L-side - No5 |
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毎夜夢に現れる幼子。 粗末な衣を纏い、酷く痩せ細っている。 今にも命果てそうなその幼子の泣き声が辺りに響く。 弱々しく繰り返されるのは、「ごめんなさい」という謝罪の言葉。 そう―――あれは過去の私。 思い出したくもないその姿。 ただ泣くばかりだった幼き頃。 だがもうあの頃の私ではない。 己の手で道を切り開いてき、武を磨いてきた。 そうして劉備という主君の元、蜀という国で確固たる地位を得たのだ。 何に脅かされることがあろうか。 もう過去の囚われる謂れなど全くないのだ。 けれど、眠りに就く度に過去が夢で甦る。 とうに忘れ去っていたのに―――現にこれまでは夢はもちろんのこと思い出すことすらもなかった。 それを夢で見るようになったのは、あの男が……馬孟起が現れてから。 すべての元凶はあの男にあるのか。 否。 あのような男が一体私にどんな影響を及ぼすというのだろう。 私は決して何人にも心乱されたりはしない。 まして同性である私を抱きたいと臆面もなく告げるような、巫山戯た輩になど。 そう一笑に付してみても、夜毎に夢は変わらず訪れる。 そして私は―――。 びくりと身体を震わせて、はっと趙雲は目を覚ます。 暗く静まり返った室内に、趙雲の乱れた息遣いが響いた。 ゆっくりと寝台から身を起こし、呼吸を整えるために何度か深呼吸を繰り返す。 無意識に喉元に充てていた己の手に気付き、趙雲は小さく舌打ちし、それを額へと運んだ。 そのままそこにじっとりと滲んでいた汗を拭う。 額だけではなく、全身も汗に濡れ、酷く不快だった。 息の乱れが収まったところで、趙雲は寝台から降り立った。 窓から届く光はなく、まだ朝までは遠いことが分る。 それでもしばらくすれば目は闇に慣れ、趙雲は周囲をぐるりと見渡す。 そこは見慣れた自室。 趙雲は意識せぬままにほっと安堵の息を漏らした。 大丈夫だ、自分はしっかりとここに存在しているのだと認識して。 同時に、そんな風に感じてしまった己に気付き、趙雲は愕然となる。 何を怯えているのかと。 あんな夢如きで―――そう自身を叱咤する。 しかし夢に魘され、追い立てられるように目を覚ます日々がずっと続いていた。 再び眠りについても、それは浅く、また同じことが繰り返される。 徐々に夢と現実の境目が曖昧になってきているようだ。 今の自分の方こそ、本当は夢の中の存在で、現実は夢の方なのかもしれない。 そんな感覚に陥り、趙雲は思わず現状を確かめずにはいられなかった。 だから室内を見回し、そこが成都にある自邸だと確認して、胸を撫で下ろしたのだ。 「馬鹿馬鹿しい……」 口癖になってしまったその言葉を忌々しげに吐き出し、趙雲は一度大きく首を振る。 そのまま趙雲は部屋を出、湯浴みへと向かう。 身体に纏わりつく不快な汗を流し、そして霞掛かった思考をはっきりと呼び覚ます為に。 だが、まだこの時点で趙雲は気付いていなかった。 繰り返し見る過去の夢が、刃へと姿を変え、自身の心と身体に少しずつ見えない傷を残していることに―――。 「……殿、趙雲殿」 呼ばれる声に、趙雲ははっとして顔を上げた。 多くの視線が自分に注がれていることをすぐに察する。 巨大な机を挟んで両脇に、蜀の主だった武将や文官が並んで座っている。 上座で羽扇を手に、立ち上がっているのは丞相諸葛亮。 そう……今この場所では軍議が行われていた。 当然ながら趙雲も参加し、いつものように諸葛亮の主導で軍議は始まったのだ。 魏や呉の最近の動向についての報告がまずなされた。 ―――と、そこまでの記憶は趙雲にはあった。 だがそこから先のことはまるで覚えていない。 どれだけ記憶を手繰ろうと、何も思い出せないのだ。 何故そんなことになったのか。 思い当たる原因は一つ―――いつの間にか居眠ってしまっていたのだ。 「私の話しは退屈すぎて、子守唄にでも聞こえましたか?」 趙雲の考えを裏付けるように、諸葛亮は冷めた瞳でもって趙雲を見遣る。 先程趙雲を眠りから呼び覚ましたのも、この諸葛亮の冷めた声であった。 「いえ、そのようなことは決して……。 申し訳ありません」 趙雲は深く頭を下げる。 弁解の余地もない。 「貴方らしくもない。 余程お疲れなのでしょうか?」 相変わらず諸葛亮の声音は冷たさを含んでいる。 対して趙雲は静かに首を振る。 とんだ失態だ。 大切な軍議の最中に眠ってしまうなど。 今までそのようなことを仕出かしたことはもちろんなかった。 周囲から失笑が漏れるのが趙雲の耳に届いた。 羞恥に思わず顔に朱が昇る。 唇を噛み、屈辱に耐えるように膝に乗せた手にぐっと力を込めた。 ここしばらく、ゆっくりと眠れてはいなかった。 あの夢のせいで。 それでも自身ではしっかりとしているつもりであったし、それを悟らせる素振りもみせなかった筈だ。 これまでとて多忙を極めて、充分に休むことの出来ない時期を過ごしたことが幾度もあった。 その時でも今回のような失態を晒したことはない。 本当に自分らしくなかった。 そう思ったが、何故か趙雲は心に微かな違和感を覚えた。 ただその原因の正体が全く分からない。 それほどまでに自分の心身は疲弊しきっているのか。 趙雲はようやく今の己の状態が、自分が認識している以上に悪いのだと気付く。 だがそれを理解したところで、軍議の最中に眠ってしまったことの正当な理由にはならない。 所詮は自己管理が出来ていない人間のただの言い訳にしか過ぎないのだ。 「申し訳ありません」 再度趙雲は謝罪を口にし、顔を上げた。 いつまでも羞恥に顔を染め、俯いている訳にもいかない。 趙雲は動揺を抑え、いつも通りの冷静な表情を作る。 くすりと斜め前から笑い声が漏れる。 人を馬鹿にしたようなそれを誰が発したのかなど、趙雲には相手を見ずとも分かることだった。 視界の端に、相手が―――馬超がだらしなく頬杖を付いて、こちらを見ているのが映った。 趙雲は当然馬超の方へ最後まで視線を向けることはなかった。 軍議の後、趙雲は修練場へと向かった。 身体でも動かせば、すっきりとしない気分も少しは晴れるかと思ったのだ。 だが頭も身体も妙に気だるく、自然と歩調も鈍くなる。 少し熱があるのかもしれない。 そう感じたが、そんなこと如きで休むようなことは趙雲には出来なかった。 「随分と具合が悪そうだ」 ふいに背後から掛けられた声に、趙雲は眉根を寄せた。 はっきりと不快であるとその表情に表して。 趙雲は足を止めることなく、回廊を進んでいく。 「貴方のことが心配で追って来たというのに、相変わらずつれない人だ。 それ程までに俺のことが怖いですか?」 趙雲に無視されようとも、気分を害された様子もなく問い掛けてくる声。 つまらない挑発に乗るなと、趙雲の内からは警告が発せられる。 こちらの心を乱そうというあの男のいつもの手管なのだと。 趙雲は構わず歩く。 「お逃げになられるのか?」 男の嘲笑う声が耳に届いた。 趙雲はとうとう立ち止まり、そして振り返った。 武人である趙雲にとって逃げるという言葉は聞き捨てならなかったのだ。 柱に身を持たせ掛け、腕を組んだ馬超がそこにいた。 口元には相変わらず人をくったような笑みを刻んで。 「私には貴方と話している余計な時間などないのです。 それに別段具合が悪いということもありません」 馬超に弱みを見せることだけは我慢がならない。 それでなくとも先程の軍議の席上での失態を見られているのだ。 実際体調は優れないが、もうこれ以上惨めな姿を晒すつもりはなかった。 そんな気力で趙雲は己を奮い立たせる。 そうして挑みかかるような鋭い眼差しで、馬超を射抜くのだった。 馬超の薄い色彩の瞳がそれを受けてすうっと細まる。 至極楽しそうに。 「貴方のそういう瞳は俺を高揚させるだけなのだと気付いていますか? それとも―――知っていて、俺を楽しませて下さっているのだろうか。 本当にお優しいですね、長坂の英雄殿は。 どうせなら抱かせてくれるのが一番嬉しいのだが」 「言いたいことはそれだけですか? ならば、私は失礼します。 貴方の戯言はもう聞き飽きました」 趙雲の口調はどこまでも低く冷たい。 対照的に馬超は笑みを崩さない。 「安心されると良い。 時間を掛けて優しく抱いてあげますよ―――初めてでしょう? 誰かと肌を合わせるのは」 どくりと趙雲の鼓動が一度強く打った。 馬超は柱からゆっくりと身を起こすと、趙雲の方へと近づいてくる。 「貴方からは性の香りが全くしないと、俺は以前申し上げた筈だ。 意識的にそういったことを避けているとも。 過去に何かあったのでしょう?」 ゆったりとした足取りで、馬超は徐々に趙雲との間を詰めていく。 「それを周囲に知られたくない為……そして何より貴方自身が思い出したくないから、誰も近寄らせまいとする。 心を乱され、過去が甦るのを貴方は怯えている。 だから多くの仮面を被り、被され―――己を懸命に守ろうとしている。 そんなものは捨て去り、全てを曝け出して、本当の貴方を見せて御覧なさい。 俺が受け止めて差し上げますよ」 馬鹿なことを……と冷たく吐き捨てて、こんな男の相手など早々に切り上げれば良いのだと趙雲の頭は命じる。 やらねばならぬことは山積しているのだ。 いつまでも構ってやるほど暇ではない。 なのに―――。 声が出なかった。 身体も動かない。 それらの機能が己の意志からは切り離されてしまったかのように。 自分の身の内へ男の手が入り込み、傍若無人に掻き回されているかのような不快感が襲ってくる。 普段の自分であったならばこれしきのことで決して乱されはしないのに―――。 体調が芳しくないせいなのだろうか。 らしくもない……しっかりしろと己を鼓舞する。 それでも馬超との間合いが狭まっていく毎に、鼓動が早くなる。 呼吸が出来なくなってくる。 胸を締め付けるような苦しさが襲う。 以前、戦場で馬超と見(まみ)えた時と同じだ。 だが、今回は全く身体が言うことをきかない。 徐々に意識が遠のいていくのを、まるで他人事のように感じている自分がいた。 傾いて倒れゆく己の身体を、最早趙雲はどうすることも出来なかった。 だがその身体は床に叩きつけられることはなく、何かに受け止められた。 趙雲がそれを認識することはなく、完全に意識を手放す瞬間にただ一言の言葉が耳に届いただけであった。 「捕まえた」 と、とても楽し気声が。 written by y.tatibana 2005.09.23 |
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