L-side - No4

侵食
深い闇の中―――
泣き声が聞こえる。
やがて微かだったそれが徐々に大きくなっていき、はっきりと耳に届く。

そうして。
闇に浮かび上がってくる小さな姿。
粗末な着物を纏った酷く痩せたまだ年端もいかぬ少年だった。
俯き堅く握った拳を目にあて、その少年は泣き続けてた。

その嗚咽に混じって、声が聞こえた。
泣きながら、少年が繰り返していた言葉。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

そう何度も何度も。

ふいに少年が顔を上げ、ゆっくりと視線を移す。

蒼白い顔。
小刻みに震えている小さな身体。
そして涙に濡れ、怯えを滲ませた瞳がこちらを捉えた。





あれは…。
あの子供は―――





それに気付いた時、ふつりと映像は途切れた。





ハッと眠りから覚め、寝台の上に趙雲は身を起こす。
ゆっくりと息を整え、周囲を見渡す。
適度な大きさの天幕の中だった。

趙雲はゆるゆるとかぶりを振る。
武人の自分にとっては見慣れた場所だ。
国境での魏との小競り合いに片をつけ、久々にゆっくりと寝台で眠りについた。
明日には陣を引き払い、成都へ向かい帰還する。

今更何故……あんな夢を見たのだろう。

無意識のうちに、趙雲の手は己の首へと伸びていた。
そっと労わるように喉元を撫でる。
そこではたと我に返り、趙雲は慌ててその手を下ろした。
「馬鹿馬鹿しい…」
吐き捨てるように呟くと、趙雲は寝台から降り立った。

薄い夜着のまま、天幕を横切り、外へ出る。
見張りの兵がぎょっと驚いた様子で趙雲を見て、口を開きかけたが、趙雲はそれを目で制した。
いくつかの陣幕の間を縫い、趙雲は裏手の川べりに出た。
膝を尽き、川面に手を伸ばす。
ひやりとする水を掬い上げ、趙雲は顔を洗った。
その冷たい感覚に微かに残っていた眠気も振り払われた。





―――それでも消えない心の靄。





戦には勝利した。
自軍の犠牲も最小限のものだった。
それらは趙雲の指揮する隊の働きが大きかった。
「流石は趙将軍」
口々にみなが趙雲の功績を称えた。

ただ一人―――あの男を除いては。

人々の輪から外れ、腕を組み、いつものように人をくったような笑みを浮かべて、あの男は趙雲を見ていた。
諸葛亮から命じられ、男もまた趙雲と共に戦場へ赴いていたのだ。
趙雲のことを好きだと、そして……抱きたいのだと言った男。
趙雲はもちろん戯言だと相手にしてはいなかった。
けれど、そんな趙雲に対しあの男はこう言ったのだ。

仮面を脱ぎ捨て、本性を見せてみろと。
本当は他人に心の中に踏み入られ、自分を乱されるのが怖いのだろう…と。

違う。
仮面など被ってはない。
己の意志と信念の赴く通りに生きている。
まして、誰かに乱されるほど自分は弱くはない。
怯える必要などどこにあるというのか。
そう幾度となく否定しようとも、あの男はそれを一笑に付す。
あの男は狂っているのだとしか趙雲には思えなかった。

武人として、劉備の大義の為だけに一心に働いてきた。
戦場で兵を預かる将として、どんな時でも冷静に、自分を厳しく律して生きてきた。
それらは全て己の意志だ。
誰に指図された訳でもない。
結果それが、劉備はもちろん諸将からの信頼を得るに至り、蜀という国で確固たる今の地位を築いたのだ。
何を恐れることがある。
訳の分からぬ戯言を繰り返すあの男の存在は、趙雲にとって不可解で、そして不快だった。





だがそこで趙雲は愕然となる。
いつの間にか馬超のことを考えていた自分に対して。
無意識のうちに、あの男の言葉を反芻し、否定していた。
しかもそれはこれが初めてではなかった。
これまでにも何度か、ふとした拍子に馬超の言葉を思い出すことがあったのだ。

馬孟起という男の存在と言葉が、晴れぬ心の靄を齎しているとでもいうのか。

趙雲はぎゅっと強く胸元の衣を鷲掴む。
己の内をじわじわと侵食してくるような異物感。
その得体の知れぬ感触に、嘔吐感が込み上げてくる。

「どうされた?
そのような格好では風邪を引かれますよ」
不意に後ろから掛けられる声。
そしてそれと共に肩に掛けられた衣。
冷え切っていた身体を暖かさが包み込んだ。

趙雲は思わず眉根を寄せた。
今最も会いたくなかった人物だ。

だがそれをすぐさま覆い隠し、趙雲は立ち上がり振り返る。
「いえ…何でもありません。
ただ少し顔を洗いたくなっただけです」
気分の悪さは変らずだった。
けれどそれを決して悟られぬよう、趙雲はいつも通りの表情を作る。

やはりそこにいたのは馬超だった。
金の髪が闇夜の中でも映えていた。
いつもと変らぬ不敵な笑みを口元に刻んで馬超が立っていた。
色素の薄い瞳がまっすぐに趙雲へと向けられている。

とてもこの男と話したい気分ではなかった。
けれど逃げるような真似はしたくはない。
まるで何もかも見透かしているかのような馬超の瞳を、趙雲は睨みつけるように見返した。

「貴方の方こそこのような夜更けに如何されたのですか?」
すると馬超は小さく笑い声を漏らす。
「貴方が俺を呼んでいるような気がしたもので」
「…自惚れも大概になさるといい。
私が貴方など呼ぶ訳ないでしょう」
趙雲の冷たい眼差しをさらりと受け流し、馬超は肩を竦めた。
「相変わらずつれない人だ。
少しは俺の想いに応えてくれても良いでしょうに」

相も変らぬ物言いに、趙雲は呆れたように溜息を落とす。
「ここは戦場ですよ、馬超殿。
そのような軽口を申すべき場所ではありません」
「戦場だからこそですよ、趙雲殿」
「何を言っているのです?」
「こんな場所だからこそ、いつもに増して貴方が欲しいと思うのですよ。
欲を散らすための女もいない戦場だからこそね。
武器を揮い相手の肉を断ち、その血を浴びる。
あの心地よい昂揚感が欲情を駆り立てる。
貴方を抱きたいと―――貴方が快楽に溺れる姿を見たいのだと」
馬超の目がすっと愉悦を湛えてすっと細められた。
趙雲もまたそれに負けじと鋭い視線で馬超を射る。
「何度言えば分かるのです?
私は貴方に抱かれてやる気はさらさらありませぬ。
第一貴方が言うような欲情など私は持ち合わせてはいません」

何故抱きたいなどと思うのか。
身体を重ねなくても、生きていくことに支障はないではないか。
まして同じ性を持つものが抱き合ったとてそれが何になる。
何も生み出すことなどない不毛な行為ではないか。
女とならば子も為せようが。
けれど子孫を残すという目的ではないのならば、女にしろ抱くことに意味があるのか。
いくら抱き合ったとて、所詮別々の人間がひとつにはなれない。
心の底から分かり合えることなど出来はしないのに。

「貴方は女を抱いたことはおありか?」
唐突に投げかけられた馬超の問いに、趙雲は一瞬目を瞠る。
まるで自分の心の中を見透かされているようだ。
咄嗟に答えを返せない趙雲を、馬超は可笑しそうに見つめている。
「貴方に……それを答えねばならない謂れはありません」
ややして趙雲はそんな驚きを冷めた表情の下に隠し、口を開く。
「貴方はどんな風に女を抱く?
愛の言葉を囁きながら、口付けるのか?
激しく愛撫を繰り返して、掻き抱くのか?
それとも―――身体を重ねたことはないのか?」
趙雲の答えなど意に介さぬ様子で、馬超は続けざまに問うた。

湧き上がってくる苛立ちを、趙雲は身の内の抑え込んだ。
ここで感情を昂ぶらせては、この男の思う壺なのだ。
いつもこうして自分を怒りに駆り立て、それを見て世迷言を口にするのがこの男の手管なのだから。

「清廉潔癖という―――それもまた周囲が貴方に被せた仮面の一つか。
貴方からは不思議なほど…性の香りがしない。
それは被せられた仮面の為せる技か。
それとも……貴方自身がそれを隠れ蓑として、これ幸いと性的なことを避けているですか?
俺には貴方が、そういったことを嫌悪しているように思えてならないのですよ」
憐れむように、けれど残忍な光を瞳に宿して馬超は言う。
まるで獲物を追い詰める獣のそれだ。

予想通りだ。
また訳の分からぬことを言い出した。
自分は性的なことを嫌悪などしていない。
ただそのことに意味が見出せぬだけだし、自分はそういった行為がなくとも何ら支障はないのだ。
それをこの男が勝手な想像を並べ立てたに過ぎない。
やはりこの男は頭がおかしいに違いない。
憐れまれるべきは自分ではなく、この男の方ではないか。
趙雲は至ってそう冷静に判断する。





なのに―――





冷えた頭とは対照的に、心臓が激しく脈打っている。
喉に何か張り付いたように声が出ない。
額には汗が滲んでいた。





―――な…さい……。
ごめんなさい……。





同時に頭に響いてくる幼い声。
そして嗚咽。





「どうされた?趙雲殿。
酷く顔色がお悪い」
くつくつと低い笑いを漏らしながら、馬超がゆっくりと近付いてくる。
動きたいのに、意志に反して身体はまんじりともしない。

視界が歪む。
意識が闇に吸い込まれていくような感覚。
そうして身体がぐらりと傾いた。

馬超の手が伸びてくるのが目の端に映る。
趙雲を捕らえようとするかの如く。
危険だと本能が告げている。
あの手に囚われれば、もう二度とそこから逃れることは叶わぬのだと。

気力を振り絞り、渾身の力でその手を払いのけた。
倒れそうになった身体を寸での所で支える。
その勢いで趙雲の肩に掛けられていた馬超の衣が背後の川面へと落ち、流されていく。





冷ややかな漆黒の瞳と、心底愉しげな薄茶色の瞳が絡み合う。





沈黙を先に破ったのは趙雲だった。
「気分が優れません、失礼します」
身体が鉛のように重い。
それでもそれを決して感じさせぬ足取りで、趙雲は馬超の脇を通り過ぎた。

「貴方は一体いくつの仮面を被せられているのでしょうね。
その全てを剥がしたい。
それらを脱ぎ捨てた本当の貴方はどんな人なのか―――想像しただけで心が躍りますよ」
去り行く趙雲の背に、馬超はそう言葉を投げかけた。
「お大事に―――お休みなさい、趙雲殿。
よい夢を」

趙雲はそれを表情を変えぬまま黙殺し、己の陣幕に向かった。
ほんの少しのその距離が、ひどく遠く感じる。
ようやく目指す場所に辿り着き、幕の中へ身を滑り込ませると、趙雲は寝台に倒れ込んだ。

「…うっ……は…っ…」
呼吸が上手く出来ない。
苦しさに耐えるように寝台に爪を立てる。

頭の中で未だ繰り返し響く、謝罪の言葉と泣き声。
強くかぶりを振ってもそれは収まるどころか、激しさを増す。
脳裏に浮かんで来たのは、夢に見たあの少年の姿。

「や…めろ……」
苦しげな息の下から趙雲は搾り出すように声を漏らす。
「私は……違う…。
震えて…泣くことしか出来なかった…もうあの頃の私では―――





そのまま趙雲の意識は途絶えた。





闇の中、再び現れたあの少年は―――頭上から足元まで全てが紅に染まっていた。
その鮮やかな色彩の中。
少年は静かに嗤っていた。






written by y.tatibana 2004.05.04
 


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