L-side - No8 ※シリーズものの為、L-sideのNo8より前を未読の方は、 そちらを先にご覧下さい。 |
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雪原の中を、幼子はさ迷い歩く。 苦しい。 咳が止まらない。 けれど立ち止まってはいけない。 後ろから追ってきているかもしれないから。 足を止めてしまえば、己の首に指が巻きついてくる―――そう細く乾いた母の指が。 「お前など生まれて来なければ良かったのにっ!」 狂ったような甲高い母の声が、耳元で繰り返される。 幼子は懸命に足を進める。 倒れても立ち上がり、苦しそうな咳を繰り返しながら。 けれどどこに行けばいいのだろう。 あの今にも朽ち果てそうな小さな家と、その周囲が自分にとって全世界だった。 それ以外の場所など知らない。 頼るあてなどもちろんない。 このまま歩き続けたとて、結局はこの雪の中で野たれ死ぬだけなのだろうか。 ならばあの時、母に殺されていた方が良かったのか……。 何の役にも立たない自分。 ただ周囲の重荷になるだけの存在。 一体自分は何の為に生きているのか―――。 それも分からないのに、死ぬことが怖かった。 生きていても必要とされることなどないのに、命に未練たらしくしがみつく己が浅ましく思えた。 そうしてどれだけの間、幼子は歩き続けたことだろう。 雪に足を取られ、倒れた身体をとうとう起こすことができなくなった。 冷たいはずなのに、何故か雪の中が暖かく感じて、幼子はそのまま目を閉じる。 眠るようにして、その幼子―――趙雲は意識を手放したのだった。 ぱちぱちと小さく木の爆ぜる音に、趙雲の意識は引き戻される。 「気が付いたか?」 と、同時に投げかけられたのは、しわがれた声。 自分が置かれている状況が分からぬままに、趙雲は反射的に声の方へと視線を移す。 やや離れた場所に座り、趙雲の方を見ている初老の男がそこにはいた。 もちろん趙雲の知る顔ではない。 「……誰? ここは……どこ?」 怯え震える声で趙雲は呟きながらも、周囲を見渡す。 趙雲が住んでいた所とそうは違わぬ小さな住居だった。 ただ隙間風が吹き込んでくるようなことはなく、中央に設えられた囲炉裏には火がくべられ、室内を暖かくそして明るく照らしていた。 狭い室内には所狭しと大小の壷が並べられている。 男の他に人影はなかった。 「雪の中で行き倒れておったお前を見つけて、わしの住まいまで連れてきた。 童、お前は何処からやって来た?」 そんな男の問いかけに、趙雲はまだ霞む記憶を辿る。 自分が雪の中で倒れたところまでしっかりと思い出すことが出来る。 そして―――これが夢ではなく、自分がまだ生きているのだと実感する。 あんなにも死にたくないと思っていたのに、現実にこうして助かってみるても、そこにどんな喜びもなかった。 寧ろ、これからどうなっていくのかという不安だけが、湧き上がってくる。 「聞こえているのか?」 黙ったままの趙雲に男は再度静かに問うてくるが、趙雲はただ無言で首を振る。 自分が何処から来たのかなど言う訳にはいかない。 そしてその理由も。 言ってしまえば、あの場所へ戻らねばならなくなるかもしれない。 それは出来ない。 それ以前に趙雲は自分が暮らしていたあの貧しい村の名前すら知らなかったのだ。 そんな趙雲のことをどう思っているのだろうか。 男はもうそれ以上何も尋ねてこようとはせず、立ち上がった。 それを感じて、思わず趙雲は身を強張らせる。 得体の知れぬ自分を、ここから放り出そうとしているのだと思って。 しかしそれは杞憂に終わった。 男は趙雲の傍を通り過ぎると、その近くにあった壷の蓋を開けた。 そこから草らしきものを掴み出すと、元の場所へと戻ると、それを擂鉢で煎じ始めたのだ。 手馴れた様子で擂り終えると、そこに湯を注ぎ、今度は趙雲の方へとやって来た。 男の意図が読めず固まったままの趙雲の身を、男は起こす。 「これを飲め」 強烈な匂いが鼻腔をつき、趙雲は顔を歪めた。 拒絶を示し、首を振る趙雲に、男は尚もそれを近付けてくる。 「心配いらん、毒などではない。 薬湯だ。 熱があるようだが、これを飲めば楽になる―――さぁ」 口元に擂鉢を押し付けられて、趙雲は薬湯だという男の言葉を信じて、嫌々ながらも口をあけた。 流れ込んできた液体で、口の中一杯に苦味が広がる。 それをぎゅっと目を閉じながら、趙雲は飲み干していく。 ようやくすべてを飲み終わると、男は趙雲の身体を再び横たえた。 そうして、また最初に座っていた位置まで戻り、男は胡坐をかいた。 そのまま趙雲の方を見ようとも、話しかけようともせず、じっと囲炉裏の炎を眺めているだけだった。 趙雲は頭だけを動かして男の方をぼんやりと見つめながら、眠気が襲ってくるのを感じていた。 一体何者なのだろう? あの人は自分をどうするつもりなのだろうか? これから自分はどうなっていくのか? 兄はどうなっただろう? 様々な疑問が次々と頭の中に浮かんでくるが、そのどれに対する答えも趙雲は持ち合わせてはいなかった。 ただぐるぐると答えの出ない問いかけが頭の中をぐるぐると駆け巡るだけだ。 そして―――母は、今何を想っているのか? お荷物の我が子の息の根を止められなかったことに、腹を立てているのだろうか? 自分に対する憎しみを募らせているか? それとも……少しは悔やんでくれてくれているだろうか? 我に返って、姿を消した自分のことを心配してくれているだろうか? あぁ……そうだったなら良いのに―――。 「ごめん……なさい……」 呟きと共に、趙雲は目を閉じ、眠りに落ちた。 夢の中の母は笑っていてくれるだろうか。 自分を優しく抱きしめてくれるだろうか。 趙雲の閉じた目尻から、涙が一筋零れ落ちた……。 趙雲を助けた初老の男は、非常に無口だった。 名を名乗ることもなく、何者かもその口から語られることはなかった。 そして、趙雲のこともあれこれ詮索することもなく、名さえも訊ねてはこなかった。 しかし趙雲を無理矢理追い出すようなことはせず、質素ながらも食事も与えてくれた。 その男の生活を追っているうち、趙雲にもいくつか分かったことがある。 どうやら武術の心得があること。 毎朝早く、戸口に立てかけてある古びた槍を手にして、外でそれを振るう姿を見たからだ。 薬の知識にも長けているようだった。 家の中にある多くの壷類には、山々で採取してきた薬草が収められていたのだ。 相変わらず趙雲の身体は弱く、よく熱を出しては寝込んだ。 その折でも、男が作ってくれる薬湯を飲めば、熱は下がり、咳も随分と楽になるのだ。 そうして体調が良い時には、掃除、洗濯、そして見よう見まねで薬草の選別など、出来ることから男を手伝った。 それでも、二人の間にやはり会話らしい会話はなかった。 趙雲が話しかけても、男からは「ああ」とか「いいや」とか、そんな短い返答しか返ってこず、話が続かないのだ。 趙雲もいつしか諦めて、必要なこと以外は男に話しかけることもなくなった。 結局互いに名乗らぬこともせぬままに……。 そんな風にして幾年か過ごすうちに、脆弱だった趙雲にも徐々に体力がついてきた。 昔ほど寝込むこともなくなっていた。 背も伸び、体重も増え、痩せっぽちの幼子から見違えるような少年へと成長したのだ。 そんなある日、男が趙雲に槍を差し出した。 何処から手に入れてきたのか、趙雲の身体に合った槍だ。 それを趙雲に渡すと、男はやはり無言でいつもと変わらず一人黙々と槍を振るいだした。 手渡された槍と、男の姿を、趙雲は交互に眺めていたが、やがて男の隣で槍を構える。 そして男の動きをなぞる様にして、見よう見まねで、槍を動かし始めた。 男が趙雲に直接槍術を指南することはなかった。 けれど趙雲は懸命に男の動きを観察し、盗み、毎日欠かさず槍を握ったのだった。 このまま日々は続いていくのだと、趙雲は何の疑問もなく信じていた。 然程会話はなくとも、ここまで面倒をみてくれた男のことを信頼していたし、感謝してもいた。 自給自足の貧しい暮らしではあったが、幼い頃のあの日々と比べるべくもない。 体力もついたし、薬の知識も、槍の操り方もまだまだ未熟ではあるが、知ることができた。 ここでの暮らしに、趙雲は不満などなかった。 しかしそれは終わりを告げようとしていた。 趙雲の知らぬところで、残酷な運命は忍び寄ってきていたのだ。 「最後に頼れるのは、己のみだ。 その為に力を付け、知識を蓄えるのだ。 決して自分以外の人間を信じるな―――他人の心の中など決して分からぬもの。 絶対に分かり合うことなどできない。 自分の運命は自分の手で切り開け」 突然、趙雲に向けて、男はそんな言葉を放ったのだ。 この男がこれほど多くの言葉を話すのを、趙雲ははじめて聞いた。 しかし何故急にそんなことを男が言い出したのか、趙雲は分からなかった。 男の意図がみえない。 驚き目を見開く趙雲をその場に残し、男は外へと出て行った。 入れ違いに見知らぬ男が入ってきた。 誰だと問うより前に、大きな体躯の男は趙雲へと近付いてくる。 舐めるようにして趙雲の上から下までを眺めた後、ぐいっと趙雲の顎を掴み、趙雲の顔を上向かせた。 「ほう……これはかなりの上玉だな」 男は趙雲の顔をじっと検分した後、にやにやと卑下た笑みを浮かべる。 酒臭い男の息が顔にかかって、趙雲は気持ち悪くて顔を顰めた。 「何をするんですか? 離して下さい」 言って趙雲は男の手から逃れようとするか、男の手は緩まない。 何が可笑しいのか、今度は馬鹿にしたように声を出して笑う。 「離して下さい……か。 残念だが、それは出来んな、坊主。 何せお前はこの俺に売られたんだからな」 「……えっ?」 またもや理解できずに呆然とする趙雲の顔から男はようやく手を離すと、今度は趙雲の身体を米俵を担ぐようにして、肩に易々と担ぎ上げた。 一方の手で趙雲の身体を押さえ、もう一方の手を懐に入れた男は、そこから膨らんだ布袋を取り出した。 それを趙雲が先ほどまでいた床へと投げ捨てた。 がしゃりと何か金属のようなものが擦れあう音が、趙雲の耳に届く。 その音で我に返った趙雲は、状況を呑み込めぬまま、担ぎ上げられた男の肩口で暴れる。 だが男の大木のような腕はしっかりと趙雲を押さえつけていて、その拘束は緩まない。 いくら成長したとはいえ、所詮は大人と子供―――敵うはずもなかった。 「無駄だよ、おとなしくしろ。 言っただろうが、お前はあのじいさんに売られたんだよ。 そこに置いた金と引き換えにな。 だからお前の身は俺が貰っていくんだ。 だがまぁ安心しろ……俺がお前をどうこうする気はない。 お前ほどの上玉なら街の金持ちに高く売れそうだからな。 大事な商品に傷はつけんさ―――ま、俺にはそっちの趣味もないしなぁ。 まさかあのじいさんに手は付けられてないだろうな? 初物は高く売れるんだよ」 男の言っている意味は、趙雲には半分も分からなかった。 けれどたった一つようやく理解できたことは―――自分が「売られた」のだということ。 ただそれだけだった。 ゆっくりと目を開けた趙雲は、ぼんやりとした意識のまま、虚ろな眼差しを周囲に巡らす。 豪奢な調度品が並ぶその部屋は、自分が慣れ親しんだ自邸の部屋ではない。 (まだ……私はあの男の邸に……) ここを出て行こうとして、再び意識を失ったことをおぼろげに思い出す。 だが今度は趙雲は寝台に身を横たえたまま、動こうとはしなかった。 否―――動けなかった。 身体が酷く重く、心と身体がバラバラに切り離されてしまったかのようだ。 そして何より―――そんな気力などとうとう奪われてしまっていた。 呼び覚まされた過去の記憶によって。 「お目覚めですか? ご気分は如何です?」 まるで趙雲が目を覚ます機会を見計らったかのように、扉が開き、あの男が―――馬超が姿を見せた。 いつものように冷たい、人を見下すような笑みを浮かべて。 けれど口調だけは優しげに。 この男を前にすると、萎えて切っていた気力が、反発心からか少しだけ蘇ってくるかのようだ。 趙雲は答えなど返さず、その僅かに生まれた気力で、ただ馬超を睨みつける。 「おやおや、どうやらご機嫌は麗しくないようですね」 馬超はその視線を平然と受け止め、肩を竦める。 「前にも申し上げたと思いますが、熱で潤んだそんな瞳で見つめられても、誘っているようにしか思えませんよ。 俺に抱いて欲しいのなら、そう言って御覧なさい。 それとも、今までそうやって男を誘ってきたのかな? 貴方の纏う雰囲気から、男と肌を合わせたことはないと思っていたのだが、俺の読み違えでしたか―――清廉潔癖と言われる貴方が褥ではどんな風に乱れるのです?」 「黙りなさい!」 激しい怒りに、趙雲はとうとう声を荒げた。 それだけで息が乱れる。 咳が出て止まらなくなる。 「ほら、まだ熱は下がっていないですし、無理は禁物だ」 可笑しそうに馬超は笑って、趙雲に近付くと、咳き込む彼の身体を抱き起こした。 そしてまるで労わるように趙雲の背を撫でる。 「さ……わるなっ……」 振り払おうにも、今の趙雲にそんな力はあろうはずもなかった。 話す事が精一杯だった。 「私をここから出せ……お前の戯言などこれ以上聞きたくない……」 「貴方らしくないぞんざいな物言いですね。 何をそんなにむきになっておられる? いつもの貴方なら俺に冷たく一瞥をくれて終わりだったでしょうに。 もしかして図星でしたか? その綺麗な顔で散々男を惑わせてきたのだと」 「ちが……っ」 趙雲の言葉などまるで耳にはいっていない様子で、馬超は趙雲の背を摩っていた手を、そのまま彼の項へと滑らせる。 そうして首筋を通り、趙雲の顔を撫でる。 先程までとは違う明らかな性的な意図を含ませたような手つきで。 「……っ!」 それがまた趙雲の記憶を掘り起こそうとする。 懸命に忘れようと封印してきたそれを。 「う……あ……いや……だ……」 意識がまた遠のき始める。 闇の中に趙雲を引き摺りこもうとするかのように。 目を閉じる直前に見た男の顔は、その欲に濡れた手つきとはまるで異なり、冷めていた。 冷たい光を宿すその瞳は、おぞましい記憶の中にあるどの人間のものとも違っていた。 (そうだ―――私に向けられてきた視線の多くは……) そうして再び趙雲の意識は途切れた。 「ほら、また一つ仮面が剥がれた」 男の愉しげな言葉と共に。 written by y.tatibana 2009.03.07 |
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