L-side - No7 |
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どこからが夢で、どこからが現実なのか―――。 ふわふわとした浮遊感に身体も頭も支配されて、現状が理解出来ない。 ぼんやりと視線だけを周囲に走らせる。 見慣れぬ室内。 否―――ここはあの男の邸だ。 はっきりとしない意識の片隅で、それだけは辛うじて認識できた。 その瞬間、はっと目を見開いた趙雲は、緩慢な動作ではあったが、寝台の上に身を起こした。 自分のものであるのに、まるでそうではないように身体が言うことをきかない。 眩暈がして、意識が再び遠のきそうになる。 それを趙雲の僅かな気力と理性が、何とか踏みとどまらせた。 これ以上、あの男の手の内にいて、良い様に扱われるのは御免だ。 こんな場所から早々に去らなければ。 その一心で、趙雲は力を振り絞り、床へと降り立った。 ふらつく身体を壁へと伸ばした手で何とか支え、ゆっくりとした足取りで歩き出す。 これが夢なのか。 それとも現実なのか。 はっきりと分からぬままに。 そのどちらにせよ、あの男の邸に自分がこのような状態で居ることが許せなかったのだ。 不甲斐なくもあの男の前で涙を流してしまった。 あの男のことが怖くて、震えが止まらなかった。 それは曖昧な記憶の中にも、はっきりと残っていた。 体調が頗る悪いせいだと自己弁護しても、そんな姿を晒した己が情けなく、口惜しい。 もうあの男―――馬孟起の前で二度と失態は晒したくはない。 けれどほんの少し動いただけで、もう息が乱れ始める。 それでもゆるりゆるりと歩を進め、ようやく扉まで辿り着く。 ここから一刻も早く立ち去りたいその一念が、趙雲の心身を支えていた。 しかし、趙雲が扉を押し開くより前に、それは外側から開かれる。 そこに立っていたのは一人の男だった。 「貴……殿は……」 趙雲は肩で息を整えながら、目の前の男を見遣る。 馬超ではなかった。 そこにいたのは馬超の面差しに似た、いくらか年若い青年である。 幾度か城で顔を合わせた事はあった。 言葉も数度交わしたことがあったか。 だがその印象は酷く薄く、存在感を感じさせない男だった。 今や馬超にとって唯一の血族となる従弟の馬岱という名のこの青年は。 「まだ動かれるのは無理かと思いますが」 口調は至極丁寧だった。 しかし、その馬岱の言葉に感情の欠片らしきものを見出すことは出来なかった。 何を考えているのか分からない作り物めいたそんな表情だ。 「そこを……どいてくれ……。 こちらで…世話になる謂れは……私にはない故……」 切れ切れにそう訴える趙雲に対し、馬岱の態度は一向に変わる様子はない。 「貴方が御自分の足で此処を出て行かれるのなら、止めは致しません。 ただ従兄からは、貴方がこの邸の中にいらっしゃる間は丁重に御持て成しするよう申し付かっております。 貴方がこの邸から帰られるお手伝いを、私がすることは出来ませんので、ご了承下さい」 馬岱はそれだけ告げると、室内へと入ってくる。 しかしもう趙雲には一瞥もくれることなく、持ってきた新しい掛け布や敷き布と寝台のものを黙々と取替え始めた。 寒々しい室内に響くのは、趙雲の荒い息遣いと、布が擦れ合う僅かな音だけだ。 趙雲はそんな馬岱の背を、呆然と見つめていた。 本当に先程の言葉通り、趙雲が出て行くことを止める気は更々ないようだ。 ならばと趙雲は再び、壁伝いに歩き始めた。 だが―――それはほんの数歩で終わりを告げた。 気力よりも先に、とうとう無理をさせた身体が悲鳴をあげた。 全身から力が抜けていき、立っていられなくなる。 しっかりしろと己を奮い立たせるも、それは叶わず、趙雲の身体はぐらりと傾いた。 と同時に、意識が遠のく。 そこで遂に趙雲の意識は再び途切れた―――。 貧しい村だった。 冬は一面を深い雪に覆われ、夏でさえ慢性的な日照不足が続く。 大地はやせ細り、ほんの僅かな作物をなんとか収穫できるくらいだ。 それすらも常に保障されているようなものでなく、村人達は常に飢餓と死の隣り合わせの状態だった。 そんな村で、家の隙間から入ってくる寒風に、コンコンと咳き込む幼い子供の姿がある。 家という程立派なものではないのかもしれない。 木を寄せ集めて作った、小屋といった方が相応しい。 小さなその空間の中に、不釣合いな程の大勢の人間が身を寄せ合うようにして暮らしていた。 その隅で、幼子は背を丸めて苦しそうに咳を繰り返す。 「大丈夫か、雲?」 優しくそう声を掛け、幼子の背を労わる様に撫でる少年は、幼子―――趙雲の一番上の兄だった。 「無理はしないで、横になっていた方が良い」 「へ……いき」 兄の言葉に、趙雲は咳き込みながらも、頑なに首を振る。 趙雲は生まれつき身体が弱かった。 沢山居る兄弟達は乳飲み子を除けばみな、生活を支える為、畑を耕したり、山に入り糧になりそうなものを集めたりと、両親を助け懸命に働いていた。 そんな中で病弱な趙雲だけはよく体調を崩し、他の兄弟のように手助けすることも儘ならなかった。 助けどころか、一家のお荷物になっているといっても過言ではない。 趙雲より幼い弟や妹ですら、懸命に働いているというのに。 趙雲も役に立たない自分を幼心に情けなく思うが故に、自分だけ横になって休むなど出来るはずもなかった。 当然そんな趙雲に家族の風当たりは厳しかった。 ただ一人、一番上のこの兄だけは、趙雲に対していつも優しく接してくれる。 そっと趙雲の額に手をあてると、少年は眉根を寄せた。 「熱もあるじゃないか……。 我慢なんてしなくて良いから、休めよ、雲」 それでも趙雲は何度も何度も頭(かぶり)を振る。 これ以上家族の重荷になりたくなかった。 背中に突き刺さる家族の―――特に母の視線が痛かった。 母もまたこんな自分を産んだことを、父から詰られ、その苛立ちをこちらへ向けるしかなかったのだろう。 「ごめんな……薬も買ってやれなくて。 早く大きくなって、もっと働けるように俺が頑張るから……そしたら薬も買って、お前を楽にしてやる。 もう少し我慢してくれ……すまない」 兄はそう言って、趙雲に詫びるのだ。 兄は何一つ悪いことなどしていないのに。 責められるべきは役立たずの自分の方なのだ。 「ごめんなさい……ごめんなさい……」 兄の優しさがかえって心苦しくて、趙雲は謝罪を繰り返して涙を流す。 今まで幾度こうして泣きながら、同じ言葉を繰り返したことだろう。 震え、泣くことしか出来ない。 何の為に自分は生きているのだろうと考えてみた。 ただ家族を苦しませる為だけに、存在しているとしか思えなかった。 そうしてその冬に、事態は更に悪化することになった。 一家の働き頭だった父が突然亡くなったのだ。 趙雲達一家の生活は、益々困窮した。 明日をも知れぬ暮らしだった。 にも拘らず、趙雲の身体の調子は一向に良くはならず、足手まといのままだった。 そんな夜中―――眠っていた趙雲は息苦しさを覚えて、目を覚ました。 辺りは闇に支配されていて、何も見えなかった。 だが、ぐいぐいと何かが自分の首を絞めていることだけは理解出来た。 「や……めて…」 か細い声を絞り出し、趙雲は何とか首に巻きついたものを外そうとする。 そしてそれに触れてみて、それが人の手であると認識する。 覚えのあるそのかさかさに乾いた手―――母のものだと趙雲はすぐに悟った。 母が自分のことを殺そうとしている。 それを知り、愕然とすると同時に、それは至極当たり前のことのように思えた。 この家族の中で、誰が一番不必要なのか。 それは考えてみるまでもないことだ。 自分さえ居なくなれば良い―――生きていても何の役にも発たず、誰の為にもならないのだから。 もっと早くこうされていれば良かったのだと。 趙雲の身体から力が抜けた。 ここで自分は死ぬべきだと悟ったからだ。 「ごめ……んなさ…い」 苦しい息の下から、趙雲はそう呟く。 意識が遠いていく。 指先から身体が冷えていく。 もう二度と戻れない深淵へと落とされていくような感覚。 無意識に全身が震えた。 覚悟した筈だったのに―――怖かった。 死ぬということがこんなにも恐ろしいものだと、思ってもみなかった。 「止めろ!」 そんな兄の叫び声と共に、頸部への圧迫が唐突に消えた。 趙雲はゲホゲホと咳き込み、荒い息を繰り返す。 暗闇の中、趙雲の傍で激しくもつれ合う気配がする。 「雲、逃げろ!」 「あ……にうえ……?」 「早く逃げるんだ、雲!」 必死に叫ぶ兄の声と、離せと言う母の声が重なり合う。 兄が自分の息の根を止めようとする母を、懸命に押さえつけてくれているのは明白だった。 趙雲は気だるい身体を無理やりに起こす。 兄の声に急き立てられるように、趙雲は出口に向かって走った。 まだ混乱して動転しながらも、そのまま外へと飛び出す。 一面を覆う白銀の世界。 その中を裸足のまま、幼い趙雲はただ走った。 何度も後ろを振り返りながら。 行くあてなどもちろんない。 けれどももうあそこには居られない。 死んでも構わないと一度は考えたけれど、それを目前にすると怖くて死にたくないと思ってしまったから。 走ることに疲れても、咳き込みながら趙雲は歩き続けた。 死の恐怖から逃げる為に。 自分の中にこれ程まで、生への執着があったことを幼心に驚きながら。 故郷といわれる場所を、この時趙雲は失くしたのだった―――。 written by y.tatibana 2007.09.07 |
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