの出来る趙雲のことを、誇りに思うべきなのだ。
馬超が「分かった」と頷くと、趙雲は「ありがとう」と安心したように微笑んだのだった。





そんなある日の夜、馬超がいつものように趙雲の邸に赴くと、盛大な赤子の泣き声に出迎えられた。
下働きの女が泣き喚くその子を抱いていて、あたふたと必死にあやしていた。
だが子供は一向に泣き止まず、それどころか尚激しくぐずりだす。

「子龍は?」
出迎えに現れた家令に、馬超は不思議そうに訊ねる。
いつもならば趙雲が面倒をみているはずの時間である。
「実は城から火急の呼び出しが入り、お出かけになってしまわれたのです。
いつもならすぐ泣き止んでくれるのですが、どうしたことか今日はなかなか……。
特に趙雲様のならばそれこそあっという間に宥めてしまわれるのですが、申し上げました通り只今、ご不在でして……」

なるほどなと、馬超は納得する。
趙雲は今まで一度も婚姻したこともなければ、当然子供を持ったこともない。
なのに、何故だか子供の扱いが上手いし、良く懐かれる。
この子も例外ではないのだろう。
おそらく趙雲が突然いなくなってしまって、不安に感じているのではないだろうか。

「貸してみろ」
馬超はおろおろとするだけの女から赤ん坊を受け取ると、腕の中に抱き、優しく背を撫でてやる。
大丈夫だ、安心しろと伝えるように。
昔は自分の子達をこうして良くあやしたなと、懐かしく思いながら。
馬超とて決して子供は嫌いでも苦手でもないのだ。

ややすると、馬超の温もりに安心したのか赤子は泣き止んだ。
家令がほっとした表情をみせ、馬超に丁重に礼を述べる。
しかし、馬超が再び女に子供を渡そうとすると、大人しくなったのが一変、またもぐずりはじめたのだ。
馬超は苦笑しつつ、「子龍の部屋で待たせてもらうぞ」と言い残すと、子供を抱いたまま、主の部屋へと向かった。





深夜になり、ようやく城から戻った趙雲は、家令から馬超と子供のことを伝えられる。
急いで自室へと向かった趙雲だったが、中に入り、大きく目を見開いた後、ふっと優しい笑顔を見せた。
寝台の上では、馬超が赤ん坊を腕の中に抱いたまま、眠りについていたのだ。
すやすやと眠る二人に、趙雲は風邪を引かぬようにと掛布をかけ、自然と笑みが深くなっていくのを止めることはできなかった。





その後程なくして、二人の願いが天に通じたのか、子供の母親が現れたのだ。
夫が急な病で死に、自分一人では到底育てることが出来ないと、絶望の中、子を捨ててしまったのだという。
けれど、やはり子供を忘れることなど出来ず、引き取りにきたのだ。
母親は頭を地に何度も擦り付けながら、己の愚かな行為を詫びた。
もう二度とこんな馬鹿なことはしないという母親の言葉と、その必死で真摯な眼差しを信じ、趙雲は子供を彼女へと渡した。

赤子は泣くことなく、母の腕の中に収まった。
そうして幾度も頭を下げながら、大事そうに子供を抱いて去っていく母親を、二人は見送った。
「寂しいか?」
ぽつりとたずねてくる馬超に、趙雲は小さく頷いた。
「そうだな……、寂しくないといえば嘘になる」
「子供、欲しくなったんじゃないのか?」
しかし次の馬超の問いに対して、趙雲は首を振る。
「身体は大きいくせに、中身は子供のようなのが私の元にはいるからな。
その相手だけで、手一杯だよ」

それを受けて、馬超の眉間に皺が寄る。
「……誰のことを言っている?」
「さぁな。
孟起には、心当たりがあるのか?」
声を上げて笑う趙雲に、馬超はただ苦虫を噛み潰したような表情で憮然とするのだった。





written by y.tatibana 2008.05.23
 


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