赤い花
差し込んでくる春の柔かな日差し。
城の裏庭に通じる部屋の中、窓辺に置いた長椅子に腰掛けていた趙雲は、いつの間にかその心地よさに吸い込まれるように、眠り込んでしまっていた。
その趙雲が目を覚ましたのは、扉を叩く音だった。
眠りのそこから掬い上げられた趙雲は最初自分が何をしていたのか分からずに、ぼーっと辺りを見回す。
しばらくそうしていて、自分がいつの間にか眠ってしまっていたことを悟った瞬間、趙雲の意識は否が応にも覚醒する。

今はまだ城での務めの最中である。
まさかそんな中で眠ってしまうとは―――情けないと、慌てて趙雲は身を起こした。
己の姿を確認すれば、寝乱れか衣がだらしなく肌蹴ていた。
赤面しつつ、趙雲は素早く居ずまいを正すと、扉の外の人物に声を掛ける。
「どうぞ、お入り下さい」
入って来たのは若い将校で、礼儀正しく趙雲に向けて巧手する。

しかし青年将校は趙雲の顔を見ると、怪訝そうに首を傾げた。
「趙将軍……どうかされたのですか?
顔が赤いようですが……」
「ああ、いえ、何でもありません」
まさか正直に居眠りしていたなどとは、とても言えない。

けれど将校は趙雲を見つめたまま、依然訝しんでいるようだ。
「ですが……首筋にも赤い痕がくっきりとありますが―――今朝の調練ではなかったですよね?」
言って、将校はその痕がある場所を、自分の首筋を指して示す。
趙雲が自分でそこを見ることは叶わなかったが、虫に刺されたにしては痒みも痛みも感じない。

(ま……さか―――
趙雲は思い当たったある可能性に目を見開きつつ、痕があると思われる部分を慌てて手で覆う。
不思議そうにそんな趙雲を見つめてくる将校を、趙雲はどうにかこうにか誤魔化し、やり過ごした。
将校は鍛錬の報告を終えると、去っていってくれてた。
趙雲はほっと息を吐き出し、室内に置いてあった水瓶に、首筋を映してみた。

そこにあったのは、鮮やかに刻み込まれた赤い印。
自分の予想が外れてはいなかったことを趙雲は確信する。
間違いない、口付けの痕だと。

今朝は確かにこんなものはなかった。
もちろん出仕してから、そのような不埒なことをしてはいない。
とすれば、先程の転寝の間に何者かにこの痕を付けられたことは間違いないだろう。
気配に気付かなかった自分が恥ずかしい。

とある人物の顔が真っ先に趙雲の脳裏に浮かんだが、確証がある訳ではない。
とにもかくにも、他人の目にそれを触れさすようなことは出来ない。
首筋を隠すように、趙雲は殊更しっかりと衣の襟を整えた。
そのまま趙雲は部屋を出て、回廊の先で警備にあたっている兵に、ここしばらくの間に通った人間を訊ねた。
趙雲が居た部屋は、城の中心からは少し離れた所にあり、あまり頻繁に人が通るような場所ではない。
衛兵によると、先程の将校以外誰も通っていないのだという。

趙雲は首を傾げた。
自分の思惑が外れたからだ。
てっきり先程脳裏に思い浮かべた人物が通ったのだとばかり思っていたのに。

「馬将軍は通りませんでしたか?」
「馬将軍ですか?いえ……」
首を振る衛兵に、趙雲は面食らう。
そう―――趙雲は口付けの痕を付けた人物を馬超だと思い込んでいたのだ。

驚きつつも、趙雲は衛兵に礼を述べ、自分の執務室へと足早に戻った。
一体誰がどうのようにこの痕を付けたのかは分からないが、馬超でないと分かった以上、もっとしっかり隠しておかねばならない。
もし自分が付けたのではない口付けの痕を見つけようものなら、どんなことになるか分かったものではない。
趙雲の恋人である馬超は、何事に対しても動じず冷めているが、趙雲のことに関してだけは嫉妬深いのだ。

趙雲は部屋に戻ると、白い布を取り出し、それを細く切り裂くと、自分の首に巻きつけた。
鍛錬の途中に怪我でも負ったように見せ掛けようと。
今日一日馬超と顔を合わせなければそれでいいのだが、これから今度の遠征の作戦を馬超と共に練らねばならない。
趙雲は深々と溜息を吐くと、重い足取りで今度は馬超の部屋に向かったのだった。





声を掛け、馬超の部屋に入ると、部屋の主は窓辺に腕を組んで立ち、外の風景を眺めていた。
馬超は入って来た趙雲を振り返ると、優しい微笑を浮かべて迎え入れてくれた。
趙雲はこの馬超の笑顔が好きだった。
それは他者には決して見せることのない、自分だけに見せてくれる表情だったから。

「黙りこくってどうした?子龍。
俺に見惚れているのか?」
馬超が冗談めかして言うのに、趙雲ははたと我に返る。
「ち、違います!」
焦って首を振る趙雲を見て、馬超は小さく笑みを漏らした。

だがその視線が趙雲の首筋を捕らえた時、馬超の眉根が寄る。
「お前、その首筋の所、どうしたんだ?
怪我でもしたのか?」
触れられたくないと願っていた話題に、早々にもっていかれ、趙雲の心臓は強く打った。
「あ……ええ、鍛錬中に相手の槍先が掠めただけで、大したことはないのですが……」
「子龍に傷を負わせることの出来る槍の使い手が、俺以外にいたのか?
ちゃんと薬師には見てもらったのか?」
馬超の追求は止まない。

趙雲は内心焦りつつも、何とか平静を装おうと試みる。
「いえ、本当に大した傷ではないのですよ」
「本当に?
見せてみろ」
趙雲の言葉に納得せず、馬超が近付いてくる。
それに対し、反射的に趙雲は後退った。
「私は大丈夫ですから!馬超殿」
取り繕うような笑顔を浮かべ、馬超から逃げるように趙雲はまた一歩後ろに下がる。

「ならば、どうして逃げる?」
いつの間にか、馬超の顔から笑みが消えていた。
頑なに自分を拒否する趙雲に不審を抱いたようだ。
失敗したと趙雲が感じたときにはもう遅かった。
趙雲が後退するよりも先に、馬超が趙雲の腕を捕らえた。

「離して下さい!」
趙雲が馬超の手を振り解こうとするが、それを意にも介さず、馬超はもう一方の手で趙雲の首筋に巻かれた布に手を掛けた。
結び目を片手で器用に解くと、それはひらりと床に落ちた。
馬超の視線が、露になった趙雲の首筋を滑り、ある一点で止まった。
それを感じ、趙雲は思わず目を閉じる。

「どういうことだ、子龍?」
低く唸るような馬超の声。
もはや観念する以外あるまい。
「私にも分からないのです……。
その……あまりにも日差しが気持ち良くて、つい居眠りをしてしまって、その間に誰かに付けられたみたいで……」
「そんな言い訳が通じるとでも?」
腕を捕らえている馬超の手に、更に力が込められるのを趙雲は感じる。

何者かが齎した口付けの痕を見つめる馬超の瞳は、どれだけ冷たい炎を宿しているのだろう。
先程まで笑顔を見せてくれていたあの顔は、今はどんなに険しいものになっているのか。
それを想像すると、趙雲は目を開けることが出来なかった。

「相手は誰だ?」
「違います!
私は決してそのような―――
「誰だと聞いている」
自分の言葉に全く耳を貸そうともしない馬超に、趙雲はとうとう声を荒げた。
「貴方は、私が貴方以外の誰かとそういうことを平気で出来るような人間だと思っているのですか!?
私は……っ!」
謂れのない叱責に、趙雲は悔しさと怒りに身体を震わせる。

誰がこの痕を付けたのかは最早問題ではなく、馬超に疑われたことが何より趙雲には哀しかった。
そのまま閉じていた目を開くと、趙雲は目の前の馬超を睨みつける。
「……えっ!?」
けれど眼前にあったのは、冷たい表情などではなく、馬超の優しい笑顔だった。
驚いて目を見開く趙雲の首筋に、馬超は手を伸ばす。
そうして口付けの痕をなぞる様に、そこに触れたのだ。

「俺だよ」
「は?」
「お前にこれを付けたのは、俺だ」
趙雲は馬超の告げたその意味がすぐには理解できず、目を瞬く。

「岱を探して城内を歩いていたら、中庭に出てな。
そこから気持ち良さそうに眠る子龍の姿が見えたんだ。
あんまりにもお前の寝顔がかわいくて、引き寄せられるままに、窓から中に入らせてもらった。
で、見ているだけじゃ物足りなくなって……な」
「そ、それじゃあ、今までのこれは……」
「子龍があまりに必死に隠そうとしているのを見て、ついついからかってやりたくなったんだ。
すまなかった」
そんな風に素直に謝られ、ことの真相をようやく理解した趙雲は、呆れが怒りを追いやってしまった。

趙雲はげんなりと肩を落とし、脱力する。
「まったく貴方という人は―――
溜息と共に、もはや趙雲は苦笑するしかなかった。
「俺は子龍のことを信じている。
お前がまっすぐで、決して人を裏切ったりしないことは俺が一番良く分かっているぞ。
そして、お前の肌に鮮やかな色を散らすことが出来るのも、俺一人だ―――
そう言って、馬超は趙雲の首筋に顔を寄せる。

また新たな赤い花を咲かせる為に―――





written by y.tatibana 2008.04.13
 


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