追憶
初めて出逢った時、まるで彼は手負いの獣のようだった。
周囲との関わりを拒み、差し出される手、その全て牙を剥いて……。

そんな彼が私はとても気になったのだ。
別段私は面倒見が良い訳ではないし、わざわざそんな相手に手を差し伸べてやるほど優しくもない。
曹操により一族を失った悲しみは相当深いものだったろう。

しかし理由はどうあれ、蜀に降ると決断したのは彼自身なのだ。
にも関わらず、いつまでも聞き分けのない幼い子供のような態度を取り続けているとは―――と呆れ半分、怒り半分……そんな気持ちだった。
それなのに、彼のことがどうしても気になる。
その理由を導き出せないまま、私は彼と接触を持ち始めた。

それに対して、彼から返された態度は、やはり拒絶というより他の言葉は見当たらない。
素気無く無視され、時には冷たい言葉を投げ付けられて。
それでも私は彼の姿を見かければ声を掛け、酒に誘い、彼との距離を縮めようと試み続けた。
自分でも呆れるほどに、諦めが悪かった。

そして現在―――

隣に目をやればそこで目を閉じ、眠っている彼―――馬孟起がいる。
場所は私の邸の寝所。
その寝台の上に、一つの掛布を分けあって、裸のまま私達二人は並んで身を横たえている。
そう―――いつの間にか私達は一線を越えるまでの関係になってしまった。
まさか当初はこうなることなど予想も出来なかったのだが……。

「……あまり人の顔をじろじろと見るな。
まだ足りなかったのか?」
言って、孟起の瞼が持ち上がり、色素の薄い瞳が私を捕らえた。
どうやらまだ眠ってはいなかったらしい。

「冗談はよせ。
あれだけやっておいて足りない筈などないだろう。
私はお前と違って元々淡白な方なんだ」
溜息混じりに私が零せば、孟起は心外だとばかりに眉をむっと顰めた。
「人を性欲の塊のように言うな。
あれだけ散々よがっておいてよくそんな口が聞けたものだ。
もっともっとと甘い声で強請ってきたのはどこの誰だ?」

孟起の言葉に不覚にも私の顔は羞恥に染まった。
そんなことをした覚えは断じて……いや―――多分……ない……こともない……かもしれない。

顔を赤くしたまま、ぐっと言葉に詰る私を見遣って、孟起は満足したのか、にっと人の悪い笑みを浮かべる。
こうして私をからかうのが、孟起の性質の悪い癖だ。
「可愛い奴だな」
「なっ……」
私はさらに絶句せざるを得ない。
男が―――しかも武人である私が可愛いなどと……。

当然ながら嬉しくも何ともない。
侮辱されているとしか思えない。
羞恥が怒りへと変わり、私は眉を吊り上げる。
拳の一つでもお見舞いしてやらねば、私の気持ちがおさまらない。

だが私が身を起こすよりも早く、孟起が動いた。
私の胸元へと頭を摺り寄せてきたのだ。
動物が飼主に甘えて、己の匂いを染みつけるが如く。

その瞬間、私ははっとした―――とあることを思い出したのだ。
「そうか……そういうことだったのか」
思わず漏れた私の呟きを孟起は聞き逃さなかったようだ。
私の胸元へ寄せていた顔を上げ、不審そうにこちらを見つめてくる。

孟起の金に近い髪と瞳……思えば最初に孟起のことが気にかかったのはその容姿からだったのかもしれない。
そして周囲との関わりを何もかも拒絶するようなその態度が―――とてもよく似ていたのだ「彼」と。
だから私は孟起のことが気にかかって仕方がなかった。
無意識のうちに「彼」と孟起がよく似ているということを、私の心は感じていたのだろう。
孟起のことを放っておけなかったのはその為だったのだ。

くすりと小さく笑う私に、孟起は馬鹿にされたと思ったのか、苛立たしげに口を開く。
「何が可笑しい?」
「あぁ……いや、別に孟起のことを笑ったのではない。
ようやく分かったんだ。
お前のことが何故ああも気になったのか」

私に冷たい態度をとりながらも、孟起も訝しんでいたものだ―――「なぜそうも俺に構う?」と。
「そう言えば、結局お前からその答えは聞けなかったな。
ただのお節介ではなかったのか?」
孟起の問い掛けに私は首を振った。
「私はそれ程お優しくはないさ。
別にお前に隠していたつもりもないのだ……私自身もようやくそれに気付いたのだとさっき言っただろう?」
「ならば、一体……?」
「お前がとても似ていたんだよ、遠い昔、共に過ごした『彼』に。
だから私はお前を放っておけなかった」

私の言葉に孟起は目を見開く。
上機嫌の私とは対照的に、次第に孟起の瞳が険を帯びていくのが分かった。
しかし私にはその理由が分からなかった。
「孟起……?
お前何を怒っている?」
「ふざけるな!」
突如孟起は私を怒鳴りつけた。私は驚き、ただ眼を瞠るしかない。
「お前にとって俺はただの身代わりだったということだろう?
俺に似ているというその男のことをお前は想っていて、俺自身のことなど何とも―――
私は孟起の言葉の途中で、思わず笑い声を上げてしまった。
孟起が何を言わんとしているのか、そしてその怒りの原因が何であるのかを理解したからだ。
そしてそれがとんだ見当違いであることが可笑しかったのだ。


私が笑うのを見て、ますます孟起の眼差しが鋭くなる。
それに対し私はまずは「すまない」と素直に詫びる。
「勘違いしないでくれ、孟起。
確かに『彼』のことは今でもとても大好きだ。
最初、お前のことが気になったのも『彼』に似ていると無意識に感じたからだろう。
だがそれは単なる切欠に過ぎん。
私がお前とここまでの関係になったのは、馬孟起という男に惚れた故だ。
何度も言うように今の今まで、お前が『彼』に似ていると私自身分かっていなかったのだから」

だが孟起は険しい表情を崩そうとはしなかった。
私の言葉が信用ならないのだろうか。
「お前が俺に別の男のことを重ねている訳ではなくても、そいつのことが今でも好きなのだろう?
今はっきりとそう言っただろうに」
私はまたしても思わずくすりと笑いを漏らしてしまう。

そうして胸元から私を見上げてくる孟起へと手を伸ばすと、その髪をわさわさと撫でてやる。
「お前の方こそ可愛いな」
先程私が言われた言葉をそのまま返してやる。
かっと孟起の頬に朱が差した。
立場が逆転してみて、私の気持ちが少しは分かっただろうか。
しかし孟起が『彼』を相手に―――嫉妬しているのがどうにも愉快だ。

だがこれ以上、孟起に臍を曲げられては後々大変そうだ。
私はまだ告げていない『彼』のことを孟起に話してやることにした。
「勘違いしているようだが……『彼』というのは人間ではないぞ」
「は?」
 孟起の表情が怒りから驚きへと取って変わる。
「だから、『彼』は人間ではないのだ。
『彼』は、お前と同じで陽に当たると毛や瞳の色が金に輝いて見えた大型の犬のことだ」
「い……犬だと?」
「そうだよ。
私が幼き頃、近くの山を寝床にしていた犬のことだ。
髪や瞳の色が似ているだけではない。
私が『彼』と山の中で始めて出逢った時、『彼』は大きな怪我を負っていた。
私が手当てをしようと傍に寄ろうとすれば、牙を剥き、散々に吠えられたものだ。
気位の高い『彼』は決して誰も近づけようとはせず、助けを拒絶していた―――誰かさんとそっくりだとは思わぬか?」

私の言葉を受けて、孟起はふんとそっぽを向いてしまう。
やれやれ……だが、自覚はあるらしい。
「それでもめげずに『彼』に会いに行くうちに、段々と傍に寄ることを許してくれるようになったんだ。
日の光の中に佇む『彼』の姿はそれは気高く、美しかった。
目が離せなくなってしまう程に。
これもまた戦場での誰かに似ているな……私を惹き付けて止まぬ誰かに」

孟起の瞳が再び私へと移される。私はにっこりと微笑んだ。
「言葉はもちろん通じなかったけれど、『彼』の瞳は『彼』の言葉を雄弁に物語っていた。
『彼』の傍にいるととても心が安らいだんだ。
私は暇があれば山へ行き、彼と楽しい時間を過ごした。
あまり長くは続かなかったけれどね……」
「……そいつに何かあったのか?」
どうやら機嫌が上向いてきたらしい。
気遣わしげな眼差しで、私を見つめてくる。

私は静かに首を振った。
「孟起が心配してくれているような悲しいことは何もないよ。
ある日、いつものように山へ行くと、『彼』の傍らに寄り添う別の犬の姿があった。
直ぐに分かったよ、『彼』に守るべき大切なものが出来たのだと。
とても優しい瞳で隣の犬を見ていたから。
私はそれ以後、山へは行かなくなった……彼らの生活を邪魔したくはなかったからな。
会うことは叶わずとも、きっと彼の血は今も受け継がれていると思う」

酷く懐かしい『彼』との思い出。
孟起に話すうちにあの頃のことが、鮮明に甦ってくる。
その感傷に刺激されたのだろうか―――意識せぬままにぽろりと涙が一粒零れ落ちた。
「あれ……?」
一番驚いたのは私自身だった。
昔を思い返し、感情が昂って涙を見せてしまうなど、何とも気恥ずかしいことこの上ない。
慌てて涙を拭こうとする私の手は孟起によって捕らえられる。

そのまま孟起は身を起こすと、私の頬を伝う涙をぺろりと舐めとった。
「孟起!」
「犬に似ているというから、真似してやったのだ」
人の悪い笑みを浮かべる孟起は、もういつもの彼の姿だった。
しかしそれが孟起なりの私への愛情の示し方なのだろう。
「真似ねぇ……『彼』はもう少し素直だったぞ」
私がからかう様に言うのに、孟起はふふんと鼻で笑う。
「そうか、ならば俺も素直になろう。遠慮はせんぞ」

言うなり孟起は私に口付けを落とし、私の身体を弄りだす。またもや形勢が逆転してしまった。
「ちょ……待て、孟起!」
「待てんな。
どうやら発情期がきたらしい」
「……っ!
お前は年中発情期だろうが!」
私の叫びは、結局虚しく響くだけであった―――





written by y.tatibana 2007.11.11
 


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