L-side - No2 |
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―――貴方を抱きたい。 そう馬超は告げた。 趙雲はそれを本気だなどとは思わなかった。 当然の如く拒絶した。 それが全てだ。 趙雲の中ではもう全て終わったことだった。 馬超が何を思ってあのような事を告げたのか、趙雲には理解できなかった。 恐らくからかわれただけなのだろう…。 それ以上のことなど知りたくもなかったし、考えるだけ時間の無駄だ……そう思っていた。 馬超の一時の戯れに付き合わされた事は腹立たしかったが、馬超は劉備が手厚く迎え入れた人物。 ましてこれから共に戦場に立つことになる男だ。 その馬超に対して、あれしきの事でいつまでも目くじらを立てるほど趙雲は子供じみてはいない。 馬超の色事に関する噂は相変わらずのようだった。 時折耳にするそれを趙雲は以前と変わらず何ら気に止めることもなかった。 武将としての勤めに支障をきたさないのならば、それでいい。 趙雲自身は日常においても、戦場においても常に自分に厳しく生きてきたつもりだ。 だが、それを他人に求め強要するほど愚かではない。 馬超は言った。 「そのようにいつも厳しく自分を律して生きていて、息苦しくはないのか」 と―――。 答えは「否」だ。 趙雲にしてみれば、馬超の奔放さこそ余程奇異に映る。 人とは結局そういうものだと趙雲は思う。 本当に分かり合えることなど出来はしないのだ。 だから相手の事を知ろうとも思わないし、自分の事を知ってもらおうとも思わない。 あれ以後、馬超と顔を合わす機会は多々あったが、趙雲は特に何を言うこともなかった。 だた以前と同じく軽く挨拶を交わす程度だ。 馬超の方も特に何かを言ってくる訳でもない。 あのからかいの色を含んだ目と不遜な態度は相変らずではあったが―――。 兵を預かる将として日々に忙殺されていく内に趙雲は、馬超との一件は記憶の中から追いやられていった。 戸を叩く音がした。 城の一角…趙雲が執務を執り行う為に賜っている部屋の戸を。 もう既に日は落ち、配下の者達も下城していた。 不審気に趙雲は眉根を寄せ、傍らに置いてあった剣を手に取るとゆっくりと戸に近づく。 「どなたか?」 「俺です……趙雲殿」 聞き覚えのある声。 静かに戸を開けるとまず目に入ったのは、闇の中に浮かぶ金の髪。 「馬超殿…。 このような時間に何か御用ですか?」 「諸葛亮殿から貴方にお渡しするよう書簡を預って参った」 暗闇に紛れてその表情は窺い知れない。 「貴方がわざわざ?」 そのようなことならば、配下の者に任せれば良いこと。 ましてこのような時間に……。 「何か重大な書簡なのですね?」 そうとしか趙雲には考えらなかった。 すると目の前の男が鼻で笑う気配がした。 「相変らずだな……貴方は。 職務の事しか頭にないと見える。 このような時間まで勤めているのは貴方と諸葛亮殿くらいのものですよ。 ご心配なさらずとも取り立てて重大な書簡ではない。 明日でも構わないと諸葛亮殿が言っておられましたからな」 言いながら馬超は部屋の中に入って来た。 そうしてそのまま部屋の奥まで進み、正面に据えられている趙雲の執務机に書簡を置いた。 馬超が趙雲の脇を通り抜けた瞬間、鼻腔を擽る女の匂い。 趙雲は不快気に唇を歪め、馬超を厳しい視線で見遣る。 だが馬超は趙雲に背を向けたまま、振り向こうともしない。 「では何故ここに来られたのです? 火急の用ではないのでしたら、お引取り下さい。 私にはまだ成さねばならぬ用があります故」 その言葉に馬超は可笑しそうに笑った。 そうしてようやく趙雲の方を振り返る。 「貴方に会うにはそれ程までに理由が必要なのですか? 俺はただ貴方に会いたかった……。 それだけだ」 「貴方の仰ることは私には理解できませぬ。 私に会いたい? 特に親しい間柄でもない我らが用件もなく会うことに、一体何の意味があるというのです?」 「貴方は忘れておられるのか?」 ゆっくりと馬超が趙雲の方に近づいてくる。 口元に笑みは浮かべているが、目は鋭く光っている。 肉食の獣のを連想させるそれに、趙雲の肌は本能的に粟立った。 だが趙雲も負けじと冷たく強い瞳で馬超を見返した。 「ふふ…その瞳ですよ、趙雲殿。 俺を捕らえて離さないのは」 馬超は戸口の脇に佇む趙雲の前に立つと、彼の逃げ道を阻むように片手を戸につき、もう一方の手で趙雲の顎を捕らえ上向かせた。 「俺が貴方を抱きたいと言ったことをお忘れか? 俺は貴方を必ず手に入れると言った筈だ。 だからこうして参ったのですよ。 愛しい貴方に会うために」 間近迫る色素の薄い馬超の瞳を、怯むことなく趙雲は底冷えのするような醒めた視線を変わらず投げかけている。 「お戯れも大概になさい、馬超殿。 貴方の戯言に付き合っていられる程、私は暇ではありませぬ」 「戯れ…? まだ信じては頂けないようだ。 あれほど本気だとあの時何度も言ったというに。 本当に頑なな人ですね、貴方は」 「……本気であろうがなかろうが、私は貴方に抱かれてやる気など微塵もありません。 言った筈です、私は貴方のことを知りたいなどとは思わないと。 お引取りを」 その言葉を聞いているのかいないのか、馬超は趙雲から身を離す気配はない。 そうして投げかけられた言葉―――。 「どうして、それ程に人との関わりを厭われる?」 趙雲の瞳に僅かだが感情の色が走った。 「……私は人との関わりを厭うてなどおりません」 「そう…表面上は。 貴方は誰とでもそつなく付き合ってきたのだろう。 だが、決してその深い所までは何人たりとも立ち入らせはしない。 その心に触れようとするものを頑なに拒む」 「知ったようなことを……。 私の心など貴方には分かる筈もないというのに。 勝手な事を仰らないで下さい」 「図星……か。 貴方は怖いのでしょう?趙雲殿。 自分の心の奥深くに入ってこられ、自分を乱されるのが怖いのだ。 他人を知ろうとするのも同様に…」 「言いたいことはそれだけですか?」 冷たい声色。 趙雲の目にはもはや何の感情も浮かんではいなかった。 「おや…図星を指されてお怒りのようですね。 そのように感情を押し殺していても、俺には分かりますよ。 ―――俺は貴方のその心の底に到達してみせよう、必ず。 そうして貴方の中に潜む本性を暴き出し、思うが儘に乱させたい。 俺の腕の中で乱れる貴方の姿を思うだけで、ゾクゾクする…。 清廉な貴方が快楽にのたうつ様が見たい…」 馬超の顔がゆっくりと近づいてくる。 趙雲は微動だにせずに、無機質な目で近づく馬超を見ていた。 唇が触れるかという瞬間、馬超はクスっという笑いと共に趙雲から身を離した。 「こういう時は目を閉じるものですよ、趙雲殿。 …だが、あののまま口付けていたら、その瞬間俺は貴方のその手に持つ剣で斬られていたのでしょうね。 貴方を抱くまでは死ぬわけにはいかないのでね……口惜しいが諦めましょう。 では、よい夢を、趙雲殿」 そう言い残し、現れたときと同じ唐突さで、馬超は去って行った。 本気で斬ってやるつもりだった。 馬超が唇に触れていたなら、その瞬間に―――。 一方的に勝手な言葉を並べ立てていった馬超に趙雲は本気で怒っていた。 それと同時に人との関わりを厭っているとの馬超の言葉に一瞬でも感情を見せた自分が許せなかった。 そう…、自分は決して他人をある一定の距離から自分の中へ踏み込ませないようにしてきた。 表面上は人当たり良く振舞ってはいたが、その距離を踏み越えようとする者を立ち入らせることは決してなかった。 だがそれを他人に気付かせてはいない自信があった。 現に今まで趙雲にその事をを指摘した人間などはいなかった。 それをまだ知り合って間もない馬超にいとも容易く指摘され、思わず動揺が走ったのだ。 しかし、他人を一定の距離から踏みこまさせないのは、馬超が言っていたような自分を乱されるのが怖いからなどということでは断じてない。 他人に煩わされる時間が無駄なのだ。 決して他人とは分かり合えないのに、それでも相手を知ろうとするその労力も無駄なのだ。 自分には劉備を助け漢王室を復興させるという大義がある。 その為に成すべきことは多い。 他人に構っている時間などない。 仮に万が一誰かが自分の中に踏み込んできたとしても、自分は決して乱されることなどない。 それ程自分は脆くはない。 だが、馬超の言葉…そして馬超という男の存在が硬く閉ざされた趙雲の心に小さな波紋を投げかけた。 それは趙雲自身も気付かぬ程僅かなものだったけれど。 やがてその僅かな波紋は、大きな波となり趙雲の心を飲み込むものとなるのかもしれなかったが……。 今の趙雲がそれに気付く筈もなかった。 written by y.tatibana 2003.03.19 |
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