L-side - No3

誰もいない鍛錬場で槍を振るう。
早朝の身を切るような冷たい空気に、吐き出される息も白い。
こうやって唯一人、無心に槍を振るうことが趙雲は好きだった。
昔は己の技を磨くことだけに全てを傾けられた。
だが劉備が国を持つまでになり、趙雲も五虎大将と呼ばれるまでの身分になった今では、自分の事よりも国の為の様々な雑事に時間を取られることが多くなった。
劉備の大義の為に仕えてきた趙雲にとってそれは喜ぶべきことであり、不満などはもちろん持ち得てはいなかった。
ただこうして槍を振るうことが息抜きになることもまた事実だった。

どれくらいそうしていただろうか。
何者かが近付いてくる気配を敏感に感じ取って、趙雲は手を止めた。
その姿を認めると、趙雲は思わず眉根を寄せた。
だがそれは一瞬。
すぐに趙雲はいつもの感情を包み隠した冷静な表情を作る。
「朝早くからこのような場所へ如何されました?馬超殿」
ふいに現れた馬超は何が可笑しいのかうっすらと笑みを浮かべている。
「昨夜共にした女がなかなか離してくれず、今しがたようやく解放されたのですよ。
屋敷に帰るよりも城の方が近かったのでね。
こちらで一息つこうと思ったら、鍛錬場から気配を感じたので来てみたのです」

馬超の女関係は相変らずのようだ。
そう言った噂はよく耳にはしていたが、将としての勤めにさえ支障をきたさなければ自分には関係のないことだと趙雲は思っていた。
だがそんな男が自分を抱きたいのだという。
本気なのかからかっているだけなのか、馬超の意図は未だに趙雲には分からなかった。
分かろうとも思わないし、興味も無い。
抱かれてやるつもりなどもちろん更々なかった。

「相変らずですね。
このような時間から鍛錬とは」
「貴方には関係のないことです。
御用がないのでしたらお引取りを」
冷たく言い放つ趙雲の言葉を、馬超は歯牙に掛けるでもない。
「そんなに俺といるのがお嫌ですか?
―――怖いのでしょう……趙雲殿?
俺に心の中に入って来られて、自分を乱されることを恐れている」
趙雲はきつく馬超を睨め付けた。
―――それ以上の愚弄……許しませんよ」
対する馬超はやはり楽しそうだ。
「そのような瞳は逆効果ですよ。
貴方のその強い瞳が俺を更に駆り立てる。
貴方を抱きたい……思うが儘に乱したい…その衝動に拍車を掛けるのです」
「黙りなさい!」
趙雲は握り締めていた槍を馬超の咽元に突き付けた。
それでも馬超の表情は何一つ動かない。
「おやおや、これしきの事で怒っていらっしゃるのか?
常に冷静沈着だと言われている貴方らしくもない。
それともそれが貴方の本性なのかな?」
言われて趙雲はハッとした。
気付かぬうちに馬超の言葉に過敏に反応し過ぎて、随分と感情が昂ぶっていた。
このままではこの男の思う壺だ。
俯いて一度大きく息を吸い込むと、顔を上げた。
「……貴方には何を言って無駄のようですね」
低く、底冷えのするような声色。
趙雲は槍を下ろすと、壁際に立てかけてあった別の槍を指す。
「取りなさい、馬超殿。
言葉で言って分からならぬのなら、力で捩じ伏せるまで……」
馬超は溜息と共に肩を竦めてみせる。
「やれやれ……本気で怒らせてしまったかな。
仕方がない」
鋭い視線を向けてくる趙雲に馬超は薄く笑うと、ゆっくりと壁際の槍を手に取る。

その瞬間―――馬超の纏っていた雰囲気が一変した。
いつもの掴み所の無い、飄々としたそれではない。
周りの空気が張り詰めるような感覚に趙雲は思わず目を見張った。
ゆるりと背を向けていた馬超が振り返る。
いつも口元に浮かんでいる不敵な笑みはない。
色素の薄いその瞳は冴え冴えとした光を宿し、しっかりと趙雲を捕らえた。
まるで獰猛な獣が獲物に狙いを定めるように。

蜀に降って日の浅い馬超と共に戦場に出たことはなかったし、馬超が真剣に鍛錬している姿も見たことがなかった。
正直劉備が厚い礼をもって迎える程の価値があったとはとても思えなかった。
だが…、今初めて趙雲は武人としての馬超を見た。
槍を構える馬超には一部の隙も無いように思える。
常人ならざる強さをはっきりと趙雲は感じた。

これがあの名高い西涼の錦馬超―――

だからと言って負ける気などしなかった。
それでこそ叩き潰す甲斐がある。
そうしてもう二度と戯言など言えぬようにしてくれよう。

負けじと馬超を見返し、趙雲もまたゆっくりと手にした槍を構える。
お互い相手の出方を伺うようにしばらくじっと動かなかったが、ややして先に仕掛けたのは趙雲だった。

カツン……ッ!

鋭い金属音―――
趙雲の繰り出した一撃を馬超は己が槍で冷静に受け止め弾き返す。
そのまま今度は馬超が突けば、趙雲はひらりとそれを躱す。
互いの槍がぶつかり合う音だけが、幾度も静寂の中に響いた。
と、一陣の風が吹き抜け、砂煙が舞った。
視界が遮られる。

そして再び訪れる静寂―――

各々の喉元にぴたりと突き付けられた槍先。
そのままお互い肩で荒い息を整えながら動かない。
その危うい均衡を破ったのは馬超だ。
趙雲に向けていた槍を下げ、そのまま地面へと落とす。
両手を小さく挙げ、フッといつもの不敵な笑みを浮かべる。
「参りました。
流石は趙雲殿」
戯けた口調。
先程までの研ぎ澄まされた気配は最早欠片もなかった。
「……まだ勝負はついていませんよ」
趙雲の槍先は依然馬超に突きつけられたままだ。
「これ以上やればどちらかが死ぬ。
俺はまだ死にたくはないし、貴方が死ぬことも本意ではない。
潔く負けを認めますよ」
言って、汗で額にはり付いた金の髪を掻き上げる。
「どうせ汗を流すのなら、貴方とはもっと別のことがしたいのだが…。
閨で……ね。
さて…敗者は大人しく退散しましょう」
自分に突きつけられている槍などは目に入っていないかのように馬超は身を翻した。
趙雲はその馬超の背に厳しい視線を投げかけたまま、しばらくその場に佇んでいた―――





正直趙雲は驚いていた。
まさか馬超があれ程の力量の持ち主であったとは…。
劉備に呼ばれた趙雲は城の回廊を歩きながら、今朝の事を思い返していた。
己の力を過信している訳ではなかったが、自分と対等に渡り合える人間にあったのは随分と久方ぶりだった。
槍を構えた馬超を見て強いとは感じた。
だが実際手合わせしてみるとそれは想像以上だった。
趙雲の攻撃を受け流しつつ反撃しながら、馬超は趙雲の次の攻撃がどこにくるのかを予め予想しているようだった。
だから動きに全く隙が無い。
あのまま続けていれば馬超の言うようにどちらかが命を落としていただろう。
果たして倒れるのはどちらだったのか。

その時、急に柱の陰から差し出された腕。
思索に耽っていた趙雲はそれに反応するのが遅れた。
気付いた時には、背後から強い力で抱きすくめられる格好になっていた。
くすくす…と趙雲の耳元で楽しそうに笑いを漏らす声。
それは今しがた趙雲の思索の中心にいた張本人。
―――ッ!
馬超殿!
何をするのです、放しなさい!」
趙雲はその腕から逃れようと懸命に身を捩る。
だがしっかりと趙雲の胸と腰に廻された腕はぴくりとも動かない。
身長自体はそれ程変わりは無かったが、体格では馬超の方が勝っている。
背後から押さえ込まれているこの体勢は余りにも不利だ。
いくら力を込めてもがいてみてもやはり振り解けない。
「馬超殿!
ここが禁中ということをお忘れか?
戯れもいい加減になさい!」
怒気を含んだ趙雲の言葉を聞いているのかいないのか、馬超は変わらず趙雲を離す気配はない。
「嫌なら己の力で逃れてみればいい」
馬超は趙雲の耳元に唇を寄せた。
「貴方は今朝仰いましたよね。
言葉で言って分からぬのなら、力で捻じ伏せると。
ならば俺もそれに倣おうかと思ったのですよ。
無理強いはしたくなかったのですが…貴方はいくら言っても俺の言葉を信じてはくれないようなので」
呟きつつ、馬超は趙雲の耳朶を軽く噛む。
ぞくり…趙雲の肌が粟立った。
「…くっ…」
馬超の唇は趙雲の細い首筋を滑り落ち、徐々に下に降りてくる。
そうして項に顔を埋めるようにして、そこに繰り返し口付けてきた。

背筋を駆け抜けるのは悪寒か…それとも…―――
そんな筈はないと、力が抜けそうになる体を叱咤して、趙雲は激しくかぶりを降る。
「や…めなさい!」
だが返ってくるのは愉し気な笑い声。
「このままここで貴方を抱いてしまおうか?
手も足も縛り付けて―――滅茶苦茶に」
後ろにいる馬超の表情は趙雲からは窺えない。

まさかいくらこの男でもいつ人が来るともと知れないこの場所で本気でコトに及ぼうとは思ってはいまい。
けれど逆にこの男ならばやりかねないという思いもまた趙雲にはあった。
この男の何もかもが趙雲の理解の範囲を越えているのだ。
こんな所で辱めを受けるくらいなら、舌でも噛んで死んだ方がマシだ。
だが劉備が大義を成し遂げるその時まで、自分は死ぬ訳には行かない…そう誓ったから。
第一何故、この男の好きにされて命を絶たねばならないのか。
―――馬鹿馬鹿しい。

趙雲の中でこれまでにない怒りが渦を巻く。
それが驚く程の力になった。
―――!」
渾身の力で馬超の縛めを振り解いた。
逃れた瞬間…振り返る。

―――鈍い音がした。

趙雲は拳を握り締めたまま、侮蔑と怒りの入り混じった瞳で馬超を射抜いた。
腹を押さえ俯いていた馬超は二、三度咳き込むと、ゆっくりと顔を上げた。
「痛っ…、手加減なしですか…。
流石に、キツい…―――
苦しげに眉根は寄せているが、やはり馬超の口元には微かに笑みが浮かんでいる。
それが更に趙雲の怒りを増幅させる。
振り向きざま思い切り殴りつけたが、そんなものではとても足りない。
ここが禁中ではなく、武器さえあればとっくに叩き斬っている。

「良い表情だ」
唐突に馬超は言う。
「…どういう意味です?」
「いつもの取り澄ました顔よりも、そうやって感情を露にしている方が余程良い。
常に冷静沈着で、人望も厚い長坂の英雄―――
そう思っている周りの人間が今の貴方を見たらどう思うだろう?
だが…そんな周りが付けた仮面など脱ぎ捨ててしまえばいい。
本当の貴方を見せて御覧なさい」

この男は…。
一体何処まで人を虚仮にすれば気が済むのか。
確かに今自分はらしくもなく随分と感情的なっているという自覚はあった。
どうしようもない屈辱感と怒りに感情の制御がままならない。
武人として男として、あのような事をされて平気でいられる人間がいるのだろうか。
だが、自分はそんな仮面など被っているつもりは毛頭ない。
自分を厳しく律して、常に冷静であろうと心掛けているのは自身の考えだ。
誰に指図された覚えも無い。

そんな趙雲の心を見透かしたように馬超は溜息を落とす。
「かわいそうに―――
貴方は自分が仮面を被せられ、幾重もの鎖に縛られている事すら気付いてはいないのか…」
「…言いたいことはそれだけですか?」
何故だか自分の昂ぶった心が急速に冷やされていくのが分かった。

「おや…馬超殿と趙雲殿ではありませんか」
凍り付いていた空気は、その声によって破られた。
びくりと肩を揺らし、趙雲は振り向く。
そこに立っていたのは蜀の丞相、諸葛亮孔明。
羽扇を片手に悠然と微笑んでいる。
「お二人ともこのような所で何を?
―――あぁ、そう言えば趙雲殿…主公に呼ばれているのはありませんか?
先程主公の元へ伺った折、そのように仰られていましたから。
待っておられるようでしたよ」
その言葉に趙雲は我に返る。
切替は素早かった。
一度目を閉じ開けた時には、趙雲の漆黒の瞳にはどんな感情の色も浮かんではいなかった。
「申し訳ありません。
すぐに参ります。
―――では失礼」
諸葛亮に拱手すると、趙雲はそのまま馬超には一瞥もくれることなく歩き去った。

その後ろ姿が見えなくなると、諸葛亮は柱に腕を組んで凭れ掛かっている馬超へと視線を移す。
「ふふっ…感謝して下さいよ、馬超殿。
あのままだと貴方、最低でも骨の一、二本は折られていましたよ」
「礼を言った方が良いのかな?
やれやれ、怖い人間に借りを作ってしまったな」
「心にもないことを。
私がいること気付いておられたのでしょう?
丁度貴方が趙雲殿に殴られる辺りでしたか…。
まさか貴方が殴られる瞬間を目にしようとは思いもよりませんでした。
なかなかの見ものでしたよ。
しかもあの趙雲殿をあそこまで激昂させるとは…初めて見ました、あのような趙雲殿は。
随分楽しませて頂いたので、今回の貸しは無かったことにして差し上げましょう」
クツクツと可笑しそうに笑う諸葛亮は全く悪びれている様子もない。
「私が割って入ることが分かっていて、趙雲殿を煽られていたのでしょう?」
馬超も気分を害した様子はまるでなく、人の悪い笑みを浮かべている。
「さて…どうかな」
「しかし貴方もまたとんでもない人間を手に入れようと望まれる。
どんな女よりも手強いですよ、あの人は」
「それでこそ手に入れる甲斐があろうというもの」
諸葛亮はわざとらしく大仰に溜息を吐き、趙雲の去って行った方向に目をやる。
「趙雲殿に忠告してあげたい。
拒めば拒む程、それは獣の征服欲を更に掻き立てているのだと。
ああ…でも、まだ趙雲殿を抱いてはいないのですか?
体だけならば無理矢理にでも手に入れるかと思っていましたよ。
折角この間わざわざ趙雲殿宛ての書簡を貴方に託して、機会を作って差し上げたのに」
「あの時は危うく殺されかけましたよ…。
先程の事といい、流石は趙子龍殿…簡単には抱かせてくれません。
こちらも命がけだ」
馬超は肩を聳やかしてみせた。
「ふっ……その割に随分と楽しそうではないですか」
「俺はあの人の本性を暴きだして、乱してみたい。
その為に仮面を剥ぎ取り、あの人を縛りつける鎖を引き千切りたいのですよ。
あの人が自分から俺に身を委ねてくるように―――
馬超の瞳に宿るのはまさに獲物を狙う獣のそれ。
普通の人間ならばそれだけに恐怖に後じさりしそうな威圧感。
だが諸葛亮は楽しげに目を細めて馬超を見返す。
「貴方のお手並みしかと拝見させて頂きますよ。
いらぬお世話でしょうが、出来得る限り私も協力いたしましょう」
「良いのですか?
もしかしたら俺は趙雲殿を手に入れるどころか壊してしまうかもしれませんよ。
この国にとって大事な武将でしょうに」
「壊れてゆくのならそれもまた一興―――
私は退屈で堪らないのですよ。
何の変化もなく過ぎていく日々が。
魏呉という敵国はあれど、この成都は戦いとは無縁です。
これこそ誰もが望む姿なのでしょうが……私の心は渇く一方です。
時折何もかも破壊してしまいたくなる」
そっと顔を羽扇で覆い隠す。
「龍が虎の牙に堕ちるか…それとも龍が虎の喉元を喰い千切るか―――興味深いではありませんか。
壊れるのならそれもいい。
せいぜい私も愉しませて頂きますよ、馬超殿」
羽扇の下から投げかけられる狂気を孕んだ双眸。
「恐ろしい人だ」
その言葉とは裏腹に、馬超の口調には明らかな愉悦が滲んでいる。
「貴方ほどではありませんよ」

―――絡み合う視線。
馬超と諸葛亮―――お互いの中に二人は何を見て取ったのか。
同時に視線を外すと、それぞれ逆方向へと何事もなかったかのように歩み出した―――






written by y.tatibana 2003.06.04
 


back